膜の向こう、草原
家に着いた頃には、空がほとんど黒になっていた。
住宅街の灯りが、昼には見えない色で並んでいる。
「ただいま」
玄関で靴を脱ぐと、台所の方から母の声が返ってきた。
「おかえり。今ごはん作ってるから、先お風呂入っておいで」
「はーい」
透は自分の部屋に鞄を放り投げて、制服のままベッドに腰を下ろした。
今日は変に疲れている。体じゃない。頭が。
スマホを開いて、SNSを眺める。
いつも通り、ゲームの話と、受験の愚痴と、しょうもない動画。
――なのに。
スクロールしていると、指がたまに止まる。
「空気が揺れた」
「一瞬だけ世界がズレた」
そんな言葉が、妙に目に入る。
偶然だ。
そう思いたいのに、目が拾ってしまう。
「……気のせい」
透は小さく呟いて、画面を閉じた。
風呂を出ると、リビングにテレビの音が流れていた。
夕方から続いているようなバラエティ番組。
笑い声が、いつもより少しだけ遠くに聞こえる。
ガチャ、と玄関がなった。
父が帰ってきた。
スーツのまま「ただいま」と言って、ネクタイを緩めながら席につく。
家族がそろった。
「いただきます」
母が味噌汁を置いて、澪が箸を取った。
澪は中三で、思春期っぽい面倒くささはあるけど、家の中ではそこまで尖っていない。
テレビの中で芸人が騒いでいる。
母はそれを見て笑い、澪は「うるさ」と言いながらも口元が少しだけ緩んでいる。
「透、学校どう?」
母が何気なく聞いてくる。
「普通」
「進路、先生に結構言われる?」
「まあ、言われた。早く決めろってさ」
父が「そりゃ言うだろ」と笑った。
「別に、焦らなくてもいいけどな。大学行くなら行くで、ちゃんと考えりゃいい」
父の言い方はいつもそうだ。
心配はしてるのに、押し付けない。
透はそれがありがたい反面、逃げ場にもなっている気がした。
「透は理系でしょ?」
澪が突然言った。
「なんで」
「なんとなく。国語より数学の方がマシそう」
「褒めてんのかそれ」
「褒めてない」
澪は顔を上げずに言い切る。
思春期っぽいが、別に刺々しくはない。いつも通りだ。
透は、箸を動かしながら、ふと耳を澄ました。
――ぷる。
気のせいかと思った。
でも、違う。
皿が揺れたわけじゃない。音もない。
ただ空気だけが一瞬、薄い膜みたいに震えた。
透は箸を止めた。
「……今、なんか」
「なに?」
母が不思議そうに見る。澪も顔を上げる。
「いや、何でもない」
言っても通じない。
自分でも説明できない。
部屋に戻ると、透はまたスマホを開いた。
つい、開いてしまう。
さっきより「揺れた」系の投稿が増えている気がした。
場所がバラバラだ。海外の翻訳も混じっている。
その中に、短い動画が流れてきた。
暗い場所で、誰かが息を切らして走っている。
画面が揺れて、突然――視界が開けた。
そこにあったのは、地下へ降りるコンクリートの階段だった。
どこにでもあるはずの階段なのに、空間の“整い方”が変だ。
作り物みたいに綺麗で、逆に気持ち悪い。
階段の先に、薄い膜が張っている。
水面みたいに揺れているのに、落ちてもいない。
撮影者が、少しだけ近づく。
膜の向こうが、一瞬だけ見えた。
――草原だった。
夜の地下のはずなのに、向こう側だけ昼みたいに明るい。
風で草が揺れている。
コメント欄は荒れていた。
『CGだろ』
『合成』
『生成AI』
『いや無理ある』
『場所どこ?』
『近づくなって』
動画の奥で、何かが横切った。
小さい。速い。
四つ足。……でも、普通の動物の動きじゃない。
一瞬だけ、角みたいな突起が見えた気がした。
動画はそこで終わった。
透は息を止めていたことに気づいて、ゆっくり吐いた。
「……なにこれ」
怖いというより、認識が追いつかない。
見れば見るほど、作り物に見えない。
寝よう、と自分に言い聞かせて布団に入る。
でも目が冴える。
――ぷる。
眠りに落ちかけたところで、またあの感覚が来た。
空気がほんの一瞬だけ震える。
目を開ける、何も変わっていない。
「……まただ」
透は枕に顔を押し付けて、無理やり目を閉じた。
翌朝。
リビングのテレビが、いつもより早くついていた。
朝の情報番組。テロップが大きい。
『海外で謎の地下構造物 拡散する映像 当局が調査』
母が台所から顔を出して言った。
「また変なニュースやってるよ」
画面には、昨夜見たのと似た映像が流れていた。
階段。膜。草原。
そして、ぼやけた影。
アナウンサーが言う。
「現地では“ダンジョン”と呼ぶ人もいて――」
透の手が止まった。
箸を持ったまま固まる。
ダンジョン。
漫画やゲームの中の言葉が、ニュースから聞こえる違和感。
「…ダンジョンって」
澪は口を尖らせる。
「やば。オタクが命名してんの?」
「でもわかりやすいよな」
父が珍しく乗った。
「地下に降りていく、入口。迷宮。確かにそれっぽい」
母はまだ半信半疑の顔だ。
「本当にそんなのが急にできるの?」
透は答えられなかった。
できるわけがない。
そう言いたいのに、昨日からの感覚がそれを邪魔する。
番組は続けて、別の映像を出した。
今度は都会の裏路地らしい。
ビルの間の細い道。
行き止まりに、黒く深い“穴”が口を開けている。
規制線。警官。野次馬。
アクセスしやすい場所にあるからこそ、映像の回り方も速い。
「うわぁ…近所にあったら最悪」
澪が言った。
透は、言葉が出なかった。
慧の顔が浮かんだ。
透はスマホを取って慧にメッセージを送った。
『ニュース見た?』
送信してすぐ、既読はつかない。
透はテレビに戻した視線の先で、画面の端が一瞬だけ揺れた気がした。
もちろん、気のせいだ。
……気のせいであってほしい。




