京加賀の外食の流儀【中編:ベジファーストの罠】
「半分正解で、半分が罠…? どういう意味ですか?」
幸子の問いに、京加賀は手際よく肉を一口大に切り分けながら答えた。
「どこから説明するか。…まあ、まずは『半分正解』の方からいこう。太田、ベジファーストを完遂するには、野菜を食べ始めてからどれくらい時間を空ければいいか知っているか?」
「えっ、時間? ただ単純に野菜を先に食べればいいんじゃないんですか?」
「まあ、恐らくそれが多くの者が抱いている認識だろうな。あるいはもう少し意識が高ければ、野菜、タンパク質、糖質の順番で食べる、と答えるかも知れない。しかし正確には少し違う。医学的に効果を狙うなら、野菜を食べてから糖質を摂るまでに15分から20分は空ける必要がある」
「じ、15分も…」
「それだけ空けてようやく糖質の吸収を遅らせる効果が出る。だから深刻な糖尿病患者の食事療法として指導されるケースもあるんだ。だから、ベジファースト自体が間違いとは言わないが、実態を知らないまま用語だけが一人歩きしてしまっているのが現状だ」
幸子は湯気を上げる『若鶏のグリル』に目を落とした。
「無理ですよね。そんなに待ったら、お肉が冷めて美味しくなくなっちゃう」
「その通りだ。そんなことに固執するくらいなら、一口で三十回噛む事にこだわった方が、よほど現実的だ」
京加賀は肉を口に運び、飲み込んでから続けた。
「さて、ここからが『罠』の解説だ。太田、ベジファーストみたいに『一品ずつ片付ける』食い方は、結果として『早食い』を招くリスクがあるんだよ」
京加賀はそこで言葉を切り、目の前のサラダの皿を指し示した。
「同じ物を連続して食い続ける事は、『作業効率』が良くなる事は想像しやすいだろう。ベジファーストを行う場合、最初に1品無くなる事で、残りの料理も連続して同じ物を食べ続ける流れになりやすい」
幸子はギクリとした。確かに今の自分は『流れ』でサラダを片付けようとしていた。
「効率が良いと言う事は、早食いになりやすいと言う事だ。そして、早食いは血糖値を急上昇させる。つまりは同じ糖質量でも脂肪に置き換わりやすいという事だ」
「血糖値を上げたくなくて先に野菜を食べたのに、逆に上がりやすい食べ方になってしまうなんて、何だか皮肉ですね」
「さらに致命的なのが『飽き』だ。味覚というのは、同じ刺激を受け続ける、つまり同じ物を食べ続けていると次第に鈍くなる。これを『味覚鈍麻』という」
「味覚鈍麻?」
「例えば牛丼を延々と食っていると、後半は味がぼけてこないか? だから箸休めに『紅生姜』を挟む。酸味と辛味で舌をリフレッシュさせ、改めて牛丼を美味しく感じさせるための先人の知恵だ」
京加賀はフォークでサラダを刺していく。
「料理を最後まで最大限美味しく食べる秘訣は、複数の皿を交互に食う『三角食べ』にあるんだよ。ベジファーストでいきなり一皿を片付けてしまうのは、料理の彩りと味のバリエーションを自らドブに捨てるようなものだ」
「まさに、食事はエンタメって事ですね?」
「その通りだ。食事はただの栄養補給の行為ではない。それに、美味しく、楽しく食べる事が脳の満足度を上げ、ドカ食いを防ぐ。そして、もう一つ知っておくべき事がある」
京加賀は炭酸水を一口飲み、声を落とした。
「厚生労働省が作成した2025年度の『日本人の食事摂取基準』から『ベジファースト』の記述そのものが姿を消したのを知っているか?」
「え、ベジファーストが消えた? 国が作ったものから?」
「ああ、野菜さえ先に食べればいいという誤った認識が独り歩きしてしまった事や、医学的根拠が不十分だと判断されたらしい。その代わりに注目されているのが『プロテインファースト』だ」
「プロテイン。肉や魚ですか?」
「プロテイン、すなわちタンパク質が胃に入ると、小腸から『インクレチン』というホルモンが出る。こいつは脳に『栄養が届いた、もう食うのを止めていいぞ』と指令を出す。言わば天然の食欲抑制剤だ。まあ、いきなりメインディッシュを完食してしまっては、それこそ食事の彩りを損ねてしまうが、最初の一口目にプロテインにいくのは悪くない選択肢だと思っている」
幸子は小さく溜息を吐く。
「まさか、ベジファーストが幻想だったなんて…」
京加賀は肉を切り分けながら、何かに気付いたようにニヤリと笑う。
「良い事を思いついたぞ。食べる順番などは効果が薄いかも知れないが、野菜、すなわち食物繊維を食べてから15分待てば糖質の吸収を抑えられるというのは活かせるかも知れないぞ」
「え、でも15分も待ってたら料理が冷めちゃうって…」
「いや、料理が届いてから何かしようとしてももう遅い。自宅を出る時、あるいは店に着いてから食物繊維を摂れば、料理が届くまでに15分くらいの時間は稼げるとは思わないか?」
「待ち時間の間に食物繊維を? でも、何を食べたら良いでしょうか?」
「それはすでに以前教えただろう。板海苔とトリプルファイバーがあるじゃないか」
「えっ、板海苔って…」
幸子は待機スペースで板海苔を食べる自分を想像してみる。
パリパリと小気味の良い音を立て、板海苔をモシャモシャと食べる。
『ねえママ、あのお姉ちゃん大きな海苔を食べてるよ、変なの~w』
『しっ、見ちゃいけません』
それはどう考えても恥ずかしかった。
「あの、さすがにそれは、ちょっと恥ずかしいというか…」
「気にする事はない。『旅の恥はかき捨て』だ。どうせもう二度と会う事もない。いや、仮にどこかで会ったとしても分からない」
「いや、旅というか、普通に生活圏内というか…。っていうか、先輩は人前で板海苔とか食べられるんですか?」
「ん? 全然問題ないが何か?」
そう言えば、さっき待機スペースで空気椅子とかやってたっけ…。きっと京加賀先輩なら、本当に平気なのだろう。その時、幸子の頭に閃きが浮かぶ。
そうだ、困った時の『ふぅちゃんだ』。
幸子はスマホを取り出すと、人口AIのアプリを起動する。
「ふぅちゃん、ファミレスの待ち時間に手軽に食べられる、携帯しやすくて食物繊維の豊富な食べ物を教えて?」
すると、『ふぅちゃん』は数秒で回答を表示する。
『そんな時は「個包装の素焼きアーモンド」がおススメですよ。ナッツなら待ち時間に食べていても自然ですし、低糖質で食物繊維も豊富です。あと、「乾燥わかめ(茎わかめ)」を少し摘まむのもおやつ感覚で目立ちません。それと、パウダー状になっている「難消化性デキストリン」も、お冷で飲む事もできます』
幸子はスマホを京加賀の前に、チェスの駒を置くような所作で差し出した。
「先輩、これはどうですか? これなら、乙女のプライドを守りつつ、先輩の理論を完遂できます!」
京加賀はスマホを手に取り、画面をスクロールさせて文章を読み始める。
「なるほど、俺から見ても完璧な回答だ。見事だ太田」
「ありがとうございます。でも、私のアイデアじゃないですけどね」
「いいや、自分で使いこなせているのなら、それはお前自身の力だ。むしろ、これからの時代は人口AIを使いこなすスキルは社会人にとって必須スキルになると思っている。こいつは積極的に活用した方がいい」
京加賀に褒められ、幸子は嬉しくなった。何だか成長した自分を見せられた気がして、少しは恩返しになったのだろうかと思った。
「うむ、これならお前はもう十分独り立ちできるな」
「えっ、今何て…?」
「つまり、卒業だよ」
その言葉が耳に届いた瞬間、幸子の思考は凍り付いた。賑やかな店内の喧騒が急に遠ざかっていく。隣のテーブルで子どもがスプーンを落とした高い音も、ドリンクバーの機械が立てる低い唸りも、すべてがガラス一枚隔てた向こう側の出来事のように感じられた。
幸子の視界の中で、京加賀の輪郭だけが異様にハッキリと浮き上がっていた。
「卒業…」
いきなりの卒業宣言に幸子は頭が真っ白になった。もはや今の幸子にとって、京加賀はただのダイエットの助言者以上の存在になっていた。
「以前お前は言っていたな、生まれ変わりたいって」
京加賀はそう言うと、わずかに背筋を伸ばし、幸子を正面から見据えた。
「お前はここに来る時、一駅前で降りて歩いてきた。それは以前の、流されるままに生きてきたお前じゃない。もうお前は意識の根底から変わっている。つまり、かつての『太田幸子』からはもう、生まれ変わったって事だよ」
京加賀は残りの炭酸水を一気に飲み干した。氷がグラスに当たるカラン、という乾いた音が幸子の胸に冷たく響く。
「俺は立場上、多くの者のダイエットを見てきた。しかし意識レベルの変化がない者は、ただ『知識』だけを詰め込み、一時的に痩せたとしても、いつの間にかリバウンドして消えていく。だがお前は違う。お前はもう、自分の意志で『生きザマ』を選び始めている」
京加賀は改めて幸子の目を真っすぐに見つめた。その瞳には厳しさだけでなく、教え子の成長を誇らしく思う、指導者としての満足感がこもっていた。
「はい…」
先ほどまでの楽しい気分が一変してしまった。このまま京加賀とはお別れになるのだろうか。
「では、食事も終わったしデザートの流儀について説明してやろう」
そう言う京加賀の言葉も、幸子の耳にはほとんど届いていなかった。
続く☆
【お知らせ】
次回の話では『ラーメン屋』、『回転寿司』、『焼肉』について、触れていきます。
もし皆様の中で『こういうお店ではどうしたらいい?』など気になる事がありましたら、感想などでご意見をお寄せください。物語に組み込む形で回答させていただきます。




