第8章 止まらないための軸
全社リリース当日。
午前九時過ぎ、営業系システムの一部に遅延が発生した。
「キューが増えてます!」
田中の声。
鈴木が立ち上がる。
その一瞬の判断の速さに、千春は改めて鈴木の胆力を見た気がした。
迷っている暇はない。
今は、原因を探すことだけに集中するしかなかった。
「影響範囲確認」
千春は自分の呼吸が速くなるのを感じた。
怖い。
半年間の仕事が、一瞬で崩れるかもしれない。
それでも手は動いた。
頭の中で警報が鳴っているのに、指はいつも通りキーボードの上を動いていた。
六年間、繰り返してきた動きが、今日は身体を支えてくれている。
「田中君、変換処理を確認して」
千春は営業本部の担当者に電話をかけた。
「申し訳ございません、現在システムに一部遅延が発生しております」
淡々と、けれど誠実に状況を説明する。
相手の苛立った声のトーンが、少しずつ落ち着いていくのが分かった。
こういうとき、感情的にならずに事実だけを伝える。
それが、六年間で身についた数少ない技術の一つだった。
「はい」
「鈴木さん、営業側への連絡、私がします」
「任せる」
電話を終えたあと、千春は自分の手が微かに震えていることに気づいた。
緊張していたのだと、今さらのように自覚する。
それでも、声には出さなかった。
出す必要もなかった。
四十分後。
四十分という時間が、体感では二時間にも感じられた。
その間、誰も口を開かなかった。
キーボードを叩く音だけが、部屋の緊張を物語っていた。
原因が判明した。
旧コード変換用の処理に想定外の集中が起きていた。
原因が分かった瞬間、田中が小さくガッツポーズを作った。
「見つけた……!」
その声には、原因を突き止めた達成感と、自分のミスではなかったという安堵が入り混じっていた。
千春も、詰めていた息を静かに吐き出した。
チームの空気が、張り詰めたものから、一気に緩んでいくのが分かった。
その日の夕方、簡単な振り返りの場が設けられた。
「原因と対応、どちらも記録に残しておこう」
鈴木の言葉に、田中がすぐにドキュメントを開いた。
今回の教訓は、次のリリースにも活かされるはずだった。
失敗も成功も、ただ流れていくのではなく、少しずつ積み重なっていく。
それが、このチームのやり方になりつつあった。
修正。
再実行。
復旧。
大規模な業務停止は回避された。
田中が椅子へ座り込む。
「寿命縮みました」
田中の声には、まだ少し震えが残っていた。
「私も」
千春が笑う。
笑いながらも、全員の顔にはまだ興奮の余韻が残っていた。
こういう瞬間の空気は、会議室のホワイトボードには残らない。
それでも、確かにチームの中に積み重なっていくものだった。
鈴木が言った。
「初日でこれなら上出来だ」
「上出来なんですか」
千春は思わず聞き返した。
もっと厳しい言葉が返ってくると身構えていた分、拍子抜けした。
「障害が出ないことより、出たときに止まらないことの方が大事だから」
その言葉は、妙にダンスと似ていた。
本番で一度もバランスを崩さない人はいない。
崩れたあと、次の音へ戻れるか。
それが大事なのだとRIEも言っていた。
仕事も、ダンスも、完璧を目指す競技ではないのかもしれない。
崩れることを恐れるより、崩れた後の一歩を信じられるかどうか。
千春はそんなことを考えた。
今日の障害対応も、きっとその一歩の連続だった。
鈴木の「上出来だ」という言葉を、千春は帰りの電車の中で何度も思い返した。
完璧じゃなくていい。
止まらなければいい。
その基準は、思っていたよりずっと優しく、そしてずっと難しいものだった。
完璧を目指すのではなく、崩れた後を大切にする。
その考え方は、この先の人生にも、そのまま当てはまる気がした。
プロジェクトの打ち上げ。
居酒屋の座敷は、いつもより騒がしかった。
今日一日の緊張を、みんなが少しずつ言葉に変えて吐き出しているようだった。
田中は既に三杯目のビールを空けている。
鈴木は普段よりも口数が多かった。
「森田さんは、あんまり飲まないんだっけ」
「弱いわけじゃないですけど、あんまり」
「じゃあ、烏龍茶で乾杯しよう」
鈴木がそう言って、店員を呼んだ。
気を遣われていることに気づきながらも、千春はそれを素直に受け取ることにした。
田中から再び誘われる。
鈴木からも、プロジェクト後にキャリアの話をしようと言われた。
千春はどちらにもすぐ返事をしなかった。
「発表会まで三週間なんです」
田中が笑う。
「やっぱりダンス優先」
「今だけ」
「じゃあ、観に行きます」
鈴木も頷く。
「終わったら話そう」
千春はその夜、スタジオへ向かった。
これまでより長く踊った。
足の裏に水ぶくれができた。
痛みを感じながらも、動きを止めなかった。
振り付けの精度を上げるためというより、何かに追い立てられるように踊っていた自覚はあった。
RIEから休めと言われた日もある。
「千春。頑張ることと、壊すことは違うよ」
そう言われて、初めて練習を休んだ。
RIEの言葉は短かったが、これまで聞いたどんな励ましよりも、まっすぐ胸に届いた。
以前の千春なら、休むことを負けだと思った。
今は違った。
続けるために休む。
プロジェクトでも学んだことだった。
足の裏の水ぶくれに絆創膏を貼りながら、千春は小さく笑った。
痛みも、疲れも、以前より素直に受け止められるようになっていた。
無理をしないことも、ひとつの強さなのかもしれない。
休んだ日の夜、千春は久しぶりに何もせずベッドに横たわっていた。
天井を見つめながら、ふと、この半年間のことを思い返す。
プロジェクトも、ダンスも、全力で走り続けてきた。
立ち止まることを、ようやく自分に許せるようになっていた。
休養を取った翌日、久しぶりに身体が軽く感じられた。
無理をしないことが、こんなにも次の一歩を軽くするとは、思ってもみなかった。
発表会まで、あと二週間。
仕事も、ダンスも、着実に本番へ向かっていた。




