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早食い防止のコツと味覚の変化


   【穏やかなランチタイム】


 昼休み。幸子はこれまでの学校生活で経験したことのない、弾むような高揚感を覚えていた。

 誰かと向かい合って食べる昼食。ずっと一人、机の隅でやり過ごしてきた幸子にとって、ただ隣に人がいるというだけで、教室の景色がまるで見違えて見える。

 仲間深雪は幸子の席までやってくると、躊躇いがちに椅子を引き、自分の昼食を広げた。ジャムパンとコロッケパン。甘さと油分が同居した組み合わせだ。


 一方で幸子は、通学カバンから二つのタッパーを取り出した。一つには手作りのおかず。そしてもう一つには、かさ高なもやしがぎっしりと詰まっている。


「いただきます」


 幸子がそう言って、お箸で淡々とモヤシを口に運び始めると、深雪は不思議そうな顔でまじまじとそれを見つめた。


「太田さん……それ、どっちもおかず? ご飯は食べないの?」


「えっとね、このもやしがご飯代わりなんだ」


「ええっ、もやしがご飯なの!? すごいね……」


 予想外のメニューに深雪が目を丸くすると、幸子は少しだけ照れくさそうに笑った。


「これはね、もやしを入れてからタッパーに熱湯を注いで、そのままレンジで3分加熱するの。それでお湯を切って、ポン酢をかけて持ってきたんだよ」


「何か、すごいね……。さすが本格的にダイエットする人は、ストイックなんだね」


 感心したように深雪が呟く。

 本来、京加賀からは「昼食まで無理に制限する必要はない」と助言されていた。だが、幸子の心にはかつてないゆとりと、確固たる目標が生まれていた。自分で決めたルールという自覚が、不思議と空腹感を打ち消していた。


「そうだねえ……自分でも、気がついたら自然とこういう風になっちゃってるんだ。あんまり辛いって感じたこともないかも」


 そう答える幸子の横顔は、かつてのダイエットに失敗した時のような「空腹に耐える苦悶の表情」ではなく、自分の身体を管理しているという穏やかな充実感に満ちていた。

 そんな幸子の姿を、深雪は憧れに近い眼差しで見つめている。二人の間には、パンの甘い香りと、ヘルシーな昼食の時間が、静かに、そして心地よく流れていった。



 幸子は、目の前にある深雪の昼食――ジャムパンとコロッケパン――を眺めながら、ふと京加賀の姿を脳裏に浮かべた。


(もしここに先輩がいたら、間違いなくこう言うだろうな……)


『お前がそれを食べて得られるのは、糖質だけだ』


 あの理屈っぽくて、でもどこか厳しく、そして正しい先輩の口調。そう想像すると、自然と口元が緩んだ。幸子は、ふっと吹き出しそうになる笑いをこらえ、深雪の方を向いた。


「……あのね、仲間さん。その食事、ダイエット的にはあんまりオススメできないかも」


「えっ、そうなの? やっぱり野菜をメインにした方がいいのかな?」


 不安げに尋ねる深雪に、幸子は自分でも驚くほど淀みなく言葉を続けた。


「野菜も大切だけどね、一番意識した方がいいのはタンパク質だと思う。筋肉の材料にもなるし、代謝を落とさないためにも、しっかり摂った方がいいよ」


「タンパク質……っていうと、肉とか魚かな?」


「そうそう、そんな感じ! パンにジャムにコロッケって、全部合わせるとほとんど糖質になっちゃうから。糖質って摂りすぎると、使われなかった分が全部脂肪として蓄えられちゃうんだよ。逆に言えば、身体に脂肪があるうちは、糖質をそこまで積極的に摂らなくても平気なんだって」


幸子の言葉は、かつて京加賀から受けた指導をそのままなぞるものだった。けれど、それを自分の口から語ることで、知識がようやく自分の中で「血肉」になったような感覚がある。


「なるほど……! そういうことか。太田さん、すごく詳しいんだね」


 深雪の尊敬の眼差しを受けて、幸子の胸に心地よい熱が広がる。

 いつもなら、ただ自分を卑下してうつむくだけだった昼休み。それが今は、誰かの役に立ち、知識を分け合う対等な場所になっている。


(……私、ちゃんと前に進んでるんだ)


 先輩に教わったことを、今度は自分が誰かに教える。そんな「指導者」としての自分を少しだけ味わい、幸子はちょっぴり背筋を伸ばした。自分の中の知識が、誰かのためになるという誇らしさが、今日のモヤシをいつもより少しだけ美味しく感じさせていた。




  【早食いのリスクとよく噛むコツ】


 数分後、深雪はコロッケパンをあっという間に平らげ、ジャムパンを食べ始める。対照的に、幸子のタッパーの中のもやしは、まだ半分以上が残っている。


「太田さんって、食べるのもゆっくりなんだね。やっぱ早食いは良くないのかな?」


 深雪の素朴な問いに、幸子は箸を止め、教わった知識を思い返しながら頷いた。


「そうだね。早食いはダイエットの大敵だよ。食べたものが胃に入って『満腹だ』っていう信号が脳に届くまでには、だいたい20分くらいかかるから。早食いしちゃうと、その信号が届く前に食べ過ぎちゃうんだよね。それに、よく噛むことで、血糖値の急上昇も抑えられるからさ」


 幸子の淀みのない説明に、深雪は「へぇ〜!」と深く感心した表情を見せた。


「そうなんだ……。でも私、どうしても自然と早食いになっちゃうんだよね。頭では『もっと噛まなきゃ』って分かってるんだけど、気づくと飲み込んじゃってて」


「分かる、私もそうだったよ。口寂しいと、つい急いで胃に詰め込みたくなっちゃうよね」


 幸子はそう言って、少し懐かしそうに微笑んだ。今の自分を変えてくれた、あの日のやり取りを思い出す。


「でもね、前に一緒に食事した時に、先輩から『早食いにならないためのコツ』を教えてもらったんだよ。これ、すごく効くから試してみて」


「コツなんてあるの? 教えて!」


 身を乗り出してきた深雪を前に、幸子の脳裏に京加賀の姿が鮮明に浮かび上がる。



 先日、自分自身が「早食いになってしまう」と悩みを打ち明けた後、あの人が静かに、けれど的確に授けてくれたあの方法――。

 幸子は、少し遠くを見るような目で、あの日京加賀と交わした会話を深雪に語り始めた。



 回想の中の京加賀は、冷徹なまでの冷静さで箸を置いて、幸子を諭すように言った。


『いいか、早食い防止のためには、何と言っても料理をしっかり味わうことだ』


『料理を味わう?』


『そうだ。早食い傾向の人間は、基本的に料理を味わっていない』


『そうでしょうか?』


 幸子の問いに、京加賀は少しだけ呆れたような、しかし指導者としての厳しさを湛えた瞳で幸子を見つめた。


『ではお前、今食べた料理を説明できるか?』


『ええ、皮はパリパリでジューシーなチキンが美味しかった、ですけど』


『他には?』


『ええっと……難しいですね』


『もっと素材の味、ソースの風味や、脂の匂いなどなど。そうだな、お前はグルメ漫画は読むか?』


『いえ、全然』


『ならば食レポするレポーターになりきるイメージだ。グルメ漫画を読んでいるなら、その登場人物になりきって料理を解説するんだ。第三者に説明できるくらい、目の前の料理を味わってみろ』


『なるほど』


『口に出さずとも脳内で言語化してみろ。それくらいできるようになって初めて料理を味わっていると言える。そうすると必然と噛む回数は増えているハズだ』



「……あの時の私は、ただ『美味しかった』っていう、ざっくりした感想しか持っていなくて。でも先輩は、料理をただ飲み込むんじゃなくて、細部まで言葉にして意識しろって教えてくれたんだよ」


 幸子がそう締めくくると、深雪はまるで新しい世界の扉を開いたような顔で、自分のコロッケパンをじっと見つめた。


「脳内で食レポ……。太田さんは、そうやって一つ一つ噛みしめて食べてるんだね」


「うん。……あ、でも一つだけ注意点があるんだって。先輩は、味に敏感になるっていうのは、同時に『マズいもの』も明確に分かってしまうようになるっていう諸刃の剣だって言ってたよ」


 幸子が少しいたずらっぽく笑うと、深雪もつられてクスッと笑った。

 教室の喧騒の中に、二人だけの静かで穏やかな時間が流れていく。それは、幸子にとって何にも代えがたい、昼休みの贅沢なひとときだった。




  【味覚の成長と変化】


「でも、よく馬鹿舌とか神舌とか言うじゃない。ああいう味覚ってのは、生まれ持ったものじゃないのかなあ?」


 深雪はふと抱いた疑問をそのまま口にした。


「ううん、味覚ってのは学習で成長するんだって」


「そうなのかなあ」


「でも私は、確かに味覚に変化があったんだよ。まあ、それを成長と呼べるかは分からないんだけど」


「へえ、味覚の成長かあ」


 深雪は目を輝かせながら、幸子の言葉を一つひとつ噛みしめるように聞いている。幸子はもやしを一つ箸で持ち上げ、少しだけ誇らしげに続けた。


「素材をしっかりと味わうと、実は食材そのものに結構しっかりした味が付いていることに気付いたんだよ。だから前より、薄味でも全然美味しく食べられるようになったの。塩分の摂りすぎもダイエットには良くないから、これは意外なメリットだったかも」


「うんうん、本当に勉強になる……。私、全部ジャムやソースの味で誤魔化してた気がする」


 深雪が深く頷くのを見て、幸子は確信を得る。そして、自分が体験した一番の「驚き」を口にした。


「それとね、薄味に慣れると、今まで大好きだったスナック菓子が、恐ろしいほど塩辛いことに気付いちゃったんだ。この前、お母さんが食べていたポテトチップスを一枚だけもらったんだけど……口の中でしばらく噛んでいたら、びっくりするくらいしょっぱくて。あんなに好きだったのに、一枚で十分だったの。なんだか、それ以上食べられなくて」


 ふと深雪は、自分が食べていたジャムパンをもし幸子が食べたらどう感じるのか興味が湧き、半分ほど食べかけていたジャムパンを千切って幸子に渡してきた。


「ねえねえ太田さん、試しにこれ食べてみて。太田さんが食べたらどう感じるのか知りたいんだ」


「いいの?」


「うん」


 深雪から差し出されたジャムパンを、幸子は少し緊張しながら受け取った。以前の自分なら迷わず飲み込んでいたはずの菓子パン。けれど今は、かつて京加賀に叩き込まれた「レポーター」の視点が、自然と幸子の意識を鋭くさせる。


「それじゃ、いただきます」


 幸子は一口サイズの欠片を口に入れ、ゆっくりと咀嚼を始めた。舌の上でパンの生地を転がし、唾液と馴染ませる。喉に落とさず、奥歯で何度も丁寧にすり潰す。30秒ほどかけ、口の中でパンの繊維とジャムが混ざり合うのをじっくりと感じ取り、最後に鼻からスッと空気を抜いた。


「……えっと、正直に言っちゃっていいのかな?」


「うん、遠慮なく教えて!」


 幸子は少し困ったような、でも真剣な面持ちで口を開いた。


「えっと……パンは少しボソボソしてて、あまり小麦の味や香りがしなかったかも。もしかしたらだけど、古い小麦を使ってるのかも。それをジャムの甘さで誤魔化してる感じ」


 深雪は目を見開いたまま、幸子の言葉をじっと待っている。幸子は言葉を選びつつ、さらに続けた。


「それにこのジャムも、あまりイチゴの味がしなくて、イチゴといより、イチゴ風味のお菓子みたいな……。多分、水飴とかにイチゴの香料を混ぜて水増ししてるのかも。なんだか、食べているものに対してこんなこと言っちゃってごめんね」


 幸子が申し訳なさそうに謝ると、深雪は首を横に振った。


「いいんだよ。私がお願いしたんだから。でも……なるほどなあ。味わって食べるって、こういうことなんだね。私、これまで普通に美味しいって思って食べてたもん。ショックというより、面白いっていうか……不思議な気分」


 深雪の感心した様子に、幸子は一つ頷いて、さらに京加賀から教わった「考え方」を付け加えた。


「あとね、早食い防止のために『量は減らしてでも質を上げろ』って言われてたの。同じ値段なら、安くて多いものより、少量でも本当に美味しいものを選べって。飲み込むのがもったいないって思うくらい美味しいものなら、自然と噛む時間も増えるし、満足感も高いからって」


「なるほどね……。太田さんのダイエットって、ただ我慢するだけじゃなくて、食への向き合い方そのものを変えていくんだね」


「うん。……なんだか、前よりも食事がすごく楽しくなったよ。どんな味かを探る、ちょっとしたゲーム感覚のような」


 幸子の表情には、かつて鏡の前で体重計の数字を見て青ざめていた頃の面影はなかった。

 料理を楽しむ心と技術。それは、幸子が手に入れた新しい生きザマと、ダイエットという名の冒険を楽しんでいる証でもあった。二人の昼休みは、このささやかな「食レポ」のおかげで、昨日までよりずっと中身の濃いものになっていた。



続く☆




開始時の体重:90.80kg



現在の体重:72.25kg(-18.55kg)



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