集団、警告
「今日も行くの?」
母の声は、昨日より低かった。
透が布袋に金属バットを入れ直していると、台所から顔を出す。
「行くよ。短く」
「短くって、どれくらい」
「……二時間くらい」
母は何か言いかけて、止めた。
澪が廊下の奥から顔を出す。
「また?」
「また」
「昨日より稼げる?」
透は答えに詰まりそうになって、やめた。
「変わらないかな」
澪は不満そうに頬を膨らませる。
「それ、ずっと?」
「ずっとじゃない」
透が言うと、母が小さく言った。
「……いってらっしゃい」
透は頷いた。
「うん、いってきます」
—
慧とはメッセージアプリで連絡を取っていた。
『今から出る』
『了解。入口前』
外は静かだった。
人が少ない。店が閉まっている。
車は走る。遠くでサイレンが鳴って、止まる。
仮支部につくと慧は看板の下にいた。布袋のバットを肩に掛けている。
「来た」
「うん」
透が言うと、慧は短く頷いた。
二人はテントに入る。
受付でカードを見せるだけで通る。職員は顔を上げない。
F。
まだ何者でもない印。
テントを出て数十秒。膜が揺れている。
向こうに草原。空が少し高い。
「行く?」
透が言うと、慧が頷く。
「行く」
二人は膜をくぐった。
草の匂い。
風の向き。
日差しは変わらない。空の色も変わらない。
ここでは外の時間が動かない。
透は一度だけ振り返った。
膜の向こうに白いテントが見える。
「今日は、昨日より落ち着いてやる」
透が言う。
慧は淡々と言った。
「焦るな。前に出るな」
「分かってる」
「分かってない時がある」
透は口を閉じた。
図星だ。
草むらが揺れる。
ネズミ型が二体。低い突進。
慧が前に出て叩く。一体目が潰れ、二体目が転がる。
残った一体が横へ逃げようとした瞬間、透が踏み込んで叩いた。
金属の鈍い音。霧みたいに薄れて消える。
草の上に石が落ちた。
魔石。一つ。
透はリュックに放り込んだ。
適当でいい。落とさなければいい。
数匹。
同じように処理する。
魔石も落ちる。落ちないこともある。
透は少しだけ気が緩んだ。
昨日より身体が動く。息も乱れにくい。
Lv3の感覚に、ようやく慣れてきた気がした。
——その時だった。
視界の端に、文字が浮いた。
『逃げろ』
短い。
理由も、方向もない。
ただ、それだけ。
透は足を止めた。
「……慧」
慧が振り向く。
「なに」
透は喉が乾いたまま言った。
「また、出た」
「何が」
「……『逃げろ』って」
慧の目が一瞬だけ細くなる。
「引くぞ」
慧が即答した。
透も頷いた。
頷いたのに、身体が遅れる。
逃げろ、と言われると、逆に足が固まる。
透はリュックを背負い直して、踵を返した。
その時、リュックの中で金属が鳴った。
バットの柄が、リュックの端に当たっただけ。小さい音。
でも、草原では十分だった。
草むらの奥が、一斉に揺れた。
透の背中が冷たくなる。
「……来る」
慧が言う。
草が波みたいに動く。
ネズミが出る。
一体、二体じゃない。固まりで走ってくる。
十から十五。
それくらい。
透は息を呑んだ。
逃げろ。
逃げればいい。
でも——膜はそんなに近くない。
今このまま走ったら、連れていく。
自分たちが逃げるために、別の誰かに押し付ける。
入口にほかの人がいたらどうする。
慧が言った。
「ここで止めるぞ」
透が反射で言い返す。
「でも、逃げろって——」
「逃げろ、は“今の形で”だ」
慧の声は低い。冷たい。
冷たいのに、透の頭が戻る。
「引きながら潰す。背中を取られるな」
慧が前に出た。
金属バットが唸る。
一体目が潰れる。二体目が弾ける。
でも数が多い。
横から回り込むのがいる。
透が叩く。
足元に潜ろうとするのを潰す。
叩く。叩く。
ネズミの動きは単純だ。
数で押して来る。
透は呼吸が浅くなった。
焦りが戻ってくる。
草が揺れた。
また後ろから来る。
「後ろ!」
透が叫ぶ。
慧は振り向かない。
振り向かずに、一歩引いて角度を変えた。
背中を壁にするように、透を内側に押し込む。
「透、前に出るな!」
慧の声が鋭くなる。
瞬間、足元に衝撃が来た。
噛まれた、と思った。
違った。
ネズミがぶつかっただけだ。
でもその衝撃で、膝がぐらっと揺れる。
透は倒れそうになって、踏ん張った。
太ももの奥が痛い。打撲みたいな痛み。
一瞬、目の前が白くなる。
慧の声が飛ぶ。
「止まるな!」
透は歯を食いしばって立て直した。
叩く。叩く。
足元を潰す。横を潰す。
数が減っていく。
十を切り、八になり、五になり、三になる。
最後の一体を慧が叩いた。
霧みたいに消えて、草の上に石が落ちる。
透は息を吐いた。
吐いた息が震えているのが分かる。
「……終わった」
慧が短く言う。
「終わった。帰る」
透は頷いた。
今日はもう十分だ。
魔石を拾って、リュックに放り込む。
数を数える余裕はない。
とにかく戻る。
膜はすぐそこだ。
でもさっきより遠く感じる。
走る気にはならなかった。
二人で歩いて戻る。
慧が先に膜をくぐり、透が続く。
現実側へ戻った瞬間、肩の力が抜けた。
足がまだ痛い。太ももの奥がジンジンする。
仮支部の窓口でリュックを開け、魔石を出す。
職員が数える。
「ネズミ魔石、10個」
「一個五百円。計5000円」
「源泉一割。500円」
「4500円です」
「二分割でよろしいですか?」
数字だけが並ぶ。
それで終わりだ。
透は頷くだけで答えない。
金額はどうでもよかった。
生きて戻った。それだけでいい。
封筒を受け取る。
透はそれをポケットに入れた。
慧が言った。
「帰るぞ」
「うん」
二人は仮支部を離れた。
膜が揺れているのが背中に残る。
慧が口を開く。
「また、って言ったよな」
「何が?」
慧は詰めてくる。
「さっき、『逃げろ』って出たって言ってたろ」
透は答える。
「目の前に文字が出てきた、前と同じ」
「あの日、女の子が自転車にひかれそうになった時」
「そうか」
慧は納得した顔で、また、歩き出す。
家に着くまで、透は足の痛みを忘れようとした。
忘れられない。
玄関で靴を脱いだ瞬間、母が顔を出した。
「おかえり。……早かったね」
「うん」




