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自覚する変化と無自覚な変化


 夏休み明けの校舎には、久しぶりの喧騒が戻っていた。しかし幸子にとって、それは「戦場」の再開を意味していた。

 全身の筋肉が断末魔を上げている。階段を一歩踏み出すたびに、肩から背中、腹筋、そして大腿からふくらはぎに至るまで、全身が激しい疼きに支配される。こんなにも広範囲が一度に悲鳴を上げる経験は、生まれて初めてだった。


(うう……失敗した。こんなにキツいなら、もっと早く先輩に指導してもらうんだった……)


 脂汗を滲ませながら手すりを掴み、必死に階段を昇る幸子。その姿を見た瞬間、背後から突き刺さるような嘲笑が飛んできた。


「お、相変わらず豚が手すりを使ってやがる」


「高齢者かっつうの」


「飛べない豚はただの豚だな」


 新学期初日。相変わらずの罵詈雑言。

 かつての幸子なら、その場で蹲って泣き出していたかもしれない。しかし、昨夜の京加賀とのやり取りと、脳裏に焼き付いた「上位種になった自分」の姿を思い浮かべる。


 彼女は目に浮かんだ悔し涙をグッと堪え、言葉を飲み込み、ただ黙々と階段を昇り続けた。




 京加賀との約束通り、月曜と木曜のTABATA式。

 当初は筋肉痛が酷く、週2回をこなすのが精一杯だった。しかし、痛みと向き合いながら身体を動かし続けた1ヶ月間は、幸子の内側を確実に変えていた。


 10月に入ると、筋肉痛は「痛恨のダメージ」から「程よい達成感」へと質を変えた。


 幸子はメニューを強化する。土曜を練習日に加え、週3回へ。さらには『バーピー』に跳躍を加えた『バーピージャンプ』へと負荷を引き上げた。その結果――幸子の体重は、この1ヶ月で3.5kgの減少を記録した。


 10月の柔らかな日差しが差し込む校舎。

 幸子は、筋肉痛から解放された自分の身体が、かつてないほど「軽い」ことに驚いていた。一歩踏み出すたびに、地面を蹴り出す足取りに羽が生えたような、今までに味わったことのない感覚だ。

 教室へ向かう階段の前で、幸子はふと立ち止まった。いつもなら一段ずつ、重い足を引きずるように昇っていたその場所で、彼女は気まぐれに、そして吸い込まれるように、一段飛ばしで階段を駆け上がった。

 トントンと軽快なリズムを刻み、身体の芯がぶれることなく、驚くほど滑らかに、そして力強く。その光景を目撃したクラスメイトたちが、凍りついたように動きを止めた。


「おい、今あいつ、一段飛ばしで上っていったぜ……」


「マジかよ……」


「豚が、飛びやがった……」


 嘲笑や嘲弄を含んだ、かつての言葉が、驚愕と戸惑いに変わっていく。だが、その一段飛ばしへの驚きが収まった直後、一人が幸子の背中を指差して、声を震わせた。


「つうかあいつ、少し痩せてねえか?」


「……言われてみれば、確かに……」


 その言葉に、他のクラスメイトたちも幸子を改めてまじまじと見つめた。

 制服のスカートのウエストに、以前にはなかった微かな余裕が生まれている。顎のラインが、少しだけ鮮明になり、横顔のシルエットが、シャープになっている。幸子の減量がもたらした変化は、鈍感なものでも気付くレベルへの変化になっていた。


「……って言うか、あいつ、何となく可愛くなってるような……」


「はあ? キモい事言うなよ。お前、相手は太田だぞ」


 一人が冗談めかして言った言葉に、別のクラスメイトが即座に突っ込む。

 しかし、突っ込まれたクラスメイトも、そして周りの生徒たちも、幸子の変化から目を逸らすことができなかった。

 それは単に体重が減ったからではない。血色が良く、内側から発光するような透明感のある肌。イキイキとした表情。それは、健康的な美しさが、彼女の身体を内側から輝かせている証拠であった。


 これまでの幸子の肌は、どうしても血色が悪く、なんとなくどんよりとくすんで見えがちだった。それが、日々の努力で余計な脂肪が少しずつ落ちていくと、肌の様子が明らかに変わってきた。


 脂肪という「厚いカーテン」が薄くなったことで、そのすぐ下を走る毛細血管の赤みが、ふんわりと肌に透けるようになったのだ。そのおかげで、今の幸子の頬には、まるで上質なチークをふんわり乗せたような、ほんのりとした血色が宿っている。それは内側から輝くような、健康的な艶だった。


 それに加えて、髪の変化も大きかった。

 京加賀のアドバイスで豆乳を毎日飲むようになり、良質なタンパク質がしっかり届くようになったからだろうか。以前は少しパサついていた髪が、指通り滑らかな、つるんとした質感に変わり始めていた。


 肌はつやつや、髪はさらさら。女子高生にとって、この二つが揃うということがどれほどの武器になるか、幸子自身はまだ自覚できていない。


 さらに、あのハードなTABATA式トレーニングも一役買っていた。

 全力で心肺機能を追い詰めるあの時間は、全身の毛細血管を大きく拡張させていた。おかげで彼女の肌は、常に代謝が良い状態が保たれ、いつでもポッと火照ったような状態をキープできるようになっていたのだ。



 周りのクラスメイトたちが「あれ? なんか最近、幸子って雰囲気変わったよね」「すごく健康そうで、なんか可愛い」とヒソヒソ噂し始めるのも無理はない。


 けれど、当の本人はいたって鈍感だった。

 毎日、鏡と体重計とにらめっこしては、「あと何キロで……」なんて数字や体型のことばかりを気にしている。自分の肌がどれほど透明感を増し、髪がどれほど美しくなったかなど、これっぽっちも気づいていない。


 彼女が血の滲むような努力で手に入れたのは、ただ痩せた身体だけではない。それは、誰もが思わず振り返ってしまうような、瑞々しく健康的な「輝き」だった。



 けれど、幸子が変わっていく姿は、必ずしも好意的な視線ばかりを招くわけではなかった。彼女の苦悩を知らない一部の男子たちは、その変化を別の角度から見ていた。


「おい、あいつ。男にちやほやされたことなんてないから、今いけば簡単に落とせるんじゃねえか?」


「でもよ、男ができたら油断して、また豚に逆戻りしちまうぜ」


「どうせいくなら、もっと痩せさせてからだな」


「おもしれえ、どこでいくかチキンレースだな」


「いや、チキンじゃなくポークレースだろ」


 そんな酷い言葉が、ふとした瞬間に背後から聞こえてくる。結局のところ、彼らにとって幸子は「努力する一人の人間」ではなく、ただの「いじめの対象」でしかなかった。


(ふざけるな。誰があんたたちなんて……死んでもお断りだ……)


 心の中では叫んでいても、口には出せない。幸子は必死に目に溜まった涙を堪え、何も聞こえないふりをしてやり過ごした。孤独な闘いは、まだ続いていた。



 だが、そんな向かい風の中に、ようやく幸子にとっての「追い風」が吹き始めた。


 とある放課後。教室で静かに帰りの支度をしていると、一人の女の子が恐る恐る近づいてきた。


「あの……太田さん、少しいいかな?」


 声をかけてきたのは、同じクラスの仲間深雪だった。

 彼女もまた、クラスの中ではどちらかと言えば地味で、少しだけふくよかな体型をしている。今の幸子よりはまだわずかに痩せているが、悩みは近いのかもしれない。


「はい、仲間さん。どうしたの?」


 深雪は、自分の指先をいじりながら、顔を真っ赤にしていた。


「あの……最近、太田さんがすごく痩せてきてて、本当にスゴいなって思ってて……。もし何かダイエットとかしてるんだったら、私も教えてほしいな……と思って」


 その言葉は、消え入りそうに小さかった。

 きっと彼女も、幸子と同じように人との距離感に悩み、自分から誰かに声をかけるのが苦手なタイプなのだろう。そう察しただけで、幸子の胸の奥が熱くなる。深雪がどれほど勇気を振り絞ってこの言葉を口にしたか、今の幸子には痛いほど分かった。


 京加賀や瑠奈は、確かに心強い仲間だ。けれど、彼らはすでに成功を収め、高い山の上から幸子を導いてくれる「偉大な先人」だ。今の幸子には、同じ高さの目線で、同じタイミングで悩み、同じような苦しさを分かち合える相手が必要だった。


 二人で同じ道を歩んでいける――そんな「友達」という存在を。


「……仲間さん」


 幸子は、少しだけ震える声で、けれどはっきりと笑顔を作った。


「教えてあげる。……一緒に、頑張ろう?」


 幸子は、まるで砂漠でオアシスを見つけたかのように、深雪の手を強く握りしめていた。ずっと一人で戦ってきた自分にとって、同じ目線で語り合える存在は、喉から手が出るほど欲しかったものだった。


「あ、ごめんね。つい、嬉しくて……」


 ハッと我に返り、慌てて手を離す幸子。深雪は少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに表情を和らげた。


「いや、いいよ……。それより、嬉しいだなんて、照れちゃうよ…」


 彼女にとって、幸子のその熱っぽく握られた手は、「話しかけてよかった」という確信と、自分を歓迎してくれているという何よりの証明に感じられたのだ。幸子は深雪の目をまっすぐに見つめた。そこには、以前の卑屈な自分はもういない。


「私が分かっていることなら、なんでも教えるよ……。一緒に頑張ろう。いや、もう逃がさないよ、仲間さん」


「え、ええっ……!?」


 幸子のあまりの勢いに、深雪は少し後ずさりしながらも、隠しきれない期待に瞳を輝かせる。それは幸子にとっても、自分の中に閉じこもっていた壁が、外側からノックされて崩れ去った瞬間だった。

 一人で走る道は「修行」のようだったが、二人なら「冒険」に変わる。幸子のダイエット道に、かけがえのない友人という名の、一番の追い風が加わったのだった。



続く☆




開始時の体重:90.80kg


 


現在の体重:72.25kg(-18.55kg)


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