第11章 それぞれの速度
火曜日。
田中と喫茶店で向かい合う。
「返事ですよね」
「うん」
千春は正直に話した。
嬉しかったこと。
惹かれた部分があったこと。
けれど付き合えないこと。
「田中君と一緒にいると、私まで何でもできる気がした」
「じゃあ――」
「でも、それだけで付き合うのは違うと思った」
田中は黙った。
「今、私は自分が何をしたいのかを、初めてちゃんと考えてる。それを誰かとの関係で急いで決めたくない」
田中はストローを回した。
「僕、待つって言ったら?」
千春は少し考える。
「待ってほしいとは言えない」
田中が苦笑した。
「それ、ちゃんと振られてますね」
「ごめん」
「いや」
少し沈黙。
「僕、社内公募出しました」
千春は顔を上げる。
「例の?」
「はい」
「通るといいね」
「先輩も出せばいいのに」
田中の目に、期待の色が浮かんだ。
振られた直後だというのに、その表情に嫌味は少しもなかった。
むしろ、これまでよりも真っ直ぐに千春を見ている気さえした。
千春は笑った。
「実は、少し考えてる」
言ってしまってから、千春は少し驚いた。
まだ誰にも話していなかったことを、自然と口にしていた。
田中が驚く。
「マジですか」
「まだ決めてない」
「絶対出した方がいいです」
「そうやってすぐ押す」
「それが僕なんで」
田中は笑った。
店を出ると、田中は少し伸びをした。
「先輩、ちゃんと自分の道、行ってくださいね」
振られたはずなのに、彼の声はどこまでもまっすぐだった。
千春はその声に、少しだけ救われた気がした。
喫茶店を出て、千春はしばらく一人で夜道を歩いた。
一つの関係に区切りをつけたことへの寂しさと、自分の意思で決められたことへの静かな満足感が、同時に胸の中にあった。
木曜日。
鈴木との食事。
話題は最初、仕事だった。
やがて鈴木が言った。
「仕事の評価と、今から話すことは分けて聞いてほしい」
千春は姿勢を正した。
「はい」
「君の仕事を評価していることに、個人的な感情は関係ない。異動について話したことも、今回のプロジェクトでの実績を見て判断したものだ」
鈴木は一度、言葉を切った。
いつもなら迷いなく話す彼が、ほんの少しだけ視線を落とした。
「その上で言うけれど、プロジェクトが終わるまでは口にするべきではないと思っていた」
千春の呼吸が静かに浅くなる。
「僕は、仕事仲間としてだけではなく、個人的にも君に惹かれている」
曖昧だったものに、初めて名前がついた。
「もし迷惑でなければ、次は仕事の相談ではなく、一人の人間として食事に誘いたい」
千春は少しだけ目を伏せた。
嬉しかった。
鈴木は尊敬できる。
一緒にいれば安心できるとも思う。
仕事の話をしていても楽しい。
その気持ちに嘘はなかった。
だからこそ、この場で流されるように頷いてしまいたくなる自分もいた。
その誘惑を、千春は静かに抑え込んだ。
鈴木のような人に想われることは、誇らしいことのはずだった。
それでも、誇らしさだけで人生の選択をしたくなかった。
その一線だけは、譲れないと思った。
だからこそ、曖昧な返事をしたくなかった。
「ありがとうございます」
顔を上げる。
「本当に嬉しいです」
鈴木は黙って待った。
「でも、鈴木さんの気持ちにも、お付き合いするという形では応えられません」
鈴木は一瞬だけ目を閉じた。
「……そうか」
「すみません」
「謝らなくていい」
彼は少し笑った。
その笑顔には、残念そうな色が確かにあった。
完璧に受け止めているわけではない。
それでも、その感情を千春へ背負わせようとはしなかった。
千春は鞄から一枚の資料を出した。
「もう一つ、お話があります」
鈴木は資料の表紙を見た。
新規事業公募。
「出すんだね」
「はい」
「企画は?」
「まだ粗いんですけど」
千春は資料を開いた。
全国の店舗や物流拠点には、毎日の業務の中で無数の小さな工夫がある。
本部が決めたマニュアルには載らない改善。
現場だから気づく無駄。
顧客から繰り返し寄せられる小さな要望。
それらを投稿できる社内サービスを作り、統合基盤に蓄積されたデータと結びつけて、改善効果を検証する。
「六年間、私はエラーとか例外ばかり見てきました」
千春は言った。
「前は、それを消すのが仕事だと思ってたんです」
鈴木は資料から顔を上げた。
「今は?」
「例外の中に、現場が困ってる理由が入ってることもあるんじゃないかって」
今回のプロジェクトで、地方店舗の通信事情に気づいたこと。
営業部独自のコード体系にも理由があったこと。
標準化するだけでは解決できない問題があること。
「現場の人が持ってる小さな気づきを、ただの愚痴や例外処理で終わらせない仕組みにできないかなと思ってます」
鈴木はしばらく資料を読んだ。
ページを戻る。
数字を見る。
また先へ進む。
「正直に言う」
「はい」
「このままじゃ通らない」
千春は思わず笑った。
「やっぱりですか」
「アイデアはいい。ただ、事業としては弱い」
鈴木がペンを取る。
「誰が使うのか。導入後に誰が投稿内容を精査するのか。成果を何で測るのか。コスト削減なのか、売上向上なのか、従業員満足度なのか」
次々に書き込まれていく。
「それと、投稿するだけなら既存の社内SNSでもできる。なぜ新しく作る必要があるのかを説明しないといけない」
「はい」
少し落ち込む。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、もっと考えたくなった。
批判されているはずなのに、なぜか嬉しかった。
本気で向き合ってもらえているという感覚が、久しぶりだった。
職場の誰も、これほど正面から千春の考えにダメ出しをしたことはなかった。
優しさからくる遠慮を、ずっと当たり前だと思っていた。
けれど今、その遠慮のない意見こそが、一番の誠意なのかもしれないと感じ始めていた。
鈴木がペンを置く。
「でも、面白い」
千春は顔を上げた。
「本当ですか?」
「ああ。森田さんが六年間やってきたことと、今回のプロジェクトで経験したことがつながってる」
千春は資料を見る。
「手伝ってもらってもいいですか」
言ったあと、少しだけ迷いが生じた。
自分で選ぶと言いながら、結局鈴木へ頼っている。
その迷いが顔に出たのだろう。
鈴木が言った。
「頼ることと、人生を預けることは違うよ」
千春は顔を上げる。
「自分で決めたなら、人の知恵は使えばいい。全部一人でやることが自立じゃない」
「……はい」
「それに」
鈴木が少し笑う。
「この企画を通すために意見を言うことと、さっきの返事は別問題だ」
「分かっています」
「本当に?」
「分かってます」
二人とも笑った。
以前の千春なら、自分だけで何とかできなければ意味がないと思ったかもしれない。
けれど今は違った。
人に助けてもらいながら、自分で決めることもできる。
誰かの意見を聞きながら、自分の答えを持つこともできる。
その二つは矛盾しない。
六年かけて、ようやくそのことに気づけた。
遅すぎるとは、もう思わなかった。
店を出る頃には、夜気が冷たくなっていた。
駅へ向かう途中、鈴木が言った。
「森田さん」
「はい」
「一つだけ」
千春が振り返る。
「僕はまだ、君が企画部門へ行った方が堅実だとは思ってる」
千春は笑った。
「そこは変わらないんですね」
「変わらない。でも、僕の正解と君の正解が同じである必要はない」
千春は少しだけ立ち止まった。
その言葉が、冬の冷たい空気の中へ静かに溶けていった。
鈴木の背中を見ながら、千春はふと思う。
正解が違っても、隣を歩き続けられる関係もあるのかもしれない。
そんな新しい形の信頼が、二人の間に生まれつつあった。
「ありがとうございます」
駅前で別れる。
一人になった千春は、鞄の中の企画書に触れた。
紙の角が指先に当たる。
まだ粗い。
採択される保証もない。
それでも、初めて自分の意思で選んだ仕事だった。
夜道を歩きながら、千春は一度だけ空を見上げた。
星は見えない。
それでも、都会の光の中に、自分だけの小さな道筋が見えた気がした。
その道筋は、まだ誰にも証明できないものだった。




