第9章 センターステージ
十一月。
冷たい雨が降っていた。
楽屋には、衣装をまとったダンサーたちがいる。
窓の外では、雨が容赦なく降り続いていた。
それでも楽屋の中は、外の天気とは無関係に、独特の熱を帯びていた。
緊張。
笑い声。
ヘアスプレーの匂い。
誰かの緊張が、空気を伝って自分にも移ってくる。
それでも、この空気を千春は嫌いではなかった。
むしろ、今の自分にとって一番落ち着ける場所のひとつだった。
隣の席では、大学生の女の子が何度も台詞のように振り付けの順番をつぶやいていた。
前列の広告代理店の部長も、いつもと違う真剣な顔で鏡を見つめている。
ここにいる誰もが、今日という一日のために、それぞれの日常をやりくりしてきたのだと、千春は改めて思った。
千春は鏡を見た。
深いネイビーの衣装。
黒いリストバンド。
履き慣れたスニーカー。
舞台監督の声。
「五分前!」
その一声で、楽屋の空気が一変した。
おしゃべりが止み、それぞれが最後の確認に集中し始める。
千春も、深く息を吸って、衣装の乱れを整えた。
舞台袖へ向かう。
客席には田中がいる。
鈴木もいる。
それ以外にも、ミクやスタジオの仲間がいる。
会社の佐藤からも「行けたら行く」と言われた。
「行けたら行く」と言ってくれただけで、十分だった。
誰かが自分のことを気にかけてくれている。
その事実だけで、緊張の質が少しだけ変わる気がした。
誰かに見てもらえることは嬉しい。
けれど、誰か一人のために踊るわけではなかった。
「千春」
RIEが言う。
「今日は、間違えないこと考えなくていい」
千春は頷いた。
「止まらなければいいから」
その言葉を、千春は胸の中で繰り返した。
止まらなければいい。
プロジェクトでも、ダンスでも、同じ言葉が支えになっていた。
暗転。
舞台へ出る。
ハイハット。
光。
低音。
身体が動く。
最初の一歩を踏み出した瞬間、それまでの緊張が嘘のように消えた。
残っているのは、音と、身体だけだった。
何千回も練習した振り付け。
けれど今日は、少し違った。
いつもと同じ音楽、同じ振り付け。
それでも、身体の中を流れる感覚が、練習のときとはまるで違った。
足が床を捉える。
肩が音を拾う。
仲間の気配を感じる。
隣で踊るダンサーたちの息遣いさえ、今日はいつもよりはっきりと感じられた。
一人で踊っているようで、一人ではなかった。
客席の暗闇の中に、田中と鈴木の顔は見えない。
それでも、そこにいることは分かっていた。
その事実だけで、少しだけ足取りが軽くなる。
客席のざわめきが、幕の向こうから伝わってくる。
その音に、身体の芯が小さく震えた。
怖くないと言えば嘘になる。
それでも、この震えごと、今は踊りに変えられる気がした。
最初のパートを踊り終える頃には、震えは完全に消えていた。
残っていたのは、音楽と一体化したような感覚だけだった。
中盤。
ソロパート。
千春一人に光が落ちる。
一瞬だけ、過去の自分を思い出した。
蛍光灯。
スプレッドシート。
午後三時四十五分の時計。
早く今日が終わればいいと思っていた自分。
あの時計を、今でも覚えている。
秒針の進み方まで、はっきりと思い出せる。
けれど今、その記憶は、以前ほど重くはなかった。
過去は変えられなくても、それをどう抱えるかは、自分で選べる。
あの自分が消えたわけではない。
たぶん、これからも不安になる日はある。
迷う日もある。
それでも。
あのころの自分は、今この瞬間の自分を、想像すらしていなかっただろう。
蛍光灯の下で、ただ時計の針が進むのを待っていた自分。
今、光を浴びながら、時間を忘れて踊っている自分。
どちらも紛れもなく、同じ千春だった。
迷いも、不安も、消えたわけではない。
それでも、その全部を抱えたまま、今は前に進める。
千春は床を蹴った。
高く跳ぶ。
着地がわずかにずれた。
ほんの一瞬。
以前なら慌てたかもしれない。
だが、そのまま次の動きへつなげた。
止まらなかった。
身体が勝手に次の動きを選んでいた。
考える前に、動く。
その順番が、いつの間にか自然になっていた。
その一瞬の判断が、これまでの練習の全てを物語っていた気がした。
崩れても、止まらない。
それだけを、身体が覚えていた。
最後の低音。
右膝を床につける。
胸を上げる。
すべての動きを出し切った身体は、驚くほど軽かった。
まるで、長年背負っていた何かを、たった今下ろしたかのようだった。
静寂。
そして拍手。
音の中で見えていた景色が、ゆっくりと現実の光に戻っていく。
息が上がったまま、千春は舞台の上に立ち尽くした。
拍手の音が、身体の奥まで染み込んでくるようだった。
目の奥が、じわりと熱くなった。
泣くような場面ではないはずなのに、なぜか涙腺が緩んだ。
千春は小さく笑って、それをこらえた。
この一瞬のために、この半年間を走ってきたわけではない。
それでも、この瞬間があったからこそ、これまでの日々に意味が生まれた気がした。
舞台の上に立ったまま、千春はもう一度、深く息を吸い込んだ。




