第1話 地震予知
⌚2026年10月29日(木)午前3時
腕時計が光った。スマホの通知だ。
何時?午前3時だと?それもSMSじゃなくて音声通話!なんと時間も考えずに不届きな!と思った。誰だ?
「明彦!いくら何でも午前3時よ!あなたにTPOという概念はないの?」
「直美!いいから聞け。キミのiPhoneのスターリンクダイレクトは設定したか?」
「ああ、この前ゴチャゴチャ言っていたあれ?まだよ」
「今、すぐ設定しろ」
「なんで?」
「いいから、設定しろ」
彼からTXTメッセが来た。「設定」>「モバイル通信」>「モバイルデータ通信のオプション」>「衛星通信」をオン。 面倒くさいなあ。でも、設定する。
「設定したわよ。それで、これがなんなの?」
「これで、5G/4Gの地上の電波が死んだり、屋外の圏外エリアだとしても、空が開けた場所に行くと、自動的に衛星との通信に切り替わって、画面のステータスバーに『衛星』マークが表示される。音声通話はできないけど、俺からのメッセは届く。キミのメッセも俺は受信できる」
「あんたにいつでもどこでもつながっているという安心感を私に与えたいの?」と皮肉っぽく言ってやる。
「黙って聞け!」と怒った声が聞こえた。真剣な話なの?そりゃあそおよね。早朝3時の通話だものね。
「部屋の窓を全部開けろ。部屋のドアもだ。玄関のドアもストッパーで開けたままにしろ。それで15分待機してろ。緊急持ち出し袋はキッチンのシンクの下にあるはずだ。それを出して、ダイニングテーブルに座っていなさい」
「ちょっとぉ!玄関のドアを開けっ放しって、物騒よ!」
「たった15分の辛抱だ!何もなければ、扉は閉めて寝てしまえ!」
「……15分あとに何が起きるのよ?」
「俺が正しければ、15分以内にあの耳障りな『 Jアラート』が鳴り響くんだ!」「……それって、何?弾道ミサイルやテロ?」
「南海トラフだ!」
「明彦、あんたどこにいるの?」
「つくば市のKEK(高エネルギー加速器研究機構)のモニタールームにいる。加速器のビーム軌道とエネルギーから、地面の揺れを見ている」
「ビーム?電気の粒が地震を感じるの?」
「感じる。電子と陽電子が、光に近い速さで、一周三キロの輪の中を回り続けている。曲げるのは電磁石だ。真空のパイプの真ん中を走らせて、その位置を、リングに何百個もある小さな電極が、休みなく見ている」
直美は掛け布団の端を握った。明彦が説明を続けた。
「地面が伸びたり縮んだりすると、輪の一周の長さが変わる。髪の毛の太さよりずっと小さい。でもビームは、理想の通り道からずれる。そのずれを全部足すと、輪がどれだけ伸びたか、粒の勢いがどれだけ揺れたかが出る。遠い地震の波は、つくばの地面を、数分から何時間も、ゆっくり膨らませたりしぼませたりする。加速器は、それをビームの揺れとして拾う。地震計を置かなくても、機械そのものが地面の伸び縮みを数えている」
「……それで、南海トラフが起こるって予知できるの?」
「過去に、分かったことがある。遠い地震波の到着は、何度も観測した。今回は、到着の前の数字が、そのどれとも違う」
「15分後って確かなの?」
「俺の勘だ。しかし、観測値は上昇し続けているんだ!」
KEKBは、1998年から2010年まで筑波の地下で走っていた電子・陽電子の衝突型加速器である。周長は約三キロ。ビームの位置は約四百五十台のボタン電極が常時見ていて、そのずれからリング全体のエネルギー偏差と周長の変化が計算できた。
2005年3月29日、約六千キロ離れたスマトラでマグニチュード8.7の地震が起きたとき、つくばのモニターにはその波が届いた。エネルギー偏差の最大振幅は約1.5×10⁻⁴。揺れは数時間続き、地球を周回する波まで、加速器の状態から見えていた。
翌2006年5月16日、約八千キロ離れたニュージーランドのマグニチュード7.5でも、同じ種類の信号が出た。広帯域の地震計を別に置かなくても、ビームが地面のうねりを記録していた。
KEKBの運転は2010年に終わり、同じトンネルを継いだのがSuperKEKBである。
監視はビームだけに頼らなくなった。2019年からはグラールプの三成分地震計が四台、地面と、衝突点の両側でビームを絞る超伝導電磁石の支持部に置かれ、二十四時間収録している。
Belle II検出器の頂部と地下十六メートルの床には加速度計、電磁石には隙間を測るセンサ、床には水準を見る静水レベル計。
体に感じない小さな地震でも、ビーム損失のインターロックが電子リングを止めることがある。2021年と2022年には、震度3から4の揺れで超伝導の四極電磁石がクエンチし、電源が落ちた。
「……その地震、大きいの?」
「詳しい説明はあとだ!もう、四分つかっちまった。あと、11分だ。急げ!iPhoneだけじゃなくて、アンドロイドと20,000mAhのバッテリーも忘れるな。」
「今日は、私の担当の女の子の新曲の録音日なのよ!」
「そんなもんは、地震が起きればキャンセルになるじゃないか!さっさと準備をしろよ!続きの説明はTXTをSMSで送っておく。ネットがつながれば電話する。ネットが死んだら、衛星通信で連絡を取り合おう」
「明彦、怖いわ」
「俺もだ。キミを横浜に一人にしてるんだ。どうやって横浜に戻れるか考え中なんだから」
「まさか、今日、南海トラフなんて……」
「まだ、起きるかどうか、わからん。起きないことを祈ろう。キミのスマホはスピーカーフォンにして、テーブルに置いて、準備をすぐ始めるんだ!すぐだ!あと、10分だ!」
直美は言われた通り、マンションのすべての窓とドアを開け放った。築30年の建物だから、大きな地震だと、窓とドアのフレームが歪んで開かなくなるんだ、と彼が言っていたのを思い出した。
(ああ、遥の新曲の録音日なんだけどなあ……)
スマホのスピーカーからは、水だ!簡易トイレだ!生理用品を忘れるな!という明彦の声が部屋に響いていた。




