ゴブリンの集団、玉座
透は鉈の柄を握り直した。
「行くしかない」
慧が短く返す。
「登る。足、擦らないようにな」
二人は一段ずつ登った。
置く。離す。置く。離す。
急がない。
途中で止まる。
耳を澄ます。
上から聞こえるのは、声じゃない。
弦を撫でるような小さな音。
金属が擦れる音。
息の数。
——多い。
段の終わりが見えた。
透は一度だけ息を吸って、吐いた。
空気が少し軽い。肺がまだ動く。
それでも岩の匂いが濃い。
階段を上がり切った瞬間、視界が開けた。
広間。
天井は高い。
苔の光は薄く、影が厚い。
床は岩肌のまま、ところどころ削れて平らだ。
そして、左手。
段差の上に、石造りの“玉座”があった。
椅子の形をしている。背もたれがある。肘掛けもある。
そこに——王が座っていた。
背は低い。ゴブリンより少し大きい程度。
でも、威圧感が違う。
腕を肘掛けに置いて、こちらを見下ろしている。
まるで、ここが自分の場所である、と主張するかのように。
王の左に、大剣を持ったゴブリンが立っていた。
ゴブリンより一回り大きい。肩が張っている。
剣は長く、幅がある。刃は欠けているのに、重さが伝わってくる。
王の右には、ローブを着たゴブリン。
杖みたいな木の棒。
杖を地面につけ、動かない。規則的に呼吸をしている。
遠くで、弓がわずかに軋む。
高い位置に影が散っている。
弓がいくつも。位置が違う。
床のあちこちに近接の影。
短い剣、欠けた刃、棍棒。
数が多い。玉座を囲って半円みたいに広がっている。
慧が低く言った。
「……多い、な」
透は唾を飲み込んだ。
階段は背後。
でも——背後にあるのに、逃げ道に見えない。
王が座ったまま、こちらを見ている。
その視線だけで、足が重くなる。
最初に動いたのは、雑魚だった。
近接のゴブリンが、前へ出てくる。
走って、詰めてくる。
透が一歩下がりそうになって、止めた。
下がり続けたら、階段に押し込まれる。
慧が短く言う。
「壁、取るぞ」
二人は階段脇の壁へ寄った。
背中を守れる角度。
包囲されないために。
弦が鳴った。
きゅん。
矢が岩に刺さる音。
狙いは二人じゃない。足元だ。逃げ道が削られる。
「弓がいる」
透が言うと、慧は答えない。
答えないまま、前を見ている。
近接が来る。
透は鉈を当てて引いた。
振り回さない。
切る、止める、離れる。
霧。
一体目が消える。
すぐ二体目。
横から入ってくる。
慧がバールを短く当てて離れる。
受けない。押し込まない。
当てて、体勢を崩す。
透が足を切る。
浅く、確実に。
霧。
二体目。
息が熱い。
でも、身体が動く。
Lv10の数字が、確かに身体に乗っている。
三体目。四体目。
二人の動きはまだ粗い。
でも、止まらない。
切る。離れる。
当てる。離れる。
背中を取られない。
それだけ。
霧が床に落ちるたび、広間の空気が少しだけ変わる。
王は——座ったままだった。
動かない。
ただ、見ている。
「……余裕そうだね」
透が呟くと、慧が低く返した。
「なめられてるな」
弦が鳴る。石礫が飛ぶ。
矢が岩を叩く。粉が散る。
透は角度を変える。
慧が位置をずらす。
背中が壁に擦れる。呼吸が浅くなる。
それでも、倒せる。
雑魚は倒せる。
——倒せるのに、一向に状況は良くならない。
階段の方へ視線をやると、分かる。
背後に、近接の影が回り込んでいた。
階段の“入口”を、半分塞ぐ形。
降りる道は見えている。
でも、戻れない。
戦いが始まった瞬間、階段は既に出口ではなくなる。
透の喉が鳴った。
「……戻れないな」
慧が一瞬だけ頷く。
「前だけ見る」
透は鉈を握り直した。
指先が冷たい。
手袋の中で汗が滑る。
その時だった。
王が、ゆっくりと肘掛けから腕を外した。
ただそれだけで、広間が静かになる。
弦の音も、足音も、一瞬だけ薄くなる。
王が立ち上がった。
立っただけで、背が伸びたように見える。
玉座の段差の上で、こちらを見下ろしている。
王が口を開いた。
「ぐぎゃ……」
言葉じゃない。
でも号令だと分かる。
空気が、変わった。
温度が下がったわけでもない。
匂いが変わったわけでもない。
なのに、圧が増える。
雑魚の足音が揃う。
踏み込みが一段、速くなる。
弓の間合いが嫌になる。矢が“近い”。
透は息を飲んだ。
「……やば」
慧が言った。声が低い。
「ここからだ」
王の右のローブが、微かに揺れた。
揺れたのに、動かない。
杖の先が床に触れたまま、離れない。
何をしているのかわからない。
でも、なにか“役割”がある。
王の左の大剣を持った側近が、一歩だけ前へ出た。
たった一歩。
でも、それだけで線が引かれた。
ここから先に来るな、という線。
剣がゆっくり持ち上がる。
いつでも振れる高さで止まる。
透は思った。
あいつは“門”だ。
王に近づく道を、あいつが塞いでいる。
王は立ったまま、動かない。
動かなくても、戦場は王が支配している。
近接のゴブリンが一斉に詰めてきた。
数が多い。
一体一体は強くない。
でも、数が多いと動けない。
透は鉈を当てて引く。
慧が当てて離れる。
倒す。倒す。倒す。
それでも押される。
背中の壁が近い。
階段の段差が視界の端に入る。
逃げ道じゃないものが、近くにある。
慧の声が速くなる。
「透、下がるな」
透は歯を食いしばった。
階段に押し込まれたら、二人は縦に並ぶ。
そうなったら、矢も石も避けられない。
王がもう一度、低く鳴いた。
「ぐぎゃ」
雑魚の動きが揃う。
まるで、ひとつの生き物みたいに。
透の胸が詰まる。
息が浅い。
でも、止まれない。
透は鉈を握り直した。
刃が苔の光を拾って、鈍く光る。
慧が言った。
「押し返す。まだ、死ねない」
透は頷いた。
「……うん」
王は立ったまま、こちらを見ている。
大剣側近は、門のまま動かない。
ローブは、動かない。
——逃げ道は、もう無い。
透は、階段の闇を背にして前を見た。
戦いは、始まったばかりだ。




