スキルの発現、魔法
階段の前で、慧が止まった。
「……来る」
影が動く。
二足。腹が厚い。棍棒。
さっきまで相手にしていた“鈍い豚”。
透は鉈を握り直した。
怖さが消えたわけじゃない。
でも、足は動く。
棍棒が振られる。
透は横に抜けた。
慧が短く当てて離れる。
透が足を切る。浅く、確実に。
踏み込みが鈍る。
棍棒が壁に当たって軌道が崩れる。
もう一度。
透が入って、鉈を引く。
霧みたいに薄れて消えた。
落ちたのは、魔石だけ。
透は拾ってリュックに押し込んだ。
奥の瓶が割れていないか、指で探る。硬い冷たさ。大丈夫。
「……余裕、出てきたね」
透が言うと、慧が頷く。
「動けるうちに上がる」
上。
その言葉だけで喉が渇く、地上が恋しい。
慧が言った。
「一応、静かに」
透は頷いて、階段を上がる。
一段ずつ。置く。離す。
急がない。慎重に。
途中で止まる。
耳を澄ます。
何も聞こえない。
段の終わりが見えた。
空気が少し軽い。
肺がまだ動く。
それでも岩の匂い。
苔の光は弱くて、影が厚い。
壁が近い。
慧が小さく言う。
「……いる」
透も感じた。
音じゃない。匂いでもない。
皮膚の内側に圧が残る。
岩陰が動いた。
背の低い人型が、数匹。
細い腕。短い脚。
顔はよく見えない。光が足りない。
でも、手に持っているものは見えた。
剣と弓。
透の脳裏に、家の廊下が刺さった。
あの日。
侵入してきた影。
目が合った瞬間に距離を詰めてきた、人型。
胃が沈む。
「……剣と、弓」
慧が即座に言う。
「弓持ちを最優先で落とす」
弦が鳴った。
きゅん、と短い音。
矢が岩に当たって乾いた音を立てる。
透は反射で壁に寄った。
頬の近くを風が抜ける。
慧の声が速い。
「剣持ちはいったん無視。弓、先に落とすぞ」
透は頷いた。
身体が動く。
怖くても足は出る。
透は苔光の届く場所と届かない場所、その境目を渡る。
矢が飛んでも、そこには刺さらない角度がある。
弦がもう一度鳴る。
透は止まらない。
視界の切れ目に入る。岩の影に沈む。
次の瞬間、透は弓のすぐ近くにいた。
ゴブリンの目が見えた。
小さい。黒い。濡れた穴みたいな目。
透は鉈を振り下ろさない。
当てて、引く。
弓を持つ腕。手首。
刃が滑る。硬い感触。
弓が落ちた。
声を上げる前に、慧が入る。
バールが短く鳴る。
霧になる。
「次!」
慧が言う。
少し離れた影が、弓を引く。
弦音が二つ目。
透は岩のくぼみに沈んだ。
矢が通る線を外す。
慧が逆側へ回る。
矢が慧を追う。追わせる。
追わせて、隙を作る。
透が走る。
弓の背中側へ。
剣を持ったゴブリンが一体、透に突っ込んでくる。
短い刃物。欠けた刃。刺されれば怪我ではすまない。
透は受けない。
横へずらす。岩に寄せる。
刃が岩に当たって跳ねた、その瞬間。
透が鉈を当てて引く。
霧。
慧の方で、短い衝撃音。
弓持ちが消える。
洞窟が少し静かになった。
透が息を吐く。
「ゴブリン、だよな」
「ああ、五層はそう遠くなさそうだ」
慧が答える。——その直後。
違う音が来た。
石が転がる、乾いた音。
こつ、こつ、と近づいてくる。
慧が言う。
「……まだいる。止まるな」
透が半歩下がった瞬間、空気が鳴った。
ぱし、と頬の横を何かが抜ける。
すぐ後ろの岩に当たって、砕けた。
透は目を見開く。
「……今の、矢じゃない」
慧が低く言う。
「石だ」
影の奥に、何体か、影が見えた。
剣持ちの後ろに隠れているゴブリン。
手には木の棒。
両手を前に突き出している。
その手元で、何かが浮いたように見えた。
次の瞬間、石が飛んだ。
投げたわけじゃない。
腕の振りは、無かった。
“飛ばされた”。
透は背中が冷たくなる。
「……何だよ、それ」
慧が言った。短く。
「飛び道具の種類が増えた。まずあれを落とす」
透は頷く。
喉が乾く。舌が張りつく。
石がもう一つ飛ぶ。
慧が体をずらす。
石が壁に当たり、粉が散った。
当たれば骨が折れる勢い。
透は岩陰を選ぶ。
“矢”と違って、石は線が読みにくい。
でも、岩の手前に入れば来ない。
透は一気に距離を詰めた。
足が動く。息が切れない。
普通なら間に合わない距離だ。
魔法を使うゴブリンが目を見開いた。
手が動く。
また石を作る。
透は迷わず、鉈を当てて引いた。
腕。
手首の少し上。
切る。止める。
石が落ちた。
床で転がって止まる。
慧が入る。
バールが短く鳴る。
霧になる。
透は息を吐いた。
肺が熱い。
でも、まだ動ける。
後、二匹。剣持ちだけ。
透は距離を詰め、首に刃を当てて、引く。
慧は、叩く。
二匹は簡単に霧に変わる。
足元に落ちているものが見えた。
魔石。
豚の物より薄い色。
それと——。
小さい瓶。
中に粘液みたいなものが入っている。淡い緑。
汚れた水の色に近いのに、妙に均一で、光を吸って揺れる。
透は顔をしかめた。
「……気持ち悪い」
慧が言う。
「魔物避け、か?これ」
透は瓶を布で巻き、リュックの奥へ押し込んだ。
赤い小瓶の隣に、淡い緑。
割れないように隙間を詰める。
戦闘が、ふっと切れた。
音が消えたわけじゃない。
ただ、いったん“波”が引いた。
透は息を吸って吐いた。
喉が乾く。目が痛い。
でも——立っていられる。
視界が揺れた。
文字が浮かぶ。
【観月 透】
【Lv】9→10
【MP】105→120
【筋力】30→35
【敏捷】33→38
【魔力】28→30
透は一瞬止まりそうになって、慧の声で戻った。
「止まるな。動くぞ」
短い。冷たい。
正しい。
透は岩陰に入って呼吸を整える。
数秒だけ。ほんの数秒。
表示が落ち着く。
焦点が合う。
ステータスの下。
今までなかった一行が、ぴたりと貼りつく。
【スキル:観測】
透は息を呑んだ。
ただの“感じ”が、名前になる。
名前になった瞬間、勝手に重くなる。
慧の方でも、同じように数字が変わっていた。
慧は一瞬だけ視線を落として、すぐ前を見る。
「……出た」
透が聞く。
「何が」
慧が答える。
「スキル、危機察知」
【スキル:危機察知】
「俺も出たよ、観測、だってさ」
「そうか」
慧はそれ以上言わない。
でも、肩が少しだけ固い。
本人が一番、違和感を分かっている。
階段の直前。
透の視界が、もう一度ざらついた。
今までの短文とは違う。
文字の組み合わせ。
透の視界の隅に、短い表示が走った。
『上/王』
透は喉が鳴るのを抑えた。
慧が同時に止まる。
止まった瞬間に分かる。慧の危機察知も反応している。
慧が低く言った。
「……階段の先、いるな」
透は頷く。
「俺も出た。……先に王とやらがいるらしい」
慧が短く息を吐く。
「通れないか」
透は返せなかった。
言葉が重い。
階段が見えた。
上へ続く石の段。
けれど、そこだけ空気が動かない。
静かすぎる。
慧が言う。声が低い。
「……いる」
透は鉈を握り直した。
慧はバールを構え直した。
帰るには通るしかない。
通るには——。
二人は、階段の闇を見上げた。




