第三話 欠けた名前
第三話 欠けた名前
市場に戻ると、人口管理局の静けさが嘘だったように、あちこちから声が飛んできた。
狭い通路を人が肩をぶつけながら行き交い、その両脇では干した肉や油まみれの機械部品、用途の分からない魔石、上層から流れてきた古着まで、ありとあらゆるものが売られている。肉を焼く匂いに機械油の臭いが混じり、少し先では値段をめぐって客と店主が怒鳴り合っていた。
「三個で十五!」
「昨日は十だっただろ!」
「昨日は昨日だ!」
その向こうで蒸気鍋の蓋が派手な音を立てた。
さっきまでいた白い建物では、咳払い一つするのにも周囲を気にしそうだったのに、ここでは誰も他人の声など聞いていない。ミレイは人混みを縫いながら歩いているうちに、人口管理局を出てから肩に残っていた力が少し抜けていくのを感じた。
「まだ調べるの?」
後ろをついてきていたトーマが、うんざりした声で聞いた。
「ここまで来たんだから」
「俺はもう帰りたいんだけど」
「帰れば?」
そう言うと、しばらく返事がなかった。振り返ってみれば、トーマは本気で迷っているらしい。
「……一人で帰るのも怖い」
「正直でよろしい」
「お前が怖がらなさすぎなんだよ」
「怖いよ」
ミレイは再び前を向いた。
「怖いから調べるの。何も分からない方が気持ち悪い」
それを聞いたトーマは何か言い返しかけたが、結局そのままついてきた。
市場の最奥にある情報屋は、店というより物置に近かった。
《記録閲覧・印刷・系譜照会》
そう書かれた看板は煤け、「系譜」のあたりは文字が半分剥がれている。店先には旧式の閲覧端末が三台並んでいたが、どれも画面の端にひびが入り、排熱口から絶えず生ぬるい風を吐いていた。
その奥で新聞を読んでいた老婆が、二人の姿を見るなり片手を出した。
「一検索三十リル」
「高くない?」
「嫌なら帰りな」
「学生割引とか」
「学生に見えないね」
「失礼」
「そもそも学生じゃないだろ」
横からトーマに言われ、ミレイは黙って睨んだ。
値切れそうにもなかったので三十リルを払うと、老婆はようやく端末の電源を入れてくれた。機械の奥で何かが回り始め、しばらくして青白い画面に検索欄が現れる。
最初に調べるものは決まっていた。
《ヴィクトル・ハイン》
名前を入力して検索をかけると、結果はすぐに表示された。
《該当記録 0件》
「ほら、やっぱりいない」
トーマはそう言ったが、ミレイは画面から目を離せなかった。
人口管理局で言われたことと同じだ。ここに残されている古い新聞や公報にまで名前がないとなれば、あの身分証が偽物だったという説明にも筋は通る。
それでも納得できなかった。
あの黒い手帳には、ヴィクトルが何かを調べていた痕跡が残っていた。旧人口台帳、移住者名簿、そして《第七》という言葉。何より、建国当時の写真には六つの島とは別に、撮影場所となったもう一つの島があった。
「もう一回調べる」
「一検索三十リル」
新聞から顔も上げず、老婆が言った。
ミレイは財布を開いた。残りを数えたところで、次に何をするかは決まっている。
「……トーマ」
「嫌だ」
「まだ何も言ってない」
「金貸せって顔してる」
「半分でいいから」
「何の半分だよ」
「真実」
「真実を割り勘すんなよ」
文句を言いながらも十五リルを出してくれたので、今度はヴィクトル本人ではなく《中央人口管理局 歴代長官》で検索してみた。
古い政府公報や人事記録が大量に表示される。年代順に並べ替えて上から追っていくと、しばらくして妙な空白が見つかった。
第六十二代長官の在任期間は、帝暦三一八年から三二三年。
次の第六十三代長官は、三二五年から三三一年。
「一年ない」
ミレイが言うと、トーマも画面に顔を寄せた。
「三二四年?」
「うん。ここだけ長官がいない」
「一年くらい休んだんじゃね?」
「誰が?」
「人口管理局が」
「そんな制度ある?」
「俺に聞くなよ」
三二四年の人事記録そのものは残っていた。ただ、長官の欄だけが空白になっている。代理を置いたとも、長官職を一時的に廃止したとも書かれていない。
とはいえ、これだけなら単なる記録の欠損で済む。ミレイ自身、古い資料に空白があることくらいは珍しくないと思った。
だからこそ、鞄の中の手帳を思い出した。
頁をめくっていくと、意味の分からない数字や施設番号の間に、一つだけ完全な日付が記されている。
帝暦三二四年六月十七日。
ミレイはもう一度画面を見た。
長官の記録がない、ちょうどその年だった。
「これ調べてみる」
「偶然じゃない?」
「だったらそれが分かるじゃん」
三十リルを追加で払い、その日付と人口管理局を検索すると、七件の記事が見つかった。
一番上に表示された政府公報を開く。
《人口管理制度改正案 中央評議会へ提出》
記事には会見の写真が添えられていた。壇上には六人の男女が並んでいる。その顔を順番に見ていたミレイは、右端の男で目を止めた。
少し落ち窪んだ目に、細い鼻。白髪の混じった髪。
「トーマ、この人」
呼ばれて画面を覗き込んだトーマも、すぐには何も言わなかった。
「……似てるな」
「ヴィクトルだよ」
「身分証、置いてきたじゃん」
「顔は覚えてる」
「似てるだけかもしれないだろ」
「ここまで?」
確かめるには、写真の下にある名前を見ればいい。
ミレイは一人ずつ読んでいった。
エルマー・ディーン。オルガ・フェレス。グラント・ルーベン。ハロルド・メイ。サーシャ・リンド。
そこで記載は終わっていた。
ミレイは写真に戻り、今度は人数を数えた。
「六人いるよね」
「いるな」
「名前は?」
トーマも数える。
「……五人」
二人とも、もう一度右端の男を見た。
本文まで確認したが、そこにも彼の名前はなかった。写真には確かに立っているのに、記事だけを読めば最初から五人で会見したことになっている。
「これ、政府の新聞?」
ミレイが老婆に尋ねると、「中央公報だよ」と返ってきた。
「じゃあ、同じ日の民間の記事は?」
老婆は新聞をめくりながら顎で端末を示した。
「資料種別を変えれば出る」
「また三十?」
「記録は飯より貴重だって言ったろ」
「真実、高すぎるだろ」
トーマのぼやきを無視して、ミレイは資料種別を民間紙と地域紙に切り替えた。
同じ日付、同じ会見。
十二件の記事が見つかった。
その中に《ノクターン日報》という新聞がある。聞いたことのない名前だったので老婆に尋ねると、二十年ほど前までこの島で発行されていた新聞らしい。
「なんでなくなったの?」
「政府の補助金を切られたからさ」
「なんで?」
「さあね」
老婆はそこで話を切った。
ミレイは《ノクターン日報》の記事を開いた。
政府公報とほとんど同じ写真が使われている。壇上に六人。右端には、あの男。
違ったのは、その下だった。
こちらには六人分の名前がある。
一番最後に、
《中央人口管理局長官 ヴィクトル・ハイン》
と記されていた。
ミレイは思わず画面へ顔を近づけた。
見間違いではない。
「……いた」
トーマも今度は否定しなかった。
政府の公報では、同じ写真に彼の名前がない。歴代長官の記録でも三二四年だけが空白で、名前そのものを検索しても一件も出なかった。
それなのに、十一年前の民間紙には、ヴィクトル・ハインが人口管理局長官として載っている。
「消されたってこと?」
トーマが小声で言った。
「まだ分かんない」
「でも、これ」
「分かんないけど……」
ミレイは言葉を切った。
「少なくとも、あの身分証は偽物じゃなかったのかも」
そう言って記事を読み進めると、ヴィクトルが当時何をしていたのかも書かれていた。人口管理制度の改正に伴い、建国初期の資料を再調査していたらしい。
その対象として挙げられていた二つの資料を見た瞬間、ミレイは机の上の手帳へ目を落とした。
《初期移住者名簿および旧人口台帳》
手帳にも、まったく同じ言葉がある。
「トーマ」
「うん。俺も見た」
ヴィクトルは十一年前から、これを調べていた。
記事をさらに読み進めると、その理由も少しだけ書かれていた。
《建国初年度の人口について、現行資料では説明できない差異が確認されている》
その下に二つの数字が載っている。
公式移住者数、一二六万八四一二人。
建国初年度人口、一二八万一七五四人。
最初は何がおかしいのか分からなかった。けれど二つを見比べているうちに、ミレイは眉を寄せた。
「これ、逆じゃない?」
「何が?」
「アスハラに来た人数より、住んでた人数の方が多い」
トーマが画面を覗き込む。
「子供が生まれたとか」
「建国初年度に?」
「一年あれば生まれるだろ」
「一万三千人以上?」
そこまで言われて、トーマも黙った。
ミレイは紙に二つの数字を書き写して引いてみた。
差は、一万三千三百四十二人。
もちろん、百年以上前の記録だ。数字を間違えた可能性もあるし、途中で名簿から漏れた移住者が見つかっただけかもしれない。
ただ、ヴィクトル本人はそう考えていなかったらしい。
記事の最後に、彼の発言が残されていた。
《人数の差異は、単純な集計上の誤差では説明できない》
その下には、《調査は継続する》とある。
ミレイはしばらく記事を眺めてから、隣に置いた黒い手帳を開いた。
そこには何度も、同じ文字が書かれている。
VII。
最初に見つけたときは、何を意味しているのかさえ分からなかった。
今も意味は分からない。
けれど、ヴィクトル・ハインという人間が実在し、建国時の記録を調べていたことだけは分かった。そして彼が調べていた記録には、本来そこにいるはずのない一万三千三百四十二人がいる。
「ねえ」
ミレイは紙に書いた数字を見ながら言った。
「この人たち、どこから来たんだろ」
トーマはすぐには答えなかった。
市場の向こうで、また値段をめぐる怒鳴り声が上がった。
しばらくして彼は、いつもの調子より少しだけ小さな声で言った。
「……七つ目から、とか?」
ミレイは顔を上げた。
二人の間に置かれた手帳には、VIIの文字が開かれたまま残っていた。




