第7章 選ばれた道、選ぶ道
十月。
田中と昼食を取っていた。
「社内公募、今年もあるらしいですよ」
千春は箸を止める。
「田中君も知ってるの?」
「当然です。僕、出そうと思ってます」
「何を?」
「店舗のデータ使った需要予測サービス」
田中は楽しそうだった。
箸を止めたまま、千春はその企画の話に引き込まれていった。
田中が話すとき、いつも目が輝いている。
売上予測という無機質なテーマのはずなのに、まるで宝物の話をしているようだった。
「今のプロジェクトやって、思ったんですよね。会社ってデータ持ってるのに、守るためにしか使ってない」
その視点は、千春にはなかったものだった。
守る対象としてしか見ていなかったデータが、田中の言葉を通すと、まったく違う資源に見えてくる。
千春はその言葉に反応した。
「守るためにしか」
「もちろん守るの大事ですよ。でも、せっかく集めたなら、新しいことにも使えるじゃないですか」
千春は黙った。
自分は六年間、データを壊さないことだけ考えてきた。
けれど今のプロジェクトでは、そのデータがどう使われるかを考え始めている。
守るための六年間が、無駄だったとは思わない。
ただ、守るだけでは辿り着けない場所があることに、今さら気づかされている。
その場所がどこにあるのか、千春にはまだ分からなかった。
その日の午後、地方のある店舗から、想定外の問い合わせが届いた。
「新しいシステムになったら、うちみたいな小さい店でも、本部の在庫を見られるようになりますか?」
電話の向こうの声は、どこか期待するような響きを持っていた。
千春は答えに詰まった。
「検討はしていますが、まだ確約はできません」
「そうですか……。実は、隣町の系列店で欠品してる商品が、うちには余ってたりするんです。それが分かれば、もっとお客さんに迷惑かけずに済むのに」
電話を切ったあと、千春はしばらくその言葉を反芻していた。
プロジェクトの資料には出てこない、現場だけが知っている小さな不便。
それを拾い上げる仕組みは、今の統合基盤の中には、まだどこにもなかった。
午後、何気なく他部署の人間と雑談する機会があった。
「森田さんって、データ運用でしたっけ。なんか、縁の下の力持ちってイメージです」
悪気のない一言だったが、その言葉が妙に胸に残った。
縁の下の力持ち。
悪くない評価だと思う一方で、そこから抜け出したい気持ちも、確かにあった。
その日の夕方、千春は先ほどの店舗からの電話を思い出しながら、一人でノートにメモを取った。
「店舗間の在庫共有」
「現場の小さな気づきを拾う仕組み」
まだ言葉になりきらない断片ばかりだったが、書き出すこと自体が、これまでにない感覚だった。
誰かに指示されたからではなく、自分の中から出てきた言葉。
それを書き留める手が、少しだけ震えていた。
数日後。
鈴木と移動中のタクシーで、千春はその話をした。
「田中君、公募に出すそうです」
「彼らしいね」
「鈴木さんは出したことあります?」
「一度ある」
千春は驚く。
まさか、という顔をしていたのだろう。
鈴木の口元に、少し悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
「落ちたよ」
「……意外です」
「またそれ?」
鈴木が笑う。
「何でも通ると思ってる?」
「少し」
「企画そのものが悪かったわけじゃない。でも、収益計画が甘かった」
「具体的には、どこが甘かったんですか」
千春は思わず尋ねた。
「初期投資に対して、回収までの期間を楽観的に見積もりすぎた。現場の抵抗も、正直、読み切れていなかった」
鈴木は淡々と語ったが、その口調には、当時の悔しさがわずかに滲んでいるように聞こえた。
鈴木は窓の外を見る。
「挑戦するなら、失敗しても戻れる場所を作っておく。それも大人の挑戦の仕方だと思う」
「戻れる場所、ですか」
「うん。全部を賭ける必要はない。今の仕事をちゃんとやりながら、隙間で挑戦する。それでいいと思う」
鈴木の言葉には、失敗を経験した人特有の実感があった。
理想論ではなく、失敗した後にどう立て直したかを知っている人の言葉だった。
千春は考えた。
田中は前へ進む。
鈴木は足元を固める。
二人の考え方は違う。
どちらかが正しいわけではなかった。
タクシーの窓の外を、見慣れた街並みが流れていく。
田中の速さも、鈴木の慎重さも、どちらも千春の中にはなかったものだった。
自分はどちらに近づきたいのか、まだはっきりとは分からない。
タクシーが信号で止まる。
窓の外を横切る人々は、それぞれ違う速度で、違う場所へ向かっていた。
千春もまた、自分だけの速度を探している最中だった。
夜。
千春はベッドの中で社内ポータルを開いた。
新規事業公募。
過去の採択案。
店舗スタッフ向け業務支援。
物流効率化。
どの案も、タイトルだけでは中身が想像できない。
けれど、それぞれの裏に、誰かの半年、あるいは一年がかけられているはずだった。
地域商店との連携サービス。
興味本位で見ていただけのつもりだった。
けれど画面をスクロールする指は止まらなかった。
気づけば一時間経っていた。
ページを閉じる前に、もう一度だけ画面を眺めた。
まだ何も始まっていない。
それでも、何かが静かに動き出した気がした。
ノートパソコンを閉じ、部屋の明かりを消す。
暗闇の中で、その気配だけがしばらく残っていた。
翌日、通勤電車の中で、千春はスマートフォンにメモを打ち込み始めた。
まだ企画と呼べるほどのものではない。
思いついた言葉の断片を、ただ並べているだけだった。
それでも、何かを「作る」という行為に、久しぶりに没頭している自分に気づいた。
その夜、久しぶりに手帳を開いた。
内定式の夜に書いた文字の隣に、小さく一行だけ書き足した。
「三十歳になる前に、一度、自分のアイデアで何かを形にしてみる」
まだ迷いはある。
それでも、その一行を書けたことが、今の千春には十分な一歩だった。




