第3話 明彦、直美と遥
⌚2026年10月29日(木)午前3時19分
KEK(高エネルギー加速器研究機構)
ズズズ……と、地底を這うような重低音がモニタールームの床を揺らした。
筑波市は内陸地なので当然津波は来ない。遠州灘、駿河湾、相模湾から距離のある研究所での震度はせいぜい4か5弱程度だった。だが、数十秒間にわたって波打ち続ける地面は、精密機器の塊である研究所にとっては致命的だった。
天井パネルがガタガタと浮き上がり、蛍光灯のカバーが甲高い悲鳴を上げる。
直前までモニターに表示されていた美しい電子の描く円軌道が、一瞬で大きく破綻した。揺れで軌道が外れ、損失を検知したインターロックがビームを捨て、超伝導の四極は変位でクエンチ(超伝導状態の喪失)を起こした。
『警告、警告、ビームアボート。クエンチ発生』殺風景な室内が無機質な赤色灯と人工音声の警報に包まれた。
コンソールの端に置いたiPhoneのスピーカーからは、直美の悲鳴のような息遣いが聞こえていた。だが、次の瞬間、鋭い電子音の「Jアラート」が割り込んだ。
『緊急地震速報。大地震です。大地震です』
画面には「南海トラフ」の文字はない。壁のテレビが自動で起動し、屋外の防災行政無線が不気味なチャイムとともに同じ警告を連呼し始めていた。
直美との回線が切れた。
「くそっ、直美……!」
明彦はすぐにiPhoneを手に取り、直美の番号をタップした。しかし、スピーカーから返ってきたのは、「ただいま電話が大変混み合っております」という冷たいアナウンスだった。地上の基地局が、一斉に発信規制をかけたのだ。
所内の内線電話と非常電源は生きている。シフトの相方の矢澤顕子が慌ただしく廊下へ飛び出していく中、明彦はキーボードを叩き、アボートのログ保存と所内への緊急通達を打ち込んだ。
(頼むから無事でいてくれ……!スターリンクに切り替われ……!)
冷や汗で滑る指を必死に動かしながら、明彦は祈るように画面を見つめていた。
《《横浜市鶴見区》》
「きゃああああっ!」
直美はとっさにダイニングテーブルの下へ潜り込み、二台のスマホと緊急持ち出し袋のベルトを死に物狂いで掴んだ。
つくばの揺れとは比較にならない。築三十年のマンションが、まるで生き物のように「ごきり!」と大きな骨組みの音を立ててしなった。床が跳ね、椅子が音を立てて壁まで滑っていく。
もし、明彦の指示通りに窓やドアを開け放っていなければ——間違いなくドア枠が歪み、この部屋は巨大な密室の檻と化していただろう。ストッパーで固定された玄関の向こうに、廊下の明かりが見えていることだけが唯一の救いだった。
『緊急地震速報。大地震です。大地震です』ふたつのスマホが狂ったように鳴り響く。
(大地震だなんて念押ししなくてもわかってるわよ!大地震よ!体感中だわよ!)
明彦との電話は切れ、アンドロイドの画面の向こうにいた遥の「直美さん!おっきい!」という叫び声も、ノイズの彼方に消えた。Wi-Fiのマークが消灯し、台所の電波時計の液晶が不気味に途切れる。分電盤が落ち、部屋全体が嫌な静寂に包まれた。
「ハァ……ハァ……っ!」
揺れの第一波がようやく収まり、膝の震えを押さえつけながらテーブルの下から這い出た。玄関から廊下に出た。
左隣の部屋の女子大生・宮下さんの玄関ドアが数センチだけ開いて止まっていた。直美が「宮下さん!大丈夫?」と声をかけると、中から「ドアが開かないんです!」と悲鳴混じりに答えが返ってきた。
「宮下さん、ドアを押して!私が引っ張るわ」と二人して押したり引いたりしてドアを無理やり開けた。ドア枠が歪んでいた。
直美はパジャマ姿の宮下と廊下をおそるおそる歩いた。エレベーターは当然停止していた。廊下には、パジャマ姿のまま非常用袋やペットボトルを抱えた住人たちが、顔を引きつらせて飛び出してきていた。
「宮下さん、足元気をつけて!」
「ええ!直美さん、階段で下に降りましょう!」
近所の人々と声を掛け合いながら、非常階段を駆け下りる。目指すのは、明彦が言っていた隣の總持寺の広い境内だ。
總持寺への坂道の途中で、ブロック塀の側は避けた。境内へ向かう人の足が、ポツポツと増えていく。
みな山の手へ向かっていた。いまスピーカーが繰り返しているのは、まだ大地震のほうだった。
そして、街頭のスピーカーからは、遅れて巨大なサイレン音が響き始めていた。東京湾の内側へ、津波の第一波が近づきつつあった。
《《静岡県沼津市、遥の宿泊ホテル》》
「いやあああっ!何これ!?」
駿河湾の目と鼻の先に立つホテルの一室で、遥は猛烈な縦揺れによって床に叩きつけられた。
震度6強。客室の窓ガラスが白く軋み、廊下の非常灯が明滅を繰り返す。壁の絵画が落ち、花瓶が割れる凄まじい破砕音が響いた。
「遥!大丈夫か!立つな!」
彼氏が遥の上に覆いかぶさる。直美との通話はとっくに途切れていた。遥のアンドロイドがテーブルの上で跳ねながら、緊急地震速報をけたたましく鳴らしている。
だが、スマホの警報音など、外から聞こえてきた異音にかき消された。
ウウウウウウゥゥゥゥ——!!
地獄の底から響くような、津波警報のサイレン。直後、館内放送が悲鳴のような大音量で廊下に響き渡った。
揺れが収まりかけたころ『津波が来ます!すぐ上へ逃げてください!車は絶対に禁物です!非常階段で上へ!』というアナウンスが響いた。
「津波……!?嘘でしょ……!?」
遥の脳裏から、「今日が新曲の録音日であること」など完全に吹き飛んだ。
「遥、荷物はいい!このまま逃げるぞ!」
「あ、靴!靴を履かないと危ないわ!」
二人はスリッパを脱ぎ捨て、彼氏と手をつないで廊下へ飛び出す。
客室のドアが一斉に開き、パニックに陥った宿泊客たちが非常階段へと殺到していた。
国道414号線からは、避難しようとした車のクラクションと大渋滞の異様な喧騒が聞こえてくる。
「上だ!とにかく屋上へ行くんだ!」
館内がパニックの叫び声で満たされる中、遥は階段を駆け上がった。
背後で、駿河湾の海鳴りが、地鳴りのような低音を立てて不気味に響き始めていた。




