ゴブリン軍団、観測
王が立ってから、空気が変わった。
目の前の雑魚の動きが、軍隊みたいに揃っている。
一体倒すと、次が同じ間合いで入ってくる。
逃げるための一歩を作ろうとすると、その一歩に合わせて矢が鳴る。
——追い立てられている。
慧が低く言った。
「…合わせられてるな」
透は鉈の柄を握り直した。
手袋の中で汗が回る。
柄がほんの少しズレるだけで、刃の重さが腕に来る。
弦音。
きゅん。
狙いは外れてる。
矢は岩を叩く。粉が散る。
でも、その音が合図になって、近接が一斉に詰めてくる。
透は舌打ちしそうになって、飲み込んだ。
「……タイミング、揃ってる」
慧のバールが短く鳴る。
押して、ずらす。
それでも押し返した分だけ、次の影が穴を埋める。
石礫が来た。
空気が薄くなる感覚。
慧が肩を落としてかわす。
砕けた破片が前腕に当たって、鈍い音がした。
慧の指が一瞬だけ固くなる。
でも、顔は変えない。
痛みを置き去りに、次へ目を向ける。
近接が来る。
透は鉈を当てて引いた。
浅くてもいい。止まればいい。
すぐ次が入ってくる。
“間”が無い。
倒した数じゃない。
押し返した距離でもない。
王が立ってから、こっちの呼吸の隙を数えられているみたいだった。
透の腕が重くなる。
呼吸が浅くなる。
視界が狭くなる。
慧が言った。
「透、形を崩すな」
透は頷く。
慧が次の一体を弾いた。
透が切る。
慧が押す。
透が切る。
その繰り返しの中で、透は気づいた。
右側。
王の右のローブ。
あれだけが、最初から最後まで“同じ姿勢”だ。
弓も、石も、近接も動くのに。
あいつだけが、動かない。
透は喉の奥で息を飲んだ。
「……あいつ、ずっと固定だ」
慧は一瞬だけ視線を向ける。
すぐ戻す。
「役割…だろうな」
役割。
その言い方が、妙に腑に落ちた。
その瞬間、透の視界がざらついた。
文字じゃない。
何かが重なる。
世界の上に、薄い線が走る。
矢が抜けていく帯。
石が飛んでくる角度。
足を踏み外す場所。
——逆に、通れる隙間。
透は息を止めた。
「……見える」
慧が一瞬だけ、透を見る。
「何が」
透は言葉を選ばない。選べない。
「右。今、一瞬だけ空く」
慧は迷わなかった。
「行けるなら行け。支える」
透は喉が鳴るのを飲み込んで頷いた。
慧が前に出る。
バールが鳴る。
近接を押し返す。道を作る。
透はその背中を頼って、右へ滑った。
線が見える。
そこに足を置く。
矢の通る帯を避ける。
石の来る角度の外に出る。
透は走るんじゃない。
影の縁を渡るみたいに進む。
一歩。二歩。三歩。
近接が気づいて、こちらへ回り込む。
透は鉈で受けない。
受けたら止まってしまう。
体をずらす。
足を切る。浅く。
相手の踏み込みだけ奪って、通り抜ける。
視界の奥に、ローブが見えた。
王の右。
杖を床につけたまま。
動かない。
呼吸だけが一定で、気味が悪い。
——こいつだ。
透はそう思った。根拠はない。
でも、あいつだけ“戦い方”が違う。
透は距離を詰めた。
近い。
近いのに、遠い。
たった数歩が、矢と石と刃で埋まっている。
線がまた見えた。
ここ。今。
一瞬だけ。
透は踏み込んだ。
ローブの肩口が目の前に来る。
透は鉈を振り下ろさない。
当てて、引く。
布が裂ける感触。
その下に硬いものがある。骨か、何か。
ローブが僅かに揺れた。
そして——。
どこかで、割れる音がした。
ガラスじゃない。
でも、ガラスが割れる時みたいな、乾いたひび割れの音。
空気が、一瞬ゆらいだ。
目の端で、見えない膜が裂けたみたいに歪んで、消える。
透は息を呑んだ。
「……今の、何だ」
ローブはまだ立っている。
動かない。
でも、何かが壊れたのは確かだった。
透が一歩引こうとした瞬間。
空気が変わった。
重い足音。
大剣を持った側近が、動いた。
門だったやつが、右へ寄る。
ローブを守るために。
王の横を離れないまま、距離だけ詰めてくる。
大剣が持ち上がる。
遅い。
でも、範囲が広い。
透は背中が冷たくなる。
線が、見えない。
風圧が来た。
透は反射で下がろうとして、段差が視界に入る。
下がれない。
透は体を捻った。
刃が頬の横を抜ける。
空気が裂ける音。
服の肩が裂ける。皮膚が熱い。
直撃は避けた。
でも、かすっただけでこの痛み。
透の喉が鳴った。
「……っ」
次の一撃が来る。
その瞬間、慧の声が飛んだ。
「透、戻れ!」
戻る。
戻れるのか。
透の視界の端に、また線が走った。
細い道。
影の縁。
刃が届かない角度。
透はその線へ飛び込んだ。
大剣が岩に当たる。
ぎん、と嫌な音。火花。
側近の動きが一瞬止まる。
その一瞬で、透が抜ける。
ローブの前から離れる。
近接の間を滑る。
矢の帯を避ける。
石の角度の外へ出る。
走る。息が焼ける。
でも、足は止まらない。
慧が前で押し返していた。
バールが鳴る。
雑魚が弾けて、霧になる。
透は慧の横へ転がり込んだ。
二人が壁際で並ぶ。
背中が壁に当たる。
冷たい岩の感触が、ようやく現実に戻してくれる。
慧が短く言った。
「当てたか」
透は頷く。息が乱れる。
「……切った。そしたら、割れた音がした」
慧が答える。
「あぁ、聞こえた」
「なにかはわからない。けど……何か壊れた」
慧はそれ以上聞かなかった。
聞いてる余裕がない。
近接がまた来る。
弓が鳴る。
石が飛ぶ。
でも、さっきと何かが違う。
空気が、少しだけ軽い。
一瞬だけ、圧が抜ける感じがある。
透はそれを確かめる暇もなく、鉈を当てて引いた。
慧が当てて離れる。
倒す。
押す。
位置を守る。
王がこちらを見ている。
さっきまでの“見下ろし”と違う。
初めて、刺すような目になっている。
透は喉が乾いた。
王は立ったまま、動かない。
でも、空気が王を中心に張りついている。
慧が言った。
「次は右を落とす」
透は頷いた。
「……うん。あいつが核だ」
核。
そう言った瞬間、自分でも確信が薄いのに気づく。
でも、今の音がそれを肯定している気がした。
透の視界に、また線が走った。
さっきより細い。
短い。
でも、確かにある。
右へ。
そして——その先に、王の足元へ繋がる影。
透は息を吸って、吐いた。
「……道が、ある」
慧が短く返す。
「なら行く」
王が低く鳴いた。
「ぐぎゃ……」
雑魚がまた揃って詰めてくる。
大剣側近が、門として戻ろうとする。
でも、もう知った。
右を削れば、門は動く。
門が動けば、王が露出する。
透は鉈を握り直した。
戦いは終わらない。
でも、勝ち筋が見えた。
次で、折る。




