第二話 存在しない長官
中央人口管理局の建物は、この薄汚れた街には暴力的なまでに不釣り合いな白さを放っていた。
周囲には煤けた灰色の建物が肩を寄せ合っているというのに、その一角だけは染み一つない。
入口には、彫像のように微動だにしない二人の警備兵が立っていた。
トーマがふっと足を止める。
「やっぱ、お前一人で行ってくんない?」
「なんで」
「俺、政府の建物って嫌いなんだよ」
「私だって好きじゃない」
「じゃあ帰る?」
「謝礼」
「ああ……」
「半分欲しいんでしょ」
「行こう」
現金なやつだ。
中へ入ると、床のタイルまでが目に痛いほど白かった。
ミレイは、自分のすり減った靴底が急にひどく汚いものに思えて息を詰まらせた。
広大な受付フロアには、同じ制服を纏った職員が何人も座っている。
しかし、話し声はほとんど聞こえない。
静かというより、音を立てること自体が許されていないようだった。
ノクターンの役所とは思えない異様な静けさだった。
「何のご用件でしょうか」
受付の女が、機械的な声で尋ねてきた。
「あの、落とし物です」
「遺失物でしたら第三窓口へ」
「ここで働いてる人のなんです」
「お名前は?」
ミレイは鞄から身分証を取り出し、カウンター越しに見せた。
「ヴィクトル・ハイン」
女の指が止まった。
ほんの一瞬。
だが、確実にタイピングの手が硬直した。
それからゆっくりと端末へ視線を落とす。
「……所属は分かりますか」
「中央人口管理局。長官って書いてあります」
「長官?」
女が初めて顔を上げ、ミレイの顔を直視した。
「はい」
身分証を差し出す。
女はそれを受け取り、数秒間、感情の読めない顔で黙って眺めた。
そのあと端末に名前を入力する。
また入力する。
「……少々お待ちください」
「はい」
女は別の画面を開き、再び検索をかけ始めた。
その間を縫って、トーマがミレイの耳元へ顔を寄せ、声を潜める。
「なあ」
「何」
「なんか変じゃね」
「静かにして」
受付の女が席を立った。
奥のデスクにいた年配の男へ歩み寄り、何かを耳打ちする。
男の視線が、真っ直ぐにこちらを射抜いた。
「見られてる」と、トーマ。
「分かってる」
「俺たち何も盗んでないよな?」
「財布の中は見たけど」
「お前だろ」
「一緒に見たじゃん」
「俺は止めた」
「嘘つき」
やがて、年配の職員がこちらへ歩いてきた。
「お待たせしました」
柔らかい声だった。
口元には穏やかな笑顔すら浮かべている。
なのに、ミレイの全身の産毛が逆立った。
本能的な警戒だった。
「こちらは、どこで拾われましたか?」
「第九下層区です」
「時刻は?」
「朝。八時前くらい」
「拾ったとき、鞄は開いていましたか?」
「いいえ」
「中をご覧に?」
ミレイは一瞬だけ迷い、口を開いた。
「身分証だけ」
横でトーマがミレイを横目で見つめた。
手帳を隠していること、つまり嘘だと気づいている。
だが、男は気にした様子もなく深く頷いた。
「なるほど」
「本人に返してもらえます?」
男は身分証を、真っ白なカウンターの机にそっと置いた。
「恐れ入りますが」
男は一拍置いた。
「ヴィクトル・ハインという職員は、当局には在籍しておりません」
ミレイは目を丸くして男を見た。
「え?」
「該当する職員は確認できませんでした」
「いや」
ミレイは身分証を指差す。
「ここに書いてありますけど」
「こちらは正規の身分証ではないようです」
「偽物ってこと?」
「その可能性が高いかと」
トーマが小さく、安堵と呆れが混じった息を吐いた。
「だから変な鞄だったんだよ」
男が冷たい笑顔のまま続ける。
「鞄もこちらでお預かりしましょう」
「なんで?」
「政府機関を騙る物品です。調査する必要があります」
「偽物なのに?」
「偽物だからこそ、です」
もっともらしい理屈だ。
けれど、ミレイは腕の中の鞄をきつく抱き込み、決して渡さなかった。
「この人、本当にいないんですか」
「はい」
「ヴィクトル・ハイン」
「在籍記録はありません」
「昔も?」
男の笑顔が、ほんの少し止まった。
それだけだった。
「どういう意味でしょう」
「昔働いてたとか」
「過去の職員については、この窓口では確認できません」
「じゃあ確認してください」
トーマが袖を引く。
「ミレイ、もういいって」
「よくない」
「偽物だったんだから」
「じゃあなんでこの人、困ってるの」
男の目が細くなった。
「私がですか?」
「さっきから質問ばっかり」
「業務上必要ですので」
「身分証が偽物なら、私たちがどこで拾ったかなんてどうでもよくない?」
トーマが今度は強く袖を引いた。
「おい」
ミレイも、自分が余計なことを言っている自覚はあった。
だが昔から、相手が隠そうとするほど聞きたくなる。
悪い癖だった。
男は数秒間黙っていた。
やがてまた笑った。
「では、身分証はこちらでお預かりします」
「鞄は?」
「それもお願いできますか」
「嫌です」
「ミレイ」
「だって拾ったの私たちだし」
「……理由を伺っても?」
「売れそうだから」
トーマが横を向いた。
笑いを堪えているのかもしれない。
職員の男は笑わなかった。
「なるほど」
ミレイは鞄を抱き直した。
「じゃあ、身分証だけどうぞ」
そして受付を離れる。
「お待ちください」
背後から声がした。
ミレイは振り返らなかった。
そのまま建物を出た。
外へ出た瞬間、トーマが大きく息を吐いた。
「お前、頭おかしいって」
「なんで」
「政府の人間に『売るから嫌』って言う奴初めて見た」
「正直でいいじゃん」
「手帳隠してる時点で正直じゃねえよ」
「そこは別」
二人は人通りの多い喧騒の通りまで早足で歩いた。
ミレイは一度だけ、後ろを振り返る。
人口管理局のガラス張りの入り口。
さっきの男が、じっとこちらを見つめていた。
距離があるのに、はっきりと目が合った。
男はすぐさま奥の影へと消えた。
「……トーマ」
「何」
「やっぱり、この人調べたい」
「誰を」
「ヴィクトル・ハイン」
トーマは露骨に嫌そうな顔を引きつらせた。
「今『存在しません』って言われたばっかだろ」
「だから」
「だから?」
「本当に存在しないのか確かめるの」
ミレイは少し考えたあと、雑多な市場の方を真っ直ぐに指差した。
「あそこに古い新聞見られる機械あったよね」
「あるけど」
「昔の記録に名前があるかもしれない」
「なかったら?」
「帰る」
「絶対?」
「たぶん」
「もう嫌な予感しかしない」
「私も」
「じゃあやめようぜ」
「それとこれとは別」
トーマは大げさに天を仰いだ。
「俺、今日片靴拾っただけなのに」
ミレイは少しだけ笑った。
二人は市場へと足を踏み入れる。
ヴィクトル・ハイン。
存在しないはずの男の名前を確かめるために。




