第38話 月夜の黒い石
話はソフィアがザナルカンドに向かう一週間前に遡る。
東の鉱山で、ゲイルは椅子に腰を下ろしていた。
坑口から少し入った巻き上げ場。天井を支える太い梁の向こうに、夜空が見える。
きれいな満月だった。
「こんな夜は、しっぽりと酒を飲むに限る」
ゲイルは、ドワーフの中でもひときわ小柄だった。その代わり、横幅は立派にある。革の作業着を押し広げる腹は、座ると腿の上へどっしりと乗った。
大きな頭には、油染みのついた茶色の帽子。つばの下に覗く目は小さいが、鉱石の傷や混じり物を見逃したことはほとんどない。
鼻の下には、左右へ張り出した大きな口ひげがあった。あごひげは胸元まで伸び、作業中に巻き込まないよう、先を革紐で束ねている。
ゲイルは腹の脇へ手を差し込んだ。
取り出したのは、平たい金属製のスキットルだった。長年使った表面には細かな傷があり、片側が少しへこんでいる。
親指で蓋を開け、酒を口へ流し込む。
喉から腹へ、熱が落ちていった。
「……うまい」
口ひげについた一滴を、手の甲で拭う。
下の坑道へ降りた連中は、まだ作業を始めたばかりだ。予定どおりなら、あと三時間は上がってこない。
巻き上げ装置も、制動機も、交代の前に点検してある。
ゲイルは背もたれへ体を預けた。
「ゆっくり楽しむか」
そのときだった。
カン、カン、カン。
金属のベルが、静かな巻き上げ場に響いた。
ゲイルの手が止まる。
下の乗降場から、帰還を知らせる合図だ。
「……まじかよ。もう上がってくるのか」
月を見て、スキットルを見て、それからベルを見る。
ベルがもう一度鳴った。
「はいはい、分かったよ」
蓋を締め、酒を作業着の内側へ隠す。
ゲイルは椅子から降りた。短い脚では、座面から立つにも一度、体を前へずらさなければならない。
革靴を鳴らして、レールの切替台へ向かった。
◇
切替台には、太さの違うレバーが三本並んでいた。
ゲイルはまず、上側のレールを受け入れ位置へ切り替える。車輪止めを確認し、巻き上げ用のレバーを引いた。
装置の奥で、低い唸りが起こった。
魔導モーターが回り始める。
大きな巻き取り胴が鋼索を引き、歯車が規則正しく噛み合った。
坑道の下から、車輪の響きが近づいてくる。
ガタン、ガタン、ガタン。
ゲイルは音の間隔を聞きながら、制動レバーへ手を移した。
暗闇の奥に、作業灯が見える。
その灯りが決められた目印を越えたところで、ブレーキを引いた。
鋼索が張る。
車輪の音がゆっくりになり、最後に小さな金属音がした。
レールを載せた昇降台が、地面とぴったり同じ高さで止まる。その上には鉱石用のトロッコと、五人のドワーフが乗っていた。
ゲイルは固定具を掛けた。
「どうした。えらい早いじゃねえか」
先頭のドワーフが降りてくる。
ゲイルより頭一つ背が高く、肩幅の広い男だった。赤茶けたひげには石粉が絡み、額から流れた汗が頬に白い筋を作っている。
いつもなら、作業の愚痴か夕食の話をする男だ。
今夜は、口を固く結んでいた。
「ああ。こんなもんが見つかってな」
男がトロッコの荷台を指した。
ほとんど空の荷台に、厚い革布で包んだものが一つ置かれている。
「鉱石か?」
「見てくれ」
ゲイルは作業灯を引き寄せ、革布を開いた。
中には、黒い石があった。
大人の拳を二つ合わせたほどの大きさ。表面は荒く、割れた部分に細かな結晶が覗いている。
灯りを近づけると、その結晶がきらきらと鈍い光を返した。
ゲイルは鼻を寄せた。
次に、指の腹で表面を擦る。
煤はつかなかった。
「石炭じゃねえな」
「ああ」
「どこで出た?」
「下の東側。新しく掘った切羽だ。魔鉱石の層が細くなったんで、その先を追っていた」
ゲイルは石を持ち上げようとした。
触れた瞬間、指先が痺れた。
思わず手を引く。
「……おい」
口ひげの下で、唇が開いた。
石から流れてくる魔力が、皮膚の内側へ食い込んでくるようだった。
普段扱う魔鉱石にも魔力はある。質のいいものなら、触れずとも分かる。
しかし、これは違った。
小さな石を前にしているだけなのに、巨大な装置のそばに立っているような圧迫感があった。
「恐ろしい魔力だな」
ゲイルは低く言った。
「これは、生半可なもんじゃねえ」
◇
後ろにいた若い鉱夫が、帽子を脱いだ。
短い黒ひげの間から、緊張した口元が見える。
「掘り出したとき、探査灯が消えたんです」
「全部か?」
「その場にあった三つとも。替えの灯りを持ってきたら、それはつきましたけど……」
別の鉱夫が、腰につけた測定器を外した。
真鍮の枠に収まった、小さな針式の魔力計だった。
「こいつも駄目になった」
目盛りの端で、針が曲がっている。
ゲイルは眉を寄せた。
「それで、作業を切り上げたのか」
「このまま掘っていいか分からなくてな。切羽には誰も残していない」
「そりゃ正解だ」
ゲイルは革布を石の上へ戻した。
布越しでも、魔力は感じられる。
五人の顔を順に見る。怪我をした者はいない。ただ、誰も荷台へ近づこうとしなかった。
「どうする?」
赤茶ひげの男が尋ねた。
ゲイルは腕を組んだ。
珍しい鉱石なら、商会へ知らせる。品質を調べ、用途を決め、値段をつける。
いつもなら、それで済む。
だが、これは何に使うのかも、どう扱えば安全なのかも分からない。
「うっぱらうわけにもいかねえな」
「高くは売れそうだけどな」
若い鉱夫が言った。
ゲイルは、その鼻先へ太い指を向けた。
「買った奴の工房が吹っ飛んだら、お前が謝りに行くか?」
「……やめておくぜ」
「俺も嫌だ」
ゲイルは作業灯を少し遠ざけた。
「ひとまず、鉱山長に知らせる。商会付きの検査技師も呼べ。下の東側は、それまで閉鎖だ」
「ほかの坑道は?」
「こいつと同じものが出たら、触らずに戻れ。無理に掘るな」
五人が頷いた。
赤茶ひげの男がトロッコの取っ手へ手を掛ける。
「保管庫へ運ぶか」
「待て。普通の鉱石と一緒にするな。空いている検査室へ運ぼう」
ゲイルは壁に掛けた鍵束を取った。
鍵を選ぼうとして、指が少し震えていることに気づく。
酒のせいではなかった。
◇
石を検査室へ移し、扉に鍵を掛けたころには、月が坑口の正面まで来ていた。
ゲイルは巻き上げ場へ戻り、椅子に腰を下ろす。
先ほどと同じ満月だった。
それなのに、酒を飲む気にはなれなかった。
作業着の内側からスキットルを取り出し、しばらく眺める。
「……三時間、ゆっくりできるはずだったんだがな」
蓋は開けず、机へ置いた。
検査室の方を見る。
厚い扉の向こうにある黒い石。その魔力が、まだかすかに感じられた。
ゲイルは帽子を脱ぎ、大きな頭を掻いた。
長く鉱山で働いている。
落盤も、地下水の噴出も、坑道へ入り込んだ魔物も経験した。危ないものには、それぞれ音や匂い、前触れがある。
だが、あの石は何も語らなかった。
ただ、底の見えない魔力を抱えて、そこにある。
ゲイルは椅子から立ち上がった。
鉱山長が来るまで、検査室の前で待つことにした。
あの石を、一人きりにしておきたくなかった。
◇
坑口の外で、馬車の車輪が止まった。
続いて、重い足音と、何かを引きずるような足音が近づいてくる。
「こんな夜中に呼び出して、ひでえじゃねえか」
鉱山長のドーガンだった。
ドワーフとしては長身で、分厚い胸板と、丸太のような腕を持つ男だ。角張った顎を覆う灰色のひげは短く切りそろえられ、左の眉には古い傷が一本走っていた。
黒いジーンズに、なぜか外出用のジャケットを着ている。
襟元から覗くシャツは寝間着だった。おそらく、近くのハンガーに掛かっていたものを、そのまま羽織ってきたのだろう。
隣にいる検査技師のダッケンは、まだ目が半分閉じていた。
細身で、背中が少し丸い。薄い茶色の髪が頭の片側だけ跳ね、白い実験着はボタンが一つずつずれている。
丸眼鏡まで斜めに傾いていた。
「夜中じゃなくて……もう、朝に近いです……」
ダッケンが小さく呟く。
「どっちでも、寝てる時間には違いねえ」
ドーガンはゲイルへ顔を向けた。
「それで、ブツはどれだ?」
ゲイルは検査室を指した。
「あの中だ。普通の保管庫には入れない方がいいと思ってな」
「大げさな――」
ドーガンは言いかけ、言葉を止めた。
扉越しに伝わる魔力を感じたらしい。
ゲイルが鍵を開ける。
三人そろって、検査室へ入った。
◇
黒い石は、作業台の中央に置かれていた。
革布をめくると、表面の結晶が灯りを受けて鈍く光る。
ドーガンは、それを見た瞬間に凍りついた。
口がわずかに開いたまま、動かない。
ゲイルは、その横顔を見上げた。
「鉱山長?」
ドーガンは返事をしなかった。
石の割れた面へ視線を移し、それから低い声で言った。
「すぐに検査しろ」
ダッケンの眠そうな目が、少し開く。
「通常の成分検査で――」
「魔力の含有量と、結晶構造もだ。まとめて調べろ」
「……分かりました」
ダッケンは眼鏡を直した。
実験着のボタンは、そのままだった。
部屋の奥にある検査機の蓋を開け、内側の金属板を交換する。続いて厚い手袋をはめ、専用の器具で石を持ち上げた。
石が台座へ収まる。
蓋を閉めると、検査機に刻まれた紋様が順番に光り始めた。
低い振動が床を伝わってくる。
ダッケンは目盛りを確認し、途中で調整用のつまみを二度回した。
「結果が出るのは、三時間後です」
「分かった。それまで休んでいるがいい」
ドーガンが頷く。
「ゲイル。お疲れだった。今日はもう帰れ」
「ここで待たせてもらうよ」
ゲイルは椅子を引き寄せた。
「どうも、気になってな」
ドーガンは一瞬、何か言いたそうにした。
だが、結局は黙って、隣の待機室へ向かった。
◇
ドーガンは椅子へどかっと腰を下ろした。
ジャケットの内側からパイプを取り出し、煙草を詰める。
火をつける手つきは、いつもと変わらない。
しかし、一度吸ったあと、長い間、次の煙を吐かなかった。
ゲイルは向かいの椅子に座った。
壁時計の針が、ゆっくりと進んでいく。
ダッケンは検査機のそばに簡易寝台を出し、横になっていた。機械の警告音が鳴れば起きられる位置だ。
ほどなく、規則正しい寝息が聞こえてきた。
「よく眠れるな、あいつ」
ゲイルが呟く。
「待つのも仕事のうちだ」
ドーガンは短く答えた。
また沈黙が落ちる。
ゲイルは作業着の上から、スキットルの位置を確かめた。
今なら一口くらい、と思ったが、ドーガンの顔を見てやめた。
酒の匂いを嗅ぎつけられたら、話が余計にややこしくなる。
しばらくして、ドーガンが口を開いた。
「なぜ待っている?」
「言っただろ。気になるんだ」
「結果は明日、家へ届けさせるぞ」
ゲイルは笑った。
口ひげが持ち上がり、その下に白い歯が覗く。
「あんたの反応を見て、ここに残ることにしたんだ」
パイプを持つ手が止まった。
「……何の話だ」
「あれが何か、知っているんだろ?」
ドーガンは答えなかった。
ゲイルは、それ以上急かさずに待った。
長く鉱山で働いていれば、鉱山長が驚く姿も、怒る姿も見る。
だが、さっきの顔は違った。
未知の石を見た顔ではない。
見たくなかったものを、見つけてしまった顔だった。
時計が、小さく鳴った。
ドーガンは静かに立ち上がる。
「もうすぐ結果が出る」
それだけ言って、隣の事務室へ入っていった。
ゲイルは閉じた扉を眺めた。
「さて、あれは一体、何だろうな……」
胸の内には、不安とも期待ともつかないものがあった。
恐ろしく価値のある石かもしれない。
恐ろしく厄介な石かもしれない。
できれば、前者であってほしかった。
◇
「結果が出ました!」
検査室の扉が、急に開いた。
ゲイルは椅子の上で肩を跳ねさせた。
ダッケンが紙の束を持って立っている。
眼鏡はまっすぐになっていたが、実験着のボタンは、まだずれていた。
事務室からドーガンも出てくる。
「どうだった?」
ダッケンは一度、紙へ目を落とした。
「あれは、魔鉱石です」
「魔鉱石?」
ゲイルが声を上げた。
「魔鉱石だと? 魔鉱石なら、もっとこう、青くて、きらきらしたやつだ。あんなどす黒い石が魔鉱石であってたまるか」
何十年も見てきた。
質の違いも、産地の違いも知っている。
あんな魔鉱石は、一度も見たことがない。
ダッケンは怯まず、検査結果を差し出した。
「しかし、結晶の基本構造は一致しています。色が違うのは、内部に蓄えられた魔力の状態が違うからだと思われます」
「魔力が多いと、黒くなるのか?」
「普通は、なりません」
「じゃあ、普通じゃねえってことか」
「はい」
ダッケンは、そこだけはっきり答えた。
ゲイルは紙を受け取った。
細かな数値と図が並んでいる。鉱石の等級を示す欄は空白で、その横に小さく「判定不能」と書かれていた。
「これ、何で等級がねえんだ?」
「既存の分類では収まりません」
ダッケンは別の紙をめくった。
「魔力の含有量は、測定範囲を超えています。それに、通常の魔鉱石より、はるかに密な状態で魔力が保持されているようです」
ゲイルは検査室の奥を見た。
あの、小さな黒い石に。
「……武器に使えるのか?」
「加工できるかどうかも、今のところ分かりません。熱を加えたり、砕いたりする検査は行っていません」
「やらなくていい」
ドーガンが言った。
強い声だった。
ダッケンは顔を上げる。
「追加検査も、ですか?」
「ああ。勝手に魔力を流すな。削るな。欠片も持ち出すな」
ゲイルは、鉱山長を見つめた。
「やっぱり、知っているんだな」
ドーガンはしばらく黙っていた。
やがて、手に持ったパイプの灰を落とした。
「実物を見たのは、初めてだ」
「実物?」
「昔の資料に、似た石の図があった」
「何の資料だ?」
ドーガンは、ゲイルとダッケンを順に見た。
「魔導大戦の記録だ」
待機室が静かになった。
奥で動き続ける検査機の音だけが聞こえる。
「同じものかどうかは、まだ分からん」
ドーガンは続けた。
「魔鉱石ってのは、魔力を吸収するときにその性質が決まるんだ。そしてその質は色に現れる。通常は青みがっている」
ドーガンが続ける。
「だが天使の魔力を吸収した魔鉱石は透き通ってなにも色が付かねー純粋なクリスタルだ」
「天使が魔力をもっているのか?」
ゲイルが間を挟んだ。
「聖なる魔法ってのは魔力さ。魔物が使う魔力とは性質が違うがな。とにかく、どんな魔力を吸収するかで決まるんだ。そして、魔王の魔力を吸った魔鉱石はほとんど光を通さない黒になるそうだ」
ゲイルは思わずスキットルを落としてしまった。
「さっきも言ったように実物を見たことがあるわけじゃない。だが、あれだけの魔力を蓄えていることが、それを証明しているんだ…だからこそ、ここで俺たちだけの判断をするわけにはいかねえ」
彼はダッケンから残りの検査結果を受け取った。
「採掘場所を、正確に図面へ記せ。発見した五人からも話を聞く。あの切羽は閉鎖したままだ」
「石は?」
ゲイルが尋ねる。
「今は動かさない。まず、王国へ報告する」
ドーガンは事務室へ向かいかけ、足を止めた。
「ゲイル」
「何だ?」
「よく、売ろうとしなかったな」
ゲイルは大きな口ひげを撫でた。
「値段のつけ方が分からなかっただけだ」
ドーガンは、笑わなかった。
ゲイルも、それ以上は冗談を言わなかった。
坑口の外が、少しずつ白み始めていた。
月は山の向こうへ傾いている。
ゲイルは床に落ちたスキットルを取り、作業着の奥へしまった。
楽しみにしていた月見酒は、結局、最初の一口だけで終わった。
それでも今は、酒よりも、あの黒い石の行く末が気になっていた。




