第5章 後輩の速度
九月。
田中は新しい機能の試作を鈴木に見せていた。
モニターには、丁寧に作り込まれたダッシュボードが表示されていた。
配色も、文字の大きさも、誰かに見せることを前提に整えられている。
休日を使って作ったのだろうと、千春は直感した。
「店舗の売上異常を自動検知して、担当者に通知する仕組みです」
「今回のスコープ外だね」
デモ画面には、異常値を検知した店舗が赤くハイライトされていた。
千春はその完成度の高さに、内心驚いていた。
指示されたわけでもないのに、田中は自分の時間を使ってここまで作り込んでいた。
鈴木は即答した。
田中の顔が曇る。
それでも、すぐには引き下がらなかった。
食い下がるだけの材料を、あらかじめ用意していたようだった。
「でも今の統合基盤ならできるんですよ」
「できることと、今やることは別だ」
会議が終わったあと、田中は不満を隠さなかった。
「鈴木さん、堅すぎません?」
千春は苦笑した。
「半年しかないんだから仕方ないよ」
「そうなんですけど」
それでも、田中は諦めていないようだった。
その日の夜、千春が忘れ物を取りに戻ると、まだ田中の席にだけ明かりがついていた。
「まだいたの?」
「あ、先輩。ちょっとだけ、例の機能、個人的に作り込んでて」
「スコープ外なのに?」
「趣味です、趣味」
田中は悪びれもせず笑った。
その執着心のようなものを、千春は少しだけ羨ましく感じた。
かつての自分にも、こんなふうに時間を忘れて何かに打ち込んだ経験があっただろうか。
思い出そうとしても、はっきりとした記憶は出てこなかった。
田中はノートパソコンを閉じた。
「僕、前の会社で新しいこと提案しても全部止められて、それが嫌で転職したんです」
千春は初めて聞いた。
田中の口から仕事の愚痴めいた話が出るのは、珍しいことだった。
「前の会社?」
「小さい受託会社です。客に言われたものを作るだけ。新しい技術試したいって言っても、失敗したら誰が責任取るんだって」
田中は笑った。
「だから僕、今度は自分でサービス作りたいんですよね」
「独立?」
「そこまで大げさじゃないです。社内でもいいし」
田中は少し照れたように言った。
「使う人が『これ欲しかった』って言うものを作りたいんです」
田中の目は、いつになく真剣だった。
普段の軽い口調とは違う、確信めいた響きがあった。
若さゆえの無邪気な野心なのか、それとも本物の覚悟なのか、千春には判断がつかなかった。
ただ、その言葉の奥に、嘘のない熱があることだけは分かった。
その言葉に、千春は妙に引っかかった。
自分でサービスを作る。
六年前の手帳の一行が、一瞬頭をよぎった。
いつか、自分のアイデアで仕事を作る。
すぐに消した。
それでも、田中の言葉は思ったよりも長く千春の中に残った。
使う人が「これ欲しかった」と言うもの。
そんなふうに仕事を語れる人を、千春は久しく見ていなかった。
自分は、いつからそんなふうに仕事を語らなくなったのだろう。
今の自分とは違う。
そう思った。
その週の金曜日。
金曜日は、プロジェクトチームにとって鬼門のような曜日になりつつあった。
週の疲れが溜まったタイミングで、大きな問題が起きることが続いていた。
統合テストでデータ同期遅延が発生した。
最初は些細な遅延に見えた。
数分の遅れなら許容範囲だと、誰もが思っていた。
けれど、時間が経つにつれ、遅延はどんどん膨らんでいった。
田中の顔から血の気が引いていく。
「僕のロジック、どこか間違ってるかもしれません」
「まだそうと決まったわけじゃない」
千春はログを遡りながら、なるべく落ち着いた声で答えた。
声に出すことで、自分自身を落ち着かせている部分もあった。
午後十時半。
ようやく解消する。
「通った!」
田中が声を上げる。
千春は椅子に身体を預けた。
全身から力が抜けていくのが分かった。
今日一日の緊張が、一気に溶けていくようだった。
「よかった」
「先輩のおかげです」
「田中君が書き直したからだよ」
「いや、僕、途中で完全に思い込みましたから」
田中が苦笑する。
「先輩、僕より技術詳しくないのに、なんであんなに落ち着いてるんです?」
「褒めてる?」
「褒めてます」
千春は少し考えた。
「ダンスのおかげかも」
「やっぱり本当にやってるんですね」
「なんで知ってるの」
「噂です」
田中が笑った。
「僕、何か本気でやってる人、好きです」
一拍置いた。
「先輩、かっこいいですよ」
千春は視線を逸らした。
「そういうこと簡単に言わない方がいいよ」
「簡単じゃないです」
田中の声が真面目になる。
「あの。今度の日曜、二人で飲みに行きませんか」
冗談ではないと分かった。
千春の心臓が少し速くなった。
田中は若い。
勢いがある。
千春が迷っている間にも、先へ進もうとする。
その速度が眩しかった。
断る理由は、いくつも思いつく。
歳の差。
社内恋愛のリスク。
プロジェクトへの影響。
けれど、そのどれもが本当の理由ではない気がした。
本当は、まだ自分の中の答えが見えていないだけだった。
眩しいと同時に、少しだけ怖くもあった。
自分がまだ持っていない速さを、目の前で見せつけられている気がした。
「少し、考えさせて」
「はい」
田中はそれ以上押さなかった。
駅までの道を、千春は一人で歩いた。
夜風が頬を撫でる。
心臓の音は、まだ少しだけ速いままだった。
好きという感情と、選ぶという決断は、同じ速さでは動かないらしい。
それだけは、はっきりと分かった気がした。
帰宅後、シャワーを浴びながら、千春はもう一度その日の出来事を反芻した。
田中に惹かれる部分は、確かにあった。
けれど、それが恋愛感情なのか、それとも彼の持つ眩しさへの憧れなのか、まだ区別がつかなかった。
答えを急ぐ必要はない、と自分に言い聞かせた。
翌日、いつも通りに出社すると、田中はいつも通りに接してきた。
気まずさを見せることも、変に距離を置くこともない。
その自然さに、千春は少しだけ助けられた気がした。
告白されたことも、まだ返事をしていないことも、二人の間だけの秘密として、静かに横たわっていた。




