同意書、約束
帰り道、紙束が手から離れなかった。
同意書。支部一覧。注意事項。
薄い紙ばかりなのに、指が痛い。
もうそろそろ冬になる。日が短くなっていく。
空気が冷えて、空が低い。
玄関の前で透は一度だけ立ち止まった。
中からテレビの音が聞こえる。ニュースだ。
鍵を開ける。
「ただいま」
すぐ返ってきた。
「おかえり。遅かったね」
母の声。
廊下の奥から澪が顔を出す。
「おかえりー」
透が靴を揃えていると、澪が続けた。
「どこ行ってたの?」
母も同じ顔で透を見る。
遅かった、その中身を聞きたい。
透は紙束を持ったままリビングへ入った。
テーブルの上に置く。置いた瞬間、視線がそこへ吸い寄せられる。
「説明会」
「なんの?」
澪が身を乗り出す。
透は短く言った。
「探索者の」
母の手が止まった。
澪の目が一気に丸くなる。
「え、行ったの?」
母が小さく言う。
「……行くって言ってた?」
「言ってなかった」
透は正直に言った。
言えば止められるのが分かっていた。
母は紙束の上から一枚抜いた。
“同意書”の文字で止まる。
「保護者の同意……ね」
「15〜18歳は必要」
「透、いま何歳」
「17」
澪がすぐ言った。
「私も行きたい!」
透は即答した。
「だめ」
「なんで!」
「年齢。澪はまだ」
澪が不満そうに顔をしかめる。
「ずるい。私もあのとき——」
澪は言いかけて、口を閉じた。
あのとき。膜の前。走った道。体育館。避難。
澪も全部見ている。
母が澪に言う。
「澪はだめ。危ないし、年齢も違う」
「……わかってる」
「お父さんにも聞いてもらおう」
澪は唇を尖らせて、席についた。
視線だけは紙束から離れない。
その時、奥の部屋から椅子を引く音がした。
父がリビングに出てくる。スウェット姿だ。
ぎこちない歩き方。透の視線が落ちる。
「何だ、その紙」
母が言う。
「透が探索者の説明会に行ってきた」
父が透を見る。
怒鳴らない。
「……どこで」
「体育館。政府の」
父はテーブルに座り、紙を一枚取って読む。速い。
母と澪は黙って見ている。
透は言った。
「ダンジョンのやつ。魔物のやつ」
父が紙を置く。
「行く気か」
「行く」
「危険だ」
「わかってる」
透は否定しない。
母が言う。
「どうして言ってくれなかったの」
透は少しだけ目を落とした。
「止められると思った」
「止めるよ」
母の声が少し震える。
透は言った。
「止められても、結局誰かが行く」
「それで、また災害が起きたら、何もできない」
父が言う。
「災害は、国が対応する」
透は首を振る。
「この間、対応しきれてなかった」
「だから制度作ったんでしょ」
父は黙った。
テレビのニュース音だけが続く。
澪が小さく言う。
「……また逃げるの?」
透は澪を見た。
その言葉が刺さる。
「逃げたくない」
透は言った。
「次に起きたとき、何もできないのが嫌だ」
「この間は、走って、閉じ込められて、祈るしかなかった」
「それは、もう嫌だ」
母が言う。
「あなたが全部背負う必要ないじゃない」
透は首を振る。
「背負うんじゃない」
「……自分が弱いままなのが、何もできないのが…」
言葉にすると少しだけ呼吸が楽になる。
透は続けた。
「それに、金にもなる」
「買い取りだけだけど、回収物を売れる」
「最初は小遣い程度。でも、続けば生活の足しにもなるって」
母が透を見る。
責める目じゃない。
「お金が目的なの?」
「目的じゃない」
「でも、必要になる。装備もいるし」
父が腕を組む。
「学校はどうする」
「行く」
「本当に行けるのか」
「行く。欠席はしない」
父が言う。
「一人で行くのか?」
透が言う。
「一人では行かない。慧と行く」
父が少し考えてから言う。
「慧の親は?」
「同意書あるから、たぶん取る」
父は紙を指で叩いた。
「条件を決める」
透の心臓が一回強く打つ。
交渉の段階に入った。
父が言う。
「第一。学校優先。欠席が増えたら即中止」
「第二。週の回数を決める。毎日はだめ」
「第三。行き先と時間を毎回共有」
「第四。怪我をしたら治るまでは潜らない」
「第五。金の動きは全部記録」
「最後。絶対に生きて帰ってこい」
母が言う。
「危ないと思ったら引いて。絶対に」
透は頷いた。
「守る」
澪が口を挟む。
「じゃあ私も、帰ってきたら話聞かせて」
母が澪を見る。
「澪はまず宿題」
「わかってる!」
澪は言い返したが、少しだけ嬉しそうだった。
“帰ってくる前提”の話。
父が同意書を見る。
「書く」
ペンが走る。
父の字は迷いがない。
母も署名する。手が少しだけ震えていた。
同意書が完成した。
たった一枚。
でも、これがないと登録できない。
透は紙を受け取って、丁寧に折った。
折り目を揃える。破れたら終わりだ。
—
晩ご飯は、いつも通りだった。
味噌汁。白米。焼き魚。
テレビは相変わらずニュース。
「探索者制度」「支部」「買い取り」
今日聞いた単語が、画面の下を流れていく。
父が言う。
「支部はどこに行く」
透は支部一覧を広げた。
「ここ。前に封鎖線があった場所」
母が眉を寄せる。
「登録だけ」
透は言った。
父が言う。
「登録だけで済むか?」
透は返せなかった。
済まない。でも、今は言わない。
澪が言う。
「私、年齢足りないけど」
「行けるようになったら、連れてって」
澪が少しだけ胸を張る。
母は言う。
「それはまた、澪が行ける年齢になってから話しましょう。」
透は箸を置き、息を吐いた。
腹は満ちるのに、心は落ち着かない。
—
夜。部屋。
机の上に同意書を置く。
スマホを開く。慧に送る。
『同意取れた。条件付き。』
『了解。こっちも取れた。』
『明日、支部。』
『場所送る。』
『頼む。』
画面を閉じる。
布団に入っても眠れない。
目を閉じると草原が出てくる。
膜の揺れ。逃げる人。追う影。
そして、倒した瞬間に見えた数字。
次に災害が起きた時。
その時に、また何もできないのが嫌だ。
透は天井を見た。
いつも通りの白。
なのに、落ち着かない。
息を整える。
条件は守る。学校も行く。
その上で、強くなる。
透はそう決めて、ようやく瞼を重くした。




