第30話 記憶の再生
気が付くと、町の中にいた。
赤茶色の煉瓦造りの家が、通りの両側に並んでいる。遠くには、背の高い建物がいくつも見えた。
王都に似ている。
しかし、見覚えはなかった。
レオンは走っていた。
自分の意思とは無関係に。
手には、パンの入った籠がある。
腕が小さい。
視線も、普段より低かった。
*子供の身体……なのか?*
立ち止まろうとしても、足は止まらない。
籠の中でパンが跳ねる。
*おいおい、そんなに走ったら転ぶぞ。*
胸に浮かんだ声は、誰にも届かなかった。
やがて町外れの一軒家へ着いた。
煙突から煙が立ち、開けた扉の向こうから温かな料理の匂いがする。
「母さん、買ってきたよ!」
自分の口から、知らない声が出た。
「ありがとう。早かったわね」
台所にいた女性が振り返る。
柔らかな髪を後ろでまとめ、前掛けで手を拭いていた。
「これで、お祭りの前に食事を済ませられるわ」
食卓には肉料理や野菜、果物が並んでいた。
買ってきたパンを置くと、女性が隣の部屋へ声をかける。
「あなた、クリスが帰ってきたわ。食事にしましょう」
「ああ、今行く」
背の高い男が現れた。
クリス。
それが、この子供の名前らしい。
三人は食卓についた。
「今年の復活祭は、出し物が豪華らしいぞ。タスメニア王国から劇団を呼んでいるそうだ」
父親がパンを手に取りながら言う。
「楽しみね。歌劇を見るなんて、何年ぶりかしら」
母親が笑った。
クリスも、何か答えた。
知らない家族なのに、その食卓は妙に温かく感じられた。
そのとき、遠くで轟音が響いた。
二人の表情が変わる。
父親が椅子から立ち上がった。
「まさか、このタイミングで……」
玄関へ走る。
母親とクリスも、そのあとを追った。
*待て。外は危ないんじゃ――*
止めることはできなかった。
町の向こうから、黒い煙が上がっていた。
屋根の間に、炎が見える。
「祭りを狙ったのか」
父親が低く言った。
母親も、町の上空を見つめている。
「俺は城へ行く。二人は抜け道を通って、避難所へ向かえ」
「分かったわ。クリス、行くわよ」
「えー、ご飯は?」
*今、そんな場合じゃないだろ!*
レオンの焦りとは裏腹に、クリスは家の中を振り返った。
母親が、その手を取る。
「あとで食べましょう。今は急ぐの」
歩き出しかけた、そのときだった。
短い呻き声がした。
振り返る。
父親の脇腹を、黒い槍が貫いていた。
少し離れた屋根の上に、角のある人影が立っている。
「ラインハルトさんですね」
穏やかな声だった。
「あなたは危険なので、先に始末するよう命じられまして」
父親が膝をつく。
「ディアスの差し金か……」
「あなた!」
母親が駆け寄ろうとした。
「来るな!」
父親は血のにじむ口元を拭い、片手を上げた。
その手へ、光が集まる。
「二人とも逃げろ! ここは俺が引き受ける!」
母親の手が、強くクリスを引いた。
「走るわよ!」
◇
二人は家の裏へ回り、草原へ駆け出した。
背後で何かが砕ける音がした。
振り返りたい。
だが、母親は足を止めなかった。
「ケスク洞窟まで行くの。もう少しよ」
息が苦しい。
引かれる腕が痛い。
それでも、クリスは必死に走った。
丘を下った先に、小さな洞窟の入口が見えてくる。
その直前、火の玉が落ちた。
地面が弾け、熱い風が頬を打つ。
二人は足を止めた。
「みーつけたー」
頭上から声がする。
翼のある魔族が浮いていた。
一体ではない。
五体。
洞窟の前を塞ぐように、ゆっくり降りてくる。
*囲まれた……。*
雷光が走った。
魔族の一体が撃ち抜かれ、地面へ落ちる。
母親が片手を上げていた。
先ほどまで食卓で笑っていた顔には、険しい決意が浮かんでいる。
「この子には、触れさせないわ」
「このアマ……!」
残る四体が、散った。
母親はクリスを背にかばう。
「洞窟へ入りなさい。抜けたところに小屋がある。そこで助けを呼ぶの」
クリスの足は動かなかった。
手だけが、母親の服をつかんでいる。
「クリス!」
魔族たちから、一斉に光が放たれた。
母親が防壁を張る。
激しい音が響いた。
逸れた一撃が、クリスの足元へ落ちる。
土と小石が跳ねた。
その衝撃で、ようやく身体が動いた。
クリスは洞窟へ駆け込んだ。
暗い通路を、死に物狂いで走る。
背後の音が遠ざかる。
息が喉に引っかかり、脚が重くなっていく。
何度も壁へ手をついた。
それでも走った。
やがて、前方に明かりが見えた。
出口の先に、小屋がある。
クリスは扉へ駆け寄り、両手で叩いた。
「開けて! お願い!」
扉が開く。
誰かが、こちらへ手を伸ばした。
その瞬間、視界が白くなった。
◇
次にいたのは、教会のような場所だった。
高い窓から、淡い光が差し込んでいる。
祭壇の前で、神父らしい男が祈りを捧げていた。
レオンは、棺の隣に立っていた。
手の甲へ、雫が落ちる。
涙だった。
自分の目から、あとからあとから流れてくる。
棺の中には、美しい女性が横たわっていた。
誰なのか、分からない。
それなのに、胸が裂けるほど悲しかった。
名前を呼びたい。
だが、声にならない。
やがて棺の蓋が閉じられ、数人の手で担ぎ上げられた。
レオンの身体も、そのあとへ続く。
大勢の人が参列していた。
顔を伏せる者。肩を震わせる者。隣の人の腕を支える者。
誰もが、言葉少なだった。
列の中に、青い髪の少女がいた。
遠くて顔はよく見えない。
ただ、どこかで会ったような気がした。
目を凝らそうとしても、視線を動かせない。
身体は、棺のあとを追い続けた。
墓地へ着く。
棺が下ろされる。
自分の手が、一握りの土を落とした。
蓋に当たる音が、やけに大きく聞こえた。
膝から力が抜ける。
誰かが肩へ触れた。
レオンは、声を上げて泣いていた。
自分の悲しみなのか、記録の中の人物の悲しみなのか、もう分からなかった。
視界が滲む。
すべてが、再び白く消えた。
◇
次に目を開けたのは、どこかの部屋だった。
大きな機械がある。
幾本もの配線が床を這い、そばの画面では数字が絶えず変化していた。
*なんだ、ここは……?*
王都の魔導具とは、雰囲気が違う。
前世で見た設備に近い。
いや、それよりも、もっと先の技術のようにも思えた。
身体は、棺に似た細長い装置の中へ横たわっていた。
男が一人、近づいてくる。
何かを話していた。
口の動きは見える。
声も聞こえる。
だが、言葉の輪郭だけが曖昧で、意味をつかめない。
男は長い間、こちらへ語りかけていた。
自分も何度か答えたらしい。
けれど、その返事さえ理解できなかった。
やがて男が、装置の蓋へ手をかけた。
透明な蓋が、ゆっくり閉じる。
外の光景は見えているのに、男が遠くなったように感じた。
彼は何かを言い、隣の装置を操作した。
低い作動音が響く。
胸の奥へ、冷たいものが近づいてくるような感覚があった。
何かが始まる。
そう思ったところで、意識が途切れた。
◇
「レオン!」
「レオン!」
「おい、レオン!」
何人かの声がする。
「おい、レオン! 聞こえるか!」
目の前に、ヤンデンの顔があった。
その隣にラグナ。
ソフィアが、額へ手をかざしている。
見覚えのある棚があった。
魔導書と装備品。
ドワーフ王国の、地下遺跡だ。
「……戻った?」
自分の声が、妙にかすれて聞こえた。
「気がついたか」
ラグナが息を吐いた。
「石板の前で、急に倒れたんだ。呼んでも返事をしなくてな」
「どのくらい、経っていました?」
「一分か二分かな」
ヤンデンが答える。
*一、二分……?*
レオンには、もっと長く感じられた。
ソフィアが、目と顔色を確かめる。
「身体に異常はなさそうね。頭は痛くない?」
「痛みはありません。ただ、少しぼんやりします」
「急に立たないで。落ち着くまで待ちましょう」
レオンは頷き、壁へ背を預けた。
*世界の声。今のは何だった?*
『保存された記録の一部です』
*誰の記憶?*
『欠損している情報があり、人物と年代を特定できません』
クリス。
ラインハルト。
ディアス。
聞き取れた名前はあった。
三つの場面があった気がする。しかし、同じ人物の記憶なのかも分からない。
「歩けるか?」とヤンデンが聞く。
「はい」
レオンは立ち上がった。足に力は入る。ただ、胸の奥に残る恐怖と悲しみが消えない。
◇
ハロルドとの約束の時刻が近づいていた。
四人は品々へむやみに触れず、棚や台の位置、書物や装備の状態を記録した。
レオンも、手が動く範囲で手伝う。
文字を書いているうちに、少しずつ意識が落ち着いてきた。
帰りの障壁では、ソフィアから受け取った蓄魔具を使った。
板の模様が光り、身体の周囲を魔力が包む。
圧力は感じた。
それでも、来たときほど苦しくはない。
向こう側へ出ると、ハロルドたちが待っていた。
「戻ったか。何があった?」
ラグナが保管室の発見を伝え、ソフィアがレオンに起きたことを簡潔に説明した。
ハロルドはレオンの顔を見たが、その場で詳しくは尋ねなかった。
「分かった。今日はここまでだ。続きは戻ってからにしよう」
◇
洞窟を出る頃には、山の空が夕焼けに染まっていた。
冷たい風が、火照った頬を撫でる。
一行はドワーフ王都の宿舎へ戻った。
見つけた書物や装備の扱いは、ヴォルカン王へ報告したうえで決めるという。
夕食には、香草をまぶした焼き肉と、豆の入った濃いスープが出た。
ヤンデンが山盛りの皿を前に、満足そうに言う。
「この町の料理は、どこもうまいな。明日は残りの食堂を調べたい」
「遺跡の次は食堂の調査か」
ラグナがパンをちぎる。
「大事だろう。次に来る仲間の役に立つ」
「報告書も書くのか?」
「味の説明は、食えば分かる」
「それでは報告にならんだろ」
皆が笑った。
レオンも、少し遅れて笑う。
だが、見たものを詳しく話すことは、まだできなかった。
祭りを待つ町。
襲ってきた魔族。
倒れた父親と、子供を逃がす母親。
棺の中の女性。
そして、機械に囲まれた部屋。
どの場面にも、確かな説明がなかった。
レオンは食堂の窓へ目を向けた。
ドワーフの町は、夜になっても明るい。
店から漏れる灯りと、帰路につく人々の声が、通りを満たしていた。
*あの子供は、助かったのだろうか。*
葬儀の女性が誰なのかも、どうして亡くなったのかも分からない。
それでも、土が棺へ当たった音だけは、耳に残っていた。
レオンは杯の水を飲んだ。
冷たい感触を確かめ、今いる食卓へ意識を戻した。




