間食の抜け道【後編:実食編】
幸子は出かけようと階下に降りると、リビングでは父がソファーに腰を下ろしナイター中継を眺めていた。
「お父さん、ちょっと買い物に行ってくるね」
声をかけると父が幸子の方を振り向いた。
「こんな時間に一人でか? 夜道の一人歩きは危ないぞ」
「大丈夫だよ。大した距離じゃないし」
「それにしても何を買いに行くんだ?」
「ちょっとお夜食、かな。少し摘まみたい気分でさ」
「何だお前、ダイエット始めたんじゃなかったのか?」
「ううん、ダイエット中でも食べれるものをね。板海苔を買いに行くの」
「板海苔? 手巻き寿司とかで使うヤツか?」
「そうそう。それで業務スーパーまで出かけてくるね」
「待て、それじゃ父さんが車で送ってやろうか」
「えっ、いいよ、そこまでじゃないし」
「いいから、たまにはお前とゆっくり話もしたいしな」
キーケースを手に取った父の背中は、記憶にあるより少し小さくなった気がした。
夜の道路はオレンジ色の街灯が等間隔で流れていく。社内には芳香剤の微かな香りと、控えめなエンジン音だけが響いていた。
「ねえお父さん、一つ聞いていい?」
「なんだ、改まって」
「お父さんって…、その、太っている女の人が好きなの?」
直球すぎる質問に、ハンドルを握る父の手が一瞬止まった。幸子の頭には、リビングでポテチを隠し持っていたふくよかな母の姿があった。
父は少しの間、前方の暗闇を凝視するように黙り込んだ。ウィンカーの規則正しいカチカチという音だけが、今の幸子にはやけに大きく聞こえる。
「いや、別にそう言う訳じゃないぞ」
「じゃあ、どうしてお母さんと結婚したの? お母さん、昔から太ってたんでしょ?」
父はふっと遠くを見るような目をして、少しだけ口角を上げた。バックミラーに映るその表情は、どこか懐かしい写真を見ているかのようだった。
「見た目で選んだ訳じゃないさ。母さんの、誰に対しても裏表のない明るい人柄に惚れたんだ」
「じゃあ、本当は痩せてた方が良かったの?」
「そりゃそうさ。まあ、中には太ってる人が好きって人もいるらしいけどな」
幸子は思わず吹き出してしまう。てっきり父は太っている人が好きなのかと思ったら、予想に反して全然違っていたのが、理屈抜きに何だか可笑しかった。
「そうだ、もし幸子が頑張って痩せれば、母さんも触発されて少しは健康に気を遣うようになるかもしれん。お前のダイエット、父さんにも応援させてくれないか?」
「えっ、本当!?」
「ああ、母さんに良い影響を与える事を期待しての投資だな。海苔でも何でも買ってやろう」
「ありがとうお父さん」
到着した業務スーパーの店内は、閉店時間前のためか客はまばらだった。日中より少し外国の人が多いような気がした。
海苔コーナーを探すと、京加賀の言った通り、一際派手な黄色いポップが目に飛び込んで来た。
『全力際! 板海苔10枚入り250円(税別)』
「これだ!」
隣にある有名メーカーの8枚入り450円の商品が、まるで貴族の食べ物のように見える程の価格破壊だ。幸子はとりあえず2袋をカゴに入れた。
今までお菓子コーナーの誘惑から必死に目を逸らしていた幸子にとって、そのポップは救いの神に見えた。かつての自分はスーパーで買うものと言ったらお菓子とジュースくらいだったが、今カゴに重みを加えているのは磯の香りが凝縮された板海苔だ。自分の意志で「正解」を選び取っているという感覚が、たまらなく誇らしかった。
その後、近くのセブンイレブンに寄り、京加賀お墨付きの『ゼロサイダー・トリプルファイバー』を手に取る。オレンジ色に輝くその液体は、今の幸子には聖水のように見えた。
帰宅後、リビングのテーブルに獲物を並べる。父も興味津々で、一緒に食べたいと言ってきた。
まずは海苔を一枚、そのままかぶりついた。
バリィッ!
静かな部屋に、小気味良い破壊音が響いた。
口に入れた瞬間、磯の香りが鼻に抜け、舌の上で海苔がハラリとほどける。
「あ、本当にお菓子みたい。触感だけならポテチのパリパリ感に近いかも」
咀嚼するたびに頭まで響く振動が心地いい。お菓子を食べているという背徳感はないのに、脳が確実に「楽しさ」を感じているのが分かる。
「それに、大きな海苔にかぶりつくなんて、何だか新鮮で楽しいな」
父も楽しそうに笑みを浮かべる。一気に1枚を食べ終えたが、少しだけ物足りなさを感じた。
「でも、これだけだと何となく物足りない気もするな。もう少し、塩気が欲しいというか」
そこで幸子は京加賀のLINEを思い出した。
「そうだ。先輩が、チーズと一緒に食べると最高だって言ってた」
「チーズか。そう言えば、さっき母さんがクラッカーに付けて食べてたやつがあったな」
父が冷蔵庫から取り出してきたのは、丸い箱に入ったクリーミーな『カマンベール入りクリームチーズ』だった。
海苔の上に、贅沢にチーズをひと塗りする。それをくるりと巻いて、再び口へ運んだ。
「――っ!?」
衝撃が走った。海苔の香ばしさに、チーズの塩気と濃厚なコクが完璧に絡み合う。そこへキンキンに冷えたトリプルファイバーを流し込む。人工甘味料の強烈な甘みとシュワシュワの炭酸が、チーズの余韻を洗い流し、また次の一口を誘う。
「美味しい! これ、ポテチより満足感あるかも」
「これは酒のつまみにちょうどいいな。まあ、今夜はジュースだが」
二人の笑い声がリビングに響く。思えば父とこんなに笑ったのはどれくらいぶりだろう。ダイエットを始めてから、何だか家族の距離が縮まったような気がした。
ふと気付くと、クリームチーズは半分ほどしか残ってなかった。元々食べかけだったとは言え、かなり食べてしまったような気がする。
幸子がチーズの容器を見ると『内容量200g』と書いてある。残りが100g。母の食べかけと、父と山分けとして、概算で30g程度は食べたのだろうか。
幸子は部屋に戻るとベッドに寝転んだ。
結局板海苔2枚とクリームチーズ30g。お腹は満たされたが、むしろ食べ過ぎじゃないかと不安になった。
京加賀に食べ過ぎじゃないか聞こうと思ったが、あまり気軽に頼り過ぎてしまうのも悪い。ここはもう一人の相棒、人工AIの『ふぅちゃん』に聞いてみる事にした。
「ふぅちゃん、クリームチーズ30gをダイエット中に食べちゃったけど問題ないかな?」
すぐにスマホ画面に回答が表示される。
『全く問題ありません。糖質は0.7~1g程度 脂質10gと満足感を得る事ができ、タンパク質も豊富で筋肉の維持にも最適です。ただしお供に注意です。クラッカーや食パンなどと一緒に食べると糖質が跳ね上がります。』
「海苔で巻いて食べたよ」
『それは賢い組み合わせです。海苔と巻いた事で、食物繊維とミネラルの補給、咀嚼回数の増加、旨味の相乗効果(乳由来の旨味と磯の旨味(グルタミン酸など)が得られます。』
さすがは京加賀先輩の裏技だ。どうやらふぅちゃんのお墨付きも得られたようだ。
そうして安心して京加賀先輩にもLINEで報告した。
『父と一緒にクリームチーズを付けて食べました。美味しかったです』
すぐに京加賀から返信が来る。
『それは何よりだ。ただ、二点だけ注意点がある』
『なんですか?』
『一つは価格が高いこと。二つ目に、クリームチーズは塗るのにヘラかスプーンが必要だろう? 食器を洗うのは面倒くさい。素手でも食べやすい、切れてるチーズや、さけるチーズが楽でいい』
最初の理由に値段が高い事が出てきて、京加賀先輩らしいなと思わず吹き出してしまう。
『そうそう、大事な事を伝えるのを忘れてた。いいか、海苔は必ず、全部2分の1にカットしろ。何なら4分の1でもいい。そして、必ずチャック付きのビニール(ジップロックなど)に入れて、絶対に湿気から守るように』
『はい。』
『湿気た海苔ほどマズいものもない。最重要なのは「パリパリ食感」だ。こいつを絶対に死守しろ。1枚単位だと、半分も食べ終わる頃にはもう湿気始める。後半は唇に張り付いて食いずらいし美味くない。2分の1サイズにして小まめに食べれば最後までパリパリで美味しく食べられる。しかも、1枚単位だと無くなるのも早い。半分にカットする事で、止め時が2倍になり、海苔の消耗も抑えられる』
『分かりました。ありがとうございます!』
幸子はクスっと笑いながらスマホを枕元に置くと、窓の外には静かな夜が広がっていた。
かつての自分なら、母が隠したポテトチップスを「見つけちゃったから仕方ない」、「こんな所にしまったお母さんが悪い」と誰にともなく言い訳をして、一人で罪悪感を感じながら食べていただろう。そして食べ終わった時には脂ぎった指と膨れ上がった自己嫌悪に、また絶望していたはずだ。
けれど今は違う。
磯の香りが残る口の中と、父と分け合った不思議な満足感。そして、労を惜しまず的確に導いてくれる先輩がいる。
「ダイエットは生きザマか……」
その言葉がしんみりと胸に沁み渡っていくのを感じた。
続く☆
【知って楽しいダイエット一口メモ】ケトーシスについて
実は私も後から知ったのですが、(糖質さえ制限してれば何とかなる精神だった)ブドウ糖を使い切って脂肪に燃料が切り替わると、肝臓で脂肪が分解されて「ケトン体」というのが作られます。
このケトン体をエネルギー源とした状態をケトーシス(ケトン症)と言い、脂肪が燃焼される理想的な状態です。
血糖の乱高下がなくなり、空腹感がなくなる、頭がすっきりして集中力が増すなどの効果があります。ちなみにチーズと海苔の組み合わせは、高脂質・低糖質なのでこのケトーシスの状態に入るのにも有効だそうです。ある程度の脂肪分があった方が、脂肪を燃焼させるための「呼び水」になるそうです。
逆に糖質も脂質も制限すると、単なる飢餓状態に陥り、代謝が落ちてしまうそうです。
ちなみに、ケトーシスと混同されやすいのが、ケトアシドーシスです。
ケトーシスは健康な人が食事管理の範囲内で起こす生理的な状態であり、血液の酸性度はほとんど変化しません。
一方、ケトアシドーシスはケトン体が異常に蓄積し血液が強い酸性に傾く危険な状態で、極度の絶食や糖尿病でなどのインスリン不足の際に発生します。時には命に関わる危険な状態です。一見似ていますが、根本的に違う為、両者を混同しないようご注意ください。




