迷い込んだ洞窟、豚戦
刃が上がった。
青白い苔の光を拾って、四角い刃が鈍く光る。
中華包丁みたいな、幅のある金属。
欠けた刃先が黒く汚れている。
二足で立つ豚が、一歩踏み出す。
石が鳴る。腹の肉が揺れる。
呼吸が、湿って聞こえた。
透は鉈を抜いた。
手袋越しに柄が滑りそうで、指に力が入る。
刃が、自分の震えを映している気がした。
慧が低く言う。
「受けるな。触れるな。避けろ」
「分かってる」
分かっているのに、身体が遅い。
視界が狭い。音が大きい。
豚が来た。
速い。
あの体で、こんなに速いのか。
刃が横に走る。
透は反射で前に出そうになって、止まった。
前に出たら、斬られる。
慧が引いた。
「壁!」
短い声。速い声。
二人は走った。
洞窟は広い。広いのに、逃げ場はない。
壁沿いに、岩の出っ張りがある方へ。
刃が岩に擦れる音がした。
背中が冷たくなる。
次の瞬間、刃が振られ、石に当たった。
ぎん、と嫌な音。
火花が散る。
刃が弾かれて、空気が震えた。
透の頬に風が当たる。
息が詰まる。
——当たったら、死ぬ。
透は歯を食いしばって走る。
慧が先に曲がる。透も続く。
壁際。狭い角。
岩の影が濃い。
豚が追ってくる。
足音が重い。なのに簡単に追いつかれる。
慧が言う。
「挟むぞ。透、右。俺、左」
「分かった」
言い終える前に、刃が来た。
透は壁に背中を擦りながら身を捻る。
刃が岩に当たって止まる。
豚の腕が太い。
力任せに押し込んでくる。
透は距離を切る。
慧が横から回り込む。
膝をめがけて、バールを短く振る。
叩く音。
鈍い衝撃。
豚の膝がわずかに沈む。
効いているのか分からない。
でも、続けるしかない。
透が入る。
鉈は振り回さない。
一瞬だけ、刃を置く感覚。
肉の感触。
硬い脂。刃が止まる。
透はすぐ引いた。
「浅い!」
透が言う。
慧が言う。
「いい。削るぞ」
削る。
動きを落とすため。
勝ち筋を作るため。
豚が唸った。
低い声。喉の奥で鳴る音。
刃が縦に落ちてくる。
透は跳ねるように下がる。
刃が石を削る音がした。
石がはじけて頬をかすめる。
指先が冷える。
慧が言う。
「次、俺が囮。足ねらえ」
透は頷いた。
息が浅い。
慧が前に出る。
豚の視線が慧に向く。
刃が慧を追う。
慧は引く。
角を使って、刃を振り切らせない。
壁に当たる。止まる。
止まった瞬間だけ、距離が生まれる。
透が入る。
足。
豚の足は太い。
筋が浮いている。
ここを落とすしかない。
透は鉈を当てて、引いた。
浅く切る。深くはいらない。
血は出ない。傷から黒い霧が出ている。
でも、切った感触は残っている。
豚の体が一瞬だけ沈んだ気がした。
「今の、効いたか?」
透が言うと、慧が答える。
「分からん。続けろ」
続ける。
走る。角を使って、当てて離れる。
それだけ。
豚は学ぶ。
二人の動きを追い始める。
刃の出し方が変わる。踏み込みが変わる。
一瞬の差が、死になる。
透が足を止めた。
止めたつもりはない。
足が、固まった。
刃が来る。
横。速い。近い。
視界が白くなる。
その瞬間、透の視界に文字が浮いた。
『跳べ』
透は考えなかった。
身体が勝手に跳ねた。
刃が、足元を通る。
靴底のすぐ下で風が鳴った。
刃が岩に当たって、また嫌な音がした。
透は着地して、息を吸った。
肺が痛い。
でも、生きてる。
慧が一瞬だけ透を見る。
その目が「今のは何だ」と言っている。
透は答えられない。
豚が刃を引き抜く。
腕の筋が盛り上がる。
刃がまた上がる。
慧が言う。
「次で決める。透、足をもう一回」
透は頷いた。
慧が囮になる。
豚が慧を追う。
刃が縦に落ちる。横に走る。
慧は壁際へ誘導する。
振り切れない角度に押し込む。
刃が岩に噛んで、動きが止まる。
透が入る。
足。
今度は止まらない。
鉈を当てて、引く。
深く、とは思わない。
ただ、確実に。
豚の体勢が崩れた。
膝が落ちる。
片足が踏ん張れない。
重い体が、傾く。
慧がバールを振った。
頭じゃない。
倒しきる一撃じゃない。
押す。
豚が横に倒れた。
透が一歩踏み込む。
距離が怖い。
怖いけど、ここで止まれない。
首をめがけて、鉈を振り下ろす。
刃が深く沈んだ。
次の瞬間、豚の身体が霧みたいに薄れて消えた。
残るのは、静けさだけ。
透は息を吐いた。
吐いた息が震えている。
慧も息を吐いた。
いつもより長く。
「……終わったか」
慧が言う。
「……生きてる、ね」
透は頷いた。頷けた。
足がまだ震えているのに、立っていられる。
視界が、揺れた。
文字が浮かぶ。
【観月 透】
【Lv】3→8
【MP】45→95
【筋力】15→28
【敏捷】16→30
【魔力】15→25
数字が増える。
項目が跳ねる。
身体が軽くなる。
さっきまで肺が小さかったのに、戻る。
胸の奥に空気が入る。
慧の方でも、同じように数字が変わっていた。
慧はそれを見て、表情を変えない。
変えないまま、短く言う。
「拾うぞ」
透は頷く。
霧が消えた場所に、落ちているものがある。
いつもより少し青みがかった魔石。
小さい瓶。
ガラスというより、冷たい鉱物みたいな質感。
中に液体が入っている。
淡い赤色。
光を吸って、ゆっくり揺れる。
透はそれを拾った。
手のひらの上で、やけに重く感じる。
「……何だ、これ」
透が言う。
慧が近づいて、一瞬だけ見た。
「わからん、だが、持って帰るぞ」
透は頷いた。
捨てる気なんて、最初からない。
その時。
洞窟の奥で、また金属が擦れる音がした。
さっきとは違う。
距離が遠い。
でも、同じ種類の音だ。
慧が言った。
「移動」
「……え、まだ」
「早く動くぞ」
慧の声が速い。
でも、いつも通り、冷静だ。
透は瓶を握りしめた。
手袋越しに滑りそうで、指に力が入る。
二人は走った。
青白い苔の光が、背中に流れる。
まだ終わっていない。
一匹倒して終わりじゃない。
——帰らなきゃ。




