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箱庭の進化 〜世界にダンジョンが現れた日〜  作者: 観測者
2章

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32/81

集団、警告

「今日も行くの?」


母の声は、昨日より低かった。

透が布袋に金属バットを入れ直していると、台所から顔を出す。


「行くよ。短く」


「短くって、どれくらい」


「……二時間くらい」


母は何か言いかけて、止めた。


澪が廊下の奥から顔を出す。


「また?」


「また」


「昨日より稼げる?」


透は答えに詰まりそうになって、やめた。


「変わらないかな」


澪は不満そうに頬を膨らませる。


「それ、ずっと?」


「ずっとじゃない」


透が言うと、母が小さく言った。


「……いってらっしゃい」


透は頷いた。


「うん、いってきます」



慧とはメッセージアプリで連絡を取っていた。


『今から出る』

『了解。入口前』



外は静かだった。

人が少ない。店が閉まっている。

車は走る。遠くでサイレンが鳴って、止まる。




仮支部につくと慧は看板の下にいた。布袋のバットを肩に掛けている。


「来た」


「うん」


透が言うと、慧は短く頷いた。


二人はテントに入る。

受付でカードを見せるだけで通る。職員は顔を上げない。


F。

まだ何者でもない印。


テントを出て数十秒。膜が揺れている。

向こうに草原。空が少し高い。


「行く?」


透が言うと、慧が頷く。


「行く」


二人は膜をくぐった。


草の匂い。

風の向き。

日差しは変わらない。空の色も変わらない。

ここでは外の時間が動かない。


透は一度だけ振り返った。

膜の向こうに白いテントが見える。


「今日は、昨日より落ち着いてやる」


透が言う。


慧は淡々と言った。


「焦るな。前に出るな」


「分かってる」


「分かってない時がある」


透は口を閉じた。

図星だ。


草むらが揺れる。


ネズミ型が二体。低い突進。

慧が前に出て叩く。一体目が潰れ、二体目が転がる。


残った一体が横へ逃げようとした瞬間、透が踏み込んで叩いた。

金属の鈍い音。霧みたいに薄れて消える。


草の上に石が落ちた。

魔石。一つ。


透はリュックに放り込んだ。

適当でいい。落とさなければいい。


数匹。

同じように処理する。

魔石も落ちる。落ちないこともある。


透は少しだけ気が緩んだ。

昨日より身体が動く。息も乱れにくい。

Lv3の感覚に、ようやく慣れてきた気がした。


——その時だった。


視界の端に、文字が浮いた。


『逃げろ』


短い。

理由も、方向もない。

ただ、それだけ。


透は足を止めた。


「……慧」


慧が振り向く。


「なに」


透は喉が乾いたまま言った。


「また、出た」


「何が」


「……『逃げろ』って」


慧の目が一瞬だけ細くなる。


「引くぞ」


慧が即答した。


透も頷いた。

頷いたのに、身体が遅れる。

逃げろ、と言われると、逆に足が固まる。


透はリュックを背負い直して、踵を返した。


その時、リュックの中で金属が鳴った。

バットの柄が、リュックの端に当たっただけ。小さい音。


でも、草原では十分だった。


草むらの奥が、一斉に揺れた。


透の背中が冷たくなる。


「……来る」


慧が言う。


草が波みたいに動く。

ネズミが出る。

一体、二体じゃない。固まりで走ってくる。


十から十五。

それくらい。


透は息を呑んだ。

逃げろ。

逃げればいい。

でも——膜はそんなに近くない。


今このまま走ったら、連れていく。

自分たちが逃げるために、別の誰かに押し付ける。

入口にほかの人がいたらどうする。


慧が言った。


「ここで止めるぞ」


透が反射で言い返す。


「でも、逃げろって——」


「逃げろ、は“今の形で”だ」


慧の声は低い。冷たい。

冷たいのに、透の頭が戻る。


「引きながら潰す。背中を取られるな」


慧が前に出た。


金属バットが唸る。

一体目が潰れる。二体目が弾ける。


でも数が多い。

横から回り込むのがいる。


透が叩く。

足元に潜ろうとするのを潰す。

叩く。叩く。


ネズミの動きは単純だ。

数で押して来る。


透は呼吸が浅くなった。

焦りが戻ってくる。


草が揺れた。

また後ろから来る。


「後ろ!」


透が叫ぶ。


慧は振り向かない。

振り向かずに、一歩引いて角度を変えた。

背中を壁にするように、透を内側に押し込む。


「透、前に出るな!」


慧の声が鋭くなる。


瞬間、足元に衝撃が来た。


噛まれた、と思った。

違った。

ネズミがぶつかっただけだ。

でもその衝撃で、膝がぐらっと揺れる。


透は倒れそうになって、踏ん張った。

太ももの奥が痛い。打撲みたいな痛み。


一瞬、目の前が白くなる。


慧の声が飛ぶ。


「止まるな!」


透は歯を食いしばって立て直した。

叩く。叩く。

足元を潰す。横を潰す。


数が減っていく。

十を切り、八になり、五になり、三になる。


最後の一体を慧が叩いた。

霧みたいに消えて、草の上に石が落ちる。


透は息を吐いた。

吐いた息が震えているのが分かる。


「……終わった」


慧が短く言う。


「終わった。帰る」


透は頷いた。

今日はもう十分だ。


魔石を拾って、リュックに放り込む。

数を数える余裕はない。

とにかく戻る。


膜はすぐそこだ。

でもさっきより遠く感じる。

走る気にはならなかった。


二人で歩いて戻る。

慧が先に膜をくぐり、透が続く。


現実側へ戻った瞬間、肩の力が抜けた。

足がまだ痛い。太ももの奥がジンジンする。


仮支部の窓口でリュックを開け、魔石を出す。

職員が数える。


「ネズミ魔石、10個」

「一個五百円。計5000円」

「源泉一割。500円」

「4500円です」

「二分割でよろしいですか?」


数字だけが並ぶ。

それで終わりだ。


透は頷くだけで答えない。

金額はどうでもよかった。

生きて戻った。それだけでいい。


封筒を受け取る。

透はそれをポケットに入れた。


慧が言った。


「帰るぞ」


「うん」


二人は仮支部を離れた。

膜が揺れているのが背中に残る。


慧が口を開く。

「また、って言ったよな」

「何が?」


慧は詰めてくる。

「さっき、『逃げろ』って出たって言ってたろ」


透は答える。

「目の前に文字が出てきた、前と同じ」

「あの日、女の子が自転車にひかれそうになった時」


「そうか」

慧は納得した顔で、また、歩き出す。


家に着くまで、透は足の痛みを忘れようとした。

忘れられない。


玄関で靴を脱いだ瞬間、母が顔を出した。


「おかえり。……早かったね」


「うん」


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