罠、転移
翌朝、透と慧はまた膜をくぐった。
第1層は、薄かった。
草が揺れる前に、どこかで金属が鳴る。
叩く音が散っている。
人影が、遠いのに多い。
透はリュックを持ち直した。
魔石は増えない。
時間だけが溶ける。
隣で慧がバールを肩に乗せる。
顔はいつも通りだ。
いつも通りのまま、短く言う。
「二層、行くか」
「行こう」
階段へ向かう。
混雑の中心から外れるだけで、草の踏み心地が変わる。
足元が深くなる。視界が少し切れる。
石の段が見えた。
人工物みたいなのに、馴染みすぎている。
降りる。
—
第2層も、人がいた。
一層より近い距離で、叩く音がする。
走る影がある。
草が揺れているのに、そこへ辿り着く前に誰かが潰している。
透は息を吐いた。
「……結局、同じだな」
慧が淡々と返す。
「みんな、考えることは同じだ」
遠くで怒鳴り声がした。
「横取りするな!」
「俺らが先に追ってた!」
透は足を止めそうになって、やめた。
行っても何も変わらない。
「三層、いってみない?」
透が言う。
慧が時間を確認する。
「覗くだけだぞ」
「うん」
二人は、人影の薄い方へ歩いた。
草が深くなる。起伏が増える。
叩く音が遠のく。
それでも、完全には静かにならない。
起伏の陰に、また石の段があった。
降りる。
—
第3層も、草原だった。
空がある。
風がある。
匂いも、戻ってくる。
少しだけ安心して、すぐ気づいた。
人影がいる。
一層や二層ほどじゃない。けれど、いる。
「……ここも、ゼロじゃないな」
透が言うと、慧が頷いた。
「上よりはましだ」
二人は、叩く音のしない方へ進んだ。
人の気配が遠のいていく。
透は鉈の柄を握り直した。
刃の重みが、手袋越しに伝わる。
今日の目的は偵察のはずだった。
でも、ここまで来たなら——確かめたい。
草むらが揺れた。
低い。速い。
四肢が地面を掴む音がする。
犬型。
ネズミより、距離が詰まるのが早い。
目が合った瞬間、一直線に来る。
慧が言う。
「一体。落ち着け」
慧がバールを横に構える。
叩くんじゃない。
受けて、逸らす。
犬の軌道が外れる。
その一瞬で、透が踏み込んだ。
鉈は振り回さない。
手元で止める。
透は鉈を滑らせる。
刃が、肉を割った。
慧が間合いを詰める。
バールが落ちる。骨に響くような鈍い衝撃。
魔物の身体が霧みたいに薄れて消えた。
草の上に石が落ちる。
透は息を吐いた。
ネズミより重い。
でも、やれない相手じゃない。
「……いけるな」
透が言うと、慧は短く返した。
「調子に乗るな」
「分かってる」
分かっているのに、胸の奥が少し熱い。
下に来れば、狩れる。
その手応えが、ここにはある。
透は落ちた魔石を拾いに行こうとする。
——その時だった。
透の足元で、草がわずかに沈んだ。
柔らかい土だと思った。
違う。
靴底の下に、硬いものがある。
透が反射で足を引こうとした瞬間。
足元が、白く光った。
円。
線。
草の下から、青白い筋が浮かぶ。
「……っ」
声が出ない。
「……ちっ」
慧が短く舌打ちをする。
透は動けなかった。
光が一気に強くなる。
次の瞬間——。
世界が、ひっくり返った。
—
草原が消えた。
風が消えた。
空が消えた。
目の前にあるのは、岩だった。
透は立っていた。
立っている。
ただ、場所だけが変わっている。
洞窟。
ちょっと広い。天井が高い。壁が遠い。
湿った冷気が肌に張りつく。
土と鉄と、古い獣の匂い。
光はない。
真っ暗でもない。
壁のあちこちに、青白い苔が張りついている。
点々とした光が、影を作る。
濃い影が、空間を余計に広く見せる。
透は息を吸おうとして、咳き込んだ。
空気が重い。
喉の奥が乾く。
「……慧!」
透が叫びかけて、止めた。
同じ空間にいる。
そういう確信が、なぜかあった。
足音がした。
慧が、数メートル先に立っていた。
透と同じように、周囲を見回している。
すぐに状況を飲み込む顔だ。
「……何だ、これ」
慧の声がいつもより早い。
透は喉を鳴らした。
「……どこだよ、ここ」
慧は首を振る。
「分からない」
その言葉の意味は、透にも分かった。
戻り方がわからない。
草の匂いがない。
透の視界に、文字が浮かんだ。
『静かに』
一回だけ。
短い。
命令みたいな文字。
透は息を止めた。
慧が透の顔を見て、すぐに動きを止める。
慧には見えていない。
でも、透の反応で察する。
洞窟の奥で、何かが擦れる音がした。
金属。
石に当たる音。
重く、乾いた音。
次に、足音。
二本足。
ゆっくり。
けれど、確実に近づいてくる。
青白い苔の光の中に、影が滲んだ。
大きい。
肩が広い。
首が太い。
顔が見えた。
豚だ。
人の背丈より高い。
二足で立っている。
腹が厚く、胸が前に出ている。
鼻先が湿って光り、呼吸のたびに小さく動く。
そして——手。
太い腕の先に、刃物を持っていた。
中華包丁みたいな形。
四角く、幅がある。
刃の面が苔の光を拾って、鈍く光る。
刃こぼれがある。
欠けたところが黒く汚れている。
何かを切った跡の色。
柄は短い。
握りが太い。
力任せに振るための武器。
豚が一歩踏み出す。
石が鳴る。
腹の肉が揺れる。
刃が、空気を切って微かに鳴った。
透は鉈の袋に指をかけた。
指先が冷たい。
震えが止まらない。止めようとすると余計に震えてくる。
慧がバールを構える。
迷いがない。
豚がこちらを見た。
目が小さい。
でも、視線が刺さる。
透の視界に、最後の文字が浮かんだ。
『倒せ』
透は息を呑んだ。
慧が、低く言う。
「来るぞ」
青白い洞窟の光の中で、刃が上がった。




