第6章 鈴木の余白
第1フェーズ完了報告の日。
役員会は予定より長引いた。
「店舗側の教育コストは?」
「切り替え初日の障害想定は?」
「万が一の場合のロールバック手順は?」
「投資対効果は、いつ数字で示せるんですか」
一つ答えるたびに、また次の質問が飛んでくる。
役員たちの視線は鋭く、値踏みするようだった。
千春は資料の隅を、無意識のうちに指先で押さえていた。
これまでの人生で、これほど多くの視線を一身に浴びたことはなかった。
けれど、逃げ出したいとは思わなかった。
答えるべき数字と根拠は、すべて自分の手の中にあった。
質問が続く。
鈴木が全体を説明し、千春が運用面を補足する。
会議後、鈴木から声をかけられた。
「少し時間ある?」
会議室へ入る。
二人きりの会議室は、いつもより静かに感じられた。
窓の外では、夕方の空がオレンジ色に染まり始めていた。
「今日、ありがとう」
「いえ」
「特に教育計画の説明。あれは良かった」
「店舗側から聞いた内容をまとめただけです」
謙遜のつもりで言った言葉だったが、口にした瞬間、自分でもその軽さに違和感を覚えた。
鈴木は笑った。
「森田さんは、いつも『だけ』を付けるね」
千春が言葉に詰まる。
「ログを見ていただけ。現場に聞いただけ。整理しただけ」
指摘されて初めて気づいた。
「だけ」という一言に、これまでどれだけの成果を自分で小さくしてきたのだろう。
数えたことすらなかった。
「癖かもしれません」
「自分の仕事を小さく言う癖?」
鈴木の言葉は穏やかだった。
責めるようではない。
「昔の僕もそうだった」
千春は少し意外に思った。
鈴木は最初から何でもできる人間に見えていた。
その完璧に見える姿の裏に、何があるのか。
千春は少しだけ、踏み込みすぎているかもしれないと思いながらも、続きを待った。
「前の会社で、大きい案件を一度失敗したことがある」
鈴木が言った。
「三十歳の時。設計としては正しかった。でも、現場が使えなかった」
「当時のシステムは、僕から見れば完璧だった。処理速度も、拡張性も、業界標準以上のものを作った自信があった」
鈴木は淡々と続けた。
「でも、リリース後、現場から悲鳴が上がった。操作が複雑すぎて、誰も使いこなせなかったんだ。結局、半分も機能が使われないまま、次のリプレースで消えた」
「その話、初めて聞きました」
「あまり人には話さない」
それでも今、話してくれている。
その事実に、千春は小さな特別さを感じた。
「鈴木さんでも?」
「その言い方、ひどいな」
千春が慌てる。
笑いながらも、鈴木の目はどこか遠くを見ているようだった。
過去の話をするとき、人は少しだけ違う顔になる。
千春はその変化を、初めて間近で見た気がした。
鈴木は笑った。
「僕は技術的に正しいことばかり考えていた。運用する人のことを分かったつもりになっていた」
一度、失敗した。
だから鈴木は現場を重視する。
千春は初めて、彼の考え方の背景を知った。
「今の僕は、正しさより先に、使われるかどうかを考える。どんなに理論的に優れていても、現場が拒否すれば意味がない」
その言葉は、千春の中にすとんと落ちてきた。
理論と現実の間には、いつも溝がある。
その溝を埋める仕事こそが、自分たちの本当の役割なのかもしれなかった。
千春は、自分がこれまで無意識に避けてきた問いに、初めて向き合っている気がした。
正しいことをするのと、正しく伝わることは、まったく別の技術なのかもしれない。
「それで転職したんですか」
「それだけじゃないけどね」
鈴木は窓の外を見た。
「一度、自分が得意だと思っていたものが通用しないと分かったら、別の場所でやり直したくなった」
その言葉が千春に残った。
鈴木の声には、後悔でも自慢でもない、静かな重みがあった。
きっと本人の中でも、まだ整理しきれていない何かがあるのだろう。
千春はそう感じた。
完璧に見えていた人にも、越えられなかった夜があった。
それを知ったことで、鈴木という人が少しだけ近くなった気がした。
沈黙が少し続いた。
気まずさはなかった。
むしろ、言葉を挟まない方がいい沈黙もあるのだと、千春は初めて知った。
「森田さんも、この先どうしたいか考えておいた方がいい」
「この先」
「今回の実績があれば、今の部署以外へ行ける」
「例えば?」
「企画、PMO、経営企画寄りのシステム戦略」
鈴木は少し考える。
「企画部門なら、今の実績はそのまま評価される。数字にも残りやすい」
「PMOだと、もう少し全社的な視点が必要になる。プロジェクト管理のプロを目指すなら向いてる」
「どちらも、堅実な道だ」
千春は黙って聞いていた。
堅実、という言葉が、なぜか少しだけ重く感じられた。
鈴木はそこで、一度言葉を止めた。
まるで、その先を言うべきかどうか迷っているようだった。
数秒の沈黙のあと、彼は続けた。
「あと、社内の新規事業公募が年末にある」
千春は顔を上げた。
「新規事業?」
「まだ正式発表前だけど、毎年ある。採択率は低い」
採択率が低い、という言葉に、千春は一瞬怯んだ。
それでも、なぜか興味は失われなかった。
むしろ、難しいと言われるほど、心のどこかが静かに反応するのを感じた。
「鈴木さんは、私にそれを勧めますか?」
鈴木は迷わず言った。
「今は勧めない」
「即答ですね」
「基盤刷新で評価を作った直後なら、企画部門へ行った方がキャリアとしては安定する」
千春は納得しながらも、なぜか少しだけ引っかかった。
新規事業。
その言葉だけが頭に残った。
翌朝、出社してすぐ、千春はいつものようにログを開いた。
けれど、いつもより少しだけ、その先にある「誰か」を意識するようになっていた。
数字の向こうに、必ず現場がある。
今さらのように、その当たり前のことに、実感が伴い始めていた。
その日の帰り道、千春は自分のデスクの引き出しをそっと開けた。
古い革の手帳が、いつもと同じ場所にあった。
開かなかったが、そこにあることを確かめるだけで、少しだけ安心できた。
過去の自分と、今の自分は、思っていたより遠くない場所にいるのかもしれない。
帰りの電車で、千春は窓に映る自分の顔をぼんやり眺めた。
新規事業という言葉が、頭の中で小さな灯りのように点滅していた。
消そうとしても、消えなかった。
まだ、それが何なのかも分からないのに。




