初めてのダンジョン、登録
母は同意書を二回見直してから、透に渡した。
「条件、忘れないでね」
「うん、わかってる」
透が答えると、母はそれ以上言わなかった。
言いたいことがないわけじゃない。言っても変わらないと分かっている顔だった。
澪は玄関で靴を履く透を見上げる。
「どれぐらい稼げるの?」
「小遣いぐらいかな」
「ふーん」
澪は納得していない顔をした。
でも、今日はそれ以上聞かなかった。
代わりに小さく言う。
「ちゃんと帰ってきてね」
透は頷いた。
「帰るよ、絶対」
—
慧とはメッセージアプリで連絡を取っていた。
『今から出る』
『わかった。入口前にいる』
『バット持ってる』
透も金属バットを持っている。
布袋に入れた。
外は人が少ない。
開いている店も少ない。
それでも道路には車が走っていて、遠くでサイレンが鳴っている。
“収束”は、止血が済んだだけだ。
仮支部は、すぐそこだった。
数日前まで封鎖線だった場所。
テントがいくつか並び、簡易フェンスが立っているだけ。
入口のすぐ横に、看板が打ち付けられていた。
『探索者協会 仮支部』
透は立ち止まって見上げた。
仮。支部。
すこし前までは嘘みたいだった言葉、今はもう現実だ。
入口の脇に警察官が立っている。
その奥に自衛隊の車両。
慧は看板の下にいた。
布袋に入れたバットを肩に掛けている。
「来たな」
「うん、来たね」
二人は並んでテントの入口へ向かった。
中は思ったより静かだ。行列もない。
受付の奥で職員が資料を揃えている。忙しそうではあるが、混乱はしていない。
「仮登録ですね」
職員は淡々と聞いた。
透が同意書と身分証を出す。慧も同じ。
「年齢確認……17。保護者同意あり」
「こちらも……17。保護者同意あり」
職員が書類を確認しながら言う。
「規約に同意いただきます。未申告持ち帰り、現場外での武器使用、無許可潜行。いずれも登録取消と処分の対象です」
透は頷く。
慧も頷く。
ペンを渡され、サインをする。
職員は二枚のカードを机に置いた。
シンプルな樹脂カード。写真はない。番号と印だけ。
「探索者IDです。等級はF。全員、ここからです」
F。
透はカードを見た。
ゲームっぽい、と一瞬思って、すぐにやめた。
これは現実だ。
職員は布袋を手渡してくる。
武器を隠すための袋。
それを見た透は、少しだけ笑いそうになった。
隠すための袋が配られる世界。
「買い取りは奥の窓口です」
「ネズミ型魔物の魔石は暫定で一個五百円」
「協会買い取りの場合、一割源泉で差し引き、手取りでお渡しします」
職員は言う。
「ネズミ型は、おおむね二体に一つ魔石を落とすとわかっています」
「個体差はありますが、目安としてはその程度です」
二体に一つ。
透は頭の中で数を弾いた。
職員が最後に言う。
「入口はすぐ横です」
「帰還は必ずこの窓口を通してください。回収物の申告も忘れずに」
—
テントを出て、数十秒歩くと膜があった。
揺れている。
水面みたいに。
向こう側に草原。空が少し高い。
ここだけ、世界が切れている。
透は一歩前に出た。
慧も隣に並ぶ。
「行く?」
透が言うと、慧が頷く。
「行く」
二人は膜をくぐった。
草の匂い。
風の方向がはっきりしている。
日差しは変わらない。
空の色も変わらない。
ここでは、外の夕方も夜も関係ない。
透は一度だけ振り返った。
膜の向こうに、仮支部の白いテントが見える。
近い。すぐ戻れる距離だ。
「今日はここに慣れよう、ゆっくり、ネズミだけ倒す」
透が言った。
「稼ぐ?」
「少しはね。……雑にならないように」
慧が金属バットを握り直した。
「了解」
草むらが揺れた。
ネズミ型。
三体いる。
低い位置から、一直線に来る。
透が短く言う。
「右から。三体」
慧が前に出る。
バットが水平に振られ、一体目が横に飛ぶ。
二体目が足元に潜ろうとした瞬間、透が踏み込んで叩いた。
慧が踏み込む。
ネズミが跳ねる。
半歩だけ体をずらし、バットを下ろした。
鈍い音。
魔物の身体が潰れて、次の瞬間、霧みたいに薄くなる。
残るのは、草の上の小さな石——魔石。
一つだけ。
もう驚かない。
Lv2。
上がっていない。
「まあ、そう簡単には上がらないよね」
慧も自分の表示を見て、頷く。
「落ちたな」
慧が言う。
透は大きめのリュックサックに魔石を入れる。
しばらく歩いていると、次の群れが来た。
二体。
慧が前に出て止める。
透が横から叩く。
落ちる。落ちない。
二体に一つ。
その目安が体感で分かってくる。
五体倒して、魔石は二つ。
八体倒して、四つ。
十体倒して、五つ。
「あと一つ、落としたら今日は終わろう」
透が言う。
慧が頷く。
「十二体で六つ。計算通りだ」
透は笑いそうになって、やめた。
計算が通る。
世界がゲームに寄っていく感覚が、まだ肌に合わない。
もう数体。
ネズミが来る。
慧が叩く。
透が止める。
そして、視界の数字が一段、跳ねる。
【観月 透】
【Lv】2→3
【HP】120→135
【MP】35→45
【筋力】13→15
【敏捷】14→16
【魔力】15→18
身体が軽くなる。
息が少し通る。
ただそれだけなのに、確かな差がある。
透は息を吐いた。
「上がった」
慧も同じタイミングで頷く。
「こっちも」
魔石は落ちなかった。
リュックの中には魔石が六つ。
透は背中の重さを確かめる。
「戻ろう」
「そうだな」
膜をくぐると、仮支部の白が近い。
数十秒。現実に戻る距離。
窓口でリュックを開け、魔石を出す。
職員が数える。六つ。
「ネズミ魔石、六個」
「一個五百円。計三千円」
「源泉一割。三百円」
「二千七百円です」
「二分割でよろしいでしょうか?」
透が答える。
「お願いします」
封筒に入れられて渡される。
紙の感触。薄い。軽い。
二人で割る。
一人、千三百五十円。
慧が封筒を見て言った。
「二時間ちょっとでこれか」
透は頷いた。
「時給、低いな」
慧が言う。
「でも——」
透が言葉を継ぐ。
「Lv3だ」
慧は少しだけ口の端を上げた。
笑ってはいない。
透は自分のカードを見た。F。
弱い。
まだ弱い。
でも、倒した分だけ数字が上がる。
透は封筒をポケットに入れた。
重さはほとんどない。
それでも、確かな手応えがある。
「次はいつにする」
慧が聞く。
透は頷いた。
「明日来よう。次は、もう少し効率よく」
「了解」
二人は仮支部を出た。
膜はすぐそこに揺れている。
あの向こうで、また数字が増える。
透はそれだけを考えて歩いた。




