第12章 開かれたフロア
冬。
土曜日の午後。
『STUDIO B-ROOTS』では、オープン・プラクティスが行われていた。
通常のレッスンとは違い、決められたプログラムはない。
壁一面の鏡の前で、それぞれが好きな音楽を流し、自分の課題を練習している。
千春はフロアの隅に荷物を置いた。
スマートフォンを見る。
新規事業公募の一次審査結果が届いたのは、前日の夕方だった。
――一次審査通過。
メールを開いた瞬間、思わず何度も読み返した。
採択されたわけではない。
次は役員を含む審査員へのプレゼンテーションがある。
審査員の名前を見て、千春は思わず息を呑んだ。
その中には、神谷本部長の名前もあった。
あの日、壇上でプロジェクト発足を告げた人が、今度は自分の企画を審査する側に回る。
不思議な巡り合わせだった。
むしろここからが本番だった。
田中の需要予測サービスも一次審査を通っていた。
「先輩、決勝で会いましょう」
メッセージが届いた。
相変わらず大げさだった。
千春は、
「まだ最終審査じゃないから」
と返した。
すぐに、
「細かいことはいいんです」
と返信された。
鈴木からは短いメッセージが届いた。
「おめでとう。次は数字を詰めよう」
喜んでくれているのか、仕事を増やされたのか分からない。
数字を詰めよう、という言葉の裏に、鈴木らしい誠実さがあった。
彼は決して、口先だけの応援はしない人だった。
本気で通したいと思っているからこそ、甘い言葉より先に、次の課題を提示してくる。
その厳しさが、今の千春には何より心強かった。
それでも千春は笑った。
RIEにも最近、言われた。
「千春、踊り変わったね」
「どう変わりました?」
「正解探さなくなった」
その一言に、千春はしばらく言葉を返せなかった。
自覚のないところで、誰かに変化を見抜かれる。
それは、少し照れくさく、同時にとても嬉しいことだった。
それが良い意味なのかと聞くと、RIEは肩をすくめた。
「自分で考えて」
いつもの答えだった。
千春はそのそっけない答えを、もう嫌いではなかった。
むしろ、そこにRIEなりの信頼を感じるようになっていた。
答えを渡さないことも、ひとつの優しさなのかもしれない。
千春はスマートフォンのプレイリストを開いた。
一曲選ぶ。
最初は静かなアコースティックギター。
数秒遅れて、小さなビートが重なる。
このスタジオで何百回と聞いてきたはずの前奏なのに、今日は少し違って聞こえた。
千春は鏡の前に立った。
今日は振り付けを決めていない。
最初のカウントさえ取らない。
曲を聞く。
右足が先に動いた。
床を滑らせる。
左肩。
腰。
腕。
ターン。
少し遅れた。
そこで止めない。
遅れた動きを、そのまま次の動きへつなげる。
以前なら、間違えたと思った瞬間に最初からやり直していた。
正しい動きがどこかにあると思っていた。
今は、そうは思わない。
次に何をするか、自分にも分からない。
だから耳を澄ます。
身体の重心を感じる。
今、自分が立っている場所を確かめる。
この一年で、立っている場所は何度も変わった。
確認する側から、決める側へ。
守るだけの仕事から、作る側の仕事へ。
一人で完結させる働き方から、人に頼ることを覚えた働き方へ。
どの変化も、自分から望んで動いたわけではなかった。
それでも、今はすべて、自分の足で歩いてきた道のように感じられた。
音が変われば、動きも変える。
速くなる。
千春も速くなる。
静かになる。
千春も止まる。
鏡の中に一人の女性がいた。
二十八歳。
会社員。
データ運用管理部、六年目。
ダンスを始めて三年。
大きなプロジェクトを終えた。
新規事業公募の一次審査を通った。
恋人はいない。
来年、自分がどの部署にいるのかも分からない。
企画が採択されるかもしれない。
落ちるかもしれない。
田中の企画が先に採択されるかもしれない。
今の部署に残ることになるかもしれない。
以前なら、それだけ不確定なものが並べば、不安で動けなくなっていた。
間違えたくなかった。
失敗したくなかった。
安全な方を選びたかった。
でも今は思う。
決まっていないということは、何もないということではない。
まだ選べるということだ。
不確定であることは、無力であることとは違う。
千春は、そのことにようやく気づき始めていた。
曲が一度、静かになった。
千春も動きを止める。
荒くなった呼吸を整える。
汗が首筋を伝った。
鏡の向こうには、蛍光灯ではなく、スタジオの柔らかな照明が映っていた。
それでも月曜日になれば、また会社へ行く。
蛍光灯の下で働く。
メールを読む。
会議に出る。
失敗することもある。
面倒な調整もある。
きっと、すべてが鮮やかな人生になるわけではない。
退屈な午後もあるだろう。
蛍光灯の下で欠伸を噛み殺す日も、きっとまだ何度もある。
それでも、その一日一日の意味は、もう以前とは違って見えるはずだった。
変わったのは、状況ではなく、状況をどう受け止めるかという部分だった。
それだけで、同じ毎日が、まったく違う手触りを持つようになっていた。
早く帰りたい日もある。
千春はそれでいいと思った。
大切なのは、毎日を特別にすることではない。
自分がどこへ向かっているのかを、自分で確かめられることだった。
再びビートが始まった。
千春は左足を踏み出した。
その瞬間、少しだけ軸がずれた。
身体が傾く。
以前なら止めた。
今は、傾いた力を利用してそのまま回った。
ターン。
腕を開く。
着地。
うまくいった。
偶然だったのか、それとも身体が覚えていたのか、自分でもよく分からない。
どちらでもいい、と千春は思った。
完璧な着地ではなかった。
それでも、今の千春には、それで十分だった。
思わず笑った。
未来には、まだ振り付けがない。
正解のカウントもない。
誰かが立ち位置を決めてくれるわけでもない。
それでも、自分の足はここにある。
蛍光灯の下でも、スタジオの照明の下でも、変わらないものがひとつだけある。
それは、自分の足で立っているという感覚だった。
どんな光の下に立っていても、その感覚さえあれば、きっと歩いていける。
次のビートが来る。
千春はそれを聞いた。
そして、自分の足で床を踏んだ。
曲はまだ続いている。
千春の一年も、まだ終わらない。
振り付けのない未来へ、今日もまた一歩を踏み出す。
――終――




