↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蛍光灯のリズム  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/12

第三部 フィナーレの後のソロ    第10章 客席の外側

スマートフォンには、佐藤からのメッセージが届いていた。

『行けなくてごめん。娘が熱を出して。また今度、写真見せて』

千春は小さく笑って、画面を閉じた。

娘の熱は、きっと今夜には落ち着くだろう。

そう思いながらも、母親としての佐藤の顔を、千春は初めて意識した。

自分の知らない佐藤の時間が、確かにそこにあった。

ロビーで田中と鈴木が待っていた。

田中はオレンジ色のガーベラ。

鈴木は白いデルフィニウム。

二人とも、花を渡すことに慣れていないのが、その少しぎこちない持ち方から伝わってきた。

千春は受け取りながら、思わず笑いそうになった。

「先輩、すごかったです」

田中は本当に興奮していた。

その興奮ぶりは、まるで自分のことのようだった。

田中がここまで素直に喜んでくれることが、千春には少し意外で、そしてくすぐったかった。

「途中のソロ、ちょっと着地ずれました?」

千春は目を丸くする。

「分かった?」

「僕、意外と見てますから」

田中の観察力は、いつも思いがけないところで発揮される。

それが彼の作るサービスの精度にも、きっとつながっているのだろう。

「そこは黙って感動してよ」

二人で笑った。

花束の香りが、楽屋の匂いとロビーの冷たい空気に混ざり合う。

それだけで、今日という日が特別なものだったと実感できた。

ミクも楽屋から顔を出し、小さく手を振ってきた。

「千春さん、めちゃくちゃ良かったです!」

「ありがとう。今日、受付は?」

「もう終わりました。ロビーで少し見てましたよ」

短いやり取りだったが、スタジオの仲間に見てもらえたことも、千春にとっては大きな支えだった。

鈴木は少し遅れて言った。

「そのずれたところ、逆に良かったよ」

「慰めですか?」

千春は少し意地悪く聞いてみた。

鈴木がどう答えるか、なんとなく興味があった。

「違う。次へ行くのが早かった」

鈴木の言葉に、千春は笑う。

同じものを見ても、二人は違う場所を見る。

田中は勢いを見る。

鈴木は立て直しを見る。

どちらの視点が正しいというわけではない。

ただ、自分には持てなかった目を、二人がそれぞれ持っている。

それだけで、この半年は十分に価値があったと思えた。

千春は二人を好きだと思った。

恋愛という意味ではなく。

この半年、自分に別の景色を見せてくれた人たちとして。

だからこそ、どちらかを「選ぶ」という考え方に違和感が生まれていた。

二人と過ごした半年間は、それぞれ違う色をしていた。

どちらの色も、消してしまいたくはなかった。

同じ十数分の舞台を見て、これほど違う感想を持てるのは、二人がそれだけ違う場所から自分を見ているからだろう。

そのことに、千春は不思議な安心感を覚えた。

一人ですべてを判断しなければならないと思っていた頃には、想像もできなかった感覚だった。

一つの正解に縛られない見方が、こんなに身近にあった。

それぞれに正しさがあり、それぞれに限界がある。

田中の勢いだけでは崩れる場面もあるだろうし、鈴木の慎重さだけでは踏み出せない場面もあるだろう。

千春は、そのどちらの視点も、自分の中に少しずつ取り込みたいと思った。

二人の間にあるどちらかの未来ではなく、自分の未来を考えたい。

「来週、お時間いただけますか」

千春は言った。

「それぞれ、ちゃんと話したいです」

言い終えてから、自分の声が思ったよりしっかりしていたことに、千春自身が一番驚いていた。

迷いがなくなったわけではない。

それでも、迷いを抱えたまま前に進む方法を、少しずつ覚え始めていた。

ロビーを出ると、外はもう真っ暗だった。

冷たい空気が、火照った身体に心地よかった。

今夜だけは、何も決めなくていい。

そう自分に言い聞かせながら、千春は駅までの道を歩き出した。

改札を抜ける前に、もう一度だけスマートフォンを開いた。

田中と鈴木、それぞれに短いお礼のメッセージを送る。

二人からの返信は、驚くほど早く届いた。

その速さにも、それぞれの人柄が表れている気がした。

帰り道、千春は自分の足取りが、行きよりも軽いことに気づいた。

今日という日を境に、何かが確実に動き出していた。

電車の窓に映る自分の顔は、いつもより少しだけ晴れやかだった。

今日という一日を、千春はきっと長く覚えているだろうと思った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。