欠けた警告、違和感
校舎を出ると、空気が冷たかった。
昼間のぬるさが嘘みたいに、肌に張り付く。
慧と並んで歩きながら、透はさっきの言葉をまだ引きずっていた。
――世界は思ったより勝手に動く。
「なあ、慧」
「ん」
「さっきのやつさ……やっぱ変だよな」
「変だな」
慧は即答した。
否定しない。笑わない。
それだけで、余計に現実味が増す。
二人は駅とは逆方向、住宅街の方へ曲がった。
透の家は徒歩圏内だ。慧も途中まで同じ道。
コンビニの前を通り過ぎるとき、透はスマホを取り出した。
画面を開いて、ニュースアプリを適当に眺める。
地震速報は、ない。
「出てないな」
「出てない」
慧もスマホを見ていた。
指が早い。検索の癖が出ている。
「SNSとかは?」
「……あ」
慧が一瞬、目を細めた。
「『空気が揺れた』って投稿がちょいちょいある。場所バラバラ」
「まじか」
透の喉が少し乾く。
「でも、これ……」
慧は画面を見ながら言った。
「ネタっぽいのも混ざってる。『世界線がズレた』とか。冗談のテンプレ」
「そりゃそうだろ……」
透は笑いそうになって、やめた。
笑えない。
ちょうどそのときだった。
――ぐにゃ。
音はしない。
風も吹いてない。
なのに視界の端、道路の向こう側が一瞬だけ柔らかく歪んだ。
透は立ち止まった。
「今……」
「あぁ」
慧も止まっている。
二人とも同時だ。
目の前は、何も変わっていない。
車も走っていない。
電柱も、標識も、ただそこにある。
でも。
透は、胸の奥が妙にざわつくのを感じた。
吐き気じゃない。怖さでもない。
もっと――“間違ってる”に近い感覚。
「……帰るか」
透が言うと、慧がうなずいた。
「今日は早めに寝ろ。変なことが起きた日はだいたい眠りが浅い」
「根拠あるの?それ」
「体感」
慧はそう言って歩き出した。
二人が見通しの悪い角の手前まで来たとき、前を小学生くらいの女の子が走っていった。ランドセルじゃない。塾帰りらしい小さなバッグを抱えている。
女の子は角を曲がる――というより、勢いのまま歩道へ飛び出すように身体を投げ出した。
「危な――」
透が声を出しかけた、その瞬間。視界が、ほんの少しだけ滲んだ。
白じゃない。文字だ。黒いインクみたいな線が、目の前に浮く。読める。でも欠けている。
「――近づくな」
角の先へ踏み込むな、という意味にしか見えなかった。
でも透は、思考より先に体が動いた。
「おい!」
女の子の腕を掴んで引き戻す。
同時に、角の陰から自転車が猛スピードで突っ込んできた。
「うわっ!」
急ブレーキ。タイヤが鳴く。前輪が、透の膝のすぐ手前で止まった。ほんの数十センチ。
透は女の子を引き戻す勢いで、スマホを落とした。画面がコンクリに当たって、嫌な音がした。
割れてはいないだろう。けど、心臓が縮む。
「す、すみません……!」
自転車の高校生くらいの男が、青い顔で頭を下げた。
女の子も目を丸くして、透を見上げる。
「……ありがとう」
「いや……」
今の、何だ。
透は自分の手を見た。
何も変わっていない。
心臓だけがやたら速い。
「透」
慧が近づいてきて、透の顔を覗き込んだ。
「今、なんであそこで止められた?」
「……わかんない」
嘘じゃない。
本当にわからない。
ただ、言葉が見えた。
――近づくな。
透はそれを言おうとして、やめた。
言ったら、変なやつだ。
自分でもそう思う。
慧は、透の目をじっと見たまま、少しだけ間を置いた。
「……お前、さっきから目が泳いでるな」
「泳いでねえ」
「泳いでる」
断定された。
慧の声は淡々としているのに、なぜか背中が冷える。
「帰るか」
慧はそれだけ言って、歩き出した。
透も後を追う。
女の子はぺこぺこ頭を下げて、走っていった。
しばらく無言のまま歩いた。
住宅街の街灯が、ひとつずつ点いていく。
慧が、ぽつりと言った。
「透」
「なに」
「お前さ……さっき、なんか見えた?」
透は足を止めかけて、止めなかった。
呼吸だけが一瞬、詰まる。
「……何も」
「ふーん」
慧はそれ以上聞かなかった。
聞かないくせに、察しているような沈黙だけ置いていく。
透はスマホを握り直した。
画面はさっきと同じで、平凡なタイムラインが流れている。
それなのに。
頭のどこかで、さっきの欠けた文字がまだ残っている。
――近づくな。
透は、知らないうちに早足になっていた。




