第二部 テンポの変化 第4章 コードとコレオグラフィー
一ヶ月後。
プロジェクトルームの壁は、付箋と構成図で埋まっていた。
付箋の色は役割ごとに分かれている。
赤は未解決の課題、黄色は保留事項、緑は完了したタスク。
一ヶ月前はほとんどが赤だった壁も、今では緑が目立つようになっていた。
その色の変化を見るだけで、プロジェクトが少しずつ前に進んでいるのが分かった。
千春の仕事も変わった。
以前は、届いたデータを確認する側だった。
今は、そもそもどういうデータを作るのかを決める側にいる。
その違いは大きかった。
確認する側にいたときは、正しいか正しくないかだけを見ていればよかった。
決める側に立つと、正しさの定義そのものを自分たちで作らなければならない。
その重さに、千春はまだ慣れていなかった。
それでも、その重さを嫌だとは思わなかった。
むしろ、今まで感じたことのない種類の緊張感が、日々の仕事に張りを与えていた。
「営業本部、また独自コード残したいって言ってます」
田中が椅子を回す。
「統一する意味なくないですか?」
「田中君」
「はい」
「営業には営業の事情があるから」
田中はまだ納得のいかない顔をしている。
若さゆえの潔癖さは、時に眩しく、時にもどかしかった。
「でもそれ言ってたら永遠に統合できないですよ」
田中は苛立っていた。
千春は営業本部から届いたメールを見る。
大口取引先ごとに、既存の管理番号を契約書へ記載している。
一斉変更すれば取引先への説明が必要になる。
「入力はそのままにして、裏側で共通IDに紐づける方がいいと思う」
田中は眉を寄せる。
「変換テーブル?」
「うん」
「運用負荷増えますよ」
「今すぐ全部変えさせるより少ないと思う」
田中はまだ納得していない様子だった。
「でも、変換テーブルなんて、結局その場しのぎじゃないですか」
「その場しのぎでも、動くなら十分だと思う」
「僕は、根本から直したいんです」
「気持ちは分かるけど、根本から直すには、営業本部の契約書を全部作り直す必要がある。それ、半年でできる?」
田中は黙った。
千春はその沈黙を、責めるつもりはなかった。
理想を追うことと、期限内に終わらせること。
そのどちらも、プロジェクトには必要だった。
二人が意見を交わしていると、鈴木が近づいてきた。
「田中君は?」
「僕は統一した方が将来きれいだと思います」
「森田さんは?」
「現場側の移行コストが大きすぎます」
鈴木は二人の意見を聞いた。
「どちらも正しい」
田中が不満そうな顔をする。
「それが一番困る答えですよ」
「システムは、正しい設計と使える設計が同じとは限らない」
鈴木はホワイトボードに二つの案を書いた。
「短期と長期を分けよう。第一段階は変換テーブル。第二段階で共通化を促す」
田中はまだ不満そうな顔をしていたが、それ以上は食い下がらなかった。
「分かりました。でも、第二段階は僕にやらせてください」
「もちろん」
鈴木は迷わず頷いた。
その即答に、田中は少し驚いたようだった。
「本当にいいんですか」
「君がやりたいなら、それが一番いい形だと思う」
田中の表情が、少しだけ明るくなった。
千春はその進め方を見ながら思った。
正解を一つ決めるのではない。
違う事情を抱えた人間同士の間に、使える道を作る。
仕事とは、こういうことなのかもしれない。
以前の千春なら、正解は必ずどこかにあると信じていた。
探し方が足りないだけだと思っていた。
けれど今は違う。
正解のなさそのものと、どう付き合うか。
それが仕事の本当の難しさなのかもしれなかった。
六年間、自分はその難しさから目を逸らしていたのかもしれない。
その夜。
スタジオで千春は振り付けに苦戦していた。
6/8拍子。
一拍の中に細かなアクセントが入り、動きが遅れる。
「違う!」
RIEが音を止める。
「全部同じ強さで踊ってる」
「すみません」
「千春、音を数えるだけじゃなくて、どこを大事にするか決めて」
千春は汗を拭った。
どこを大事にするか。
昼間の会議を思い出す。
すべてを同時に完璧にする必要はない。
優先順位。
千春は足だけを確認する。
次に肩。
その後、腕。
少しずつ合わせる。
何度も繰り返した。
気づけば、レッスンの終了時刻をとうに過ぎていた。
汗だくの身体で更衣室へ戻る。
スマートフォンには、明日の会議の通知が並んでいた。
それでも不思議と、憂鬱ではなかった。
優先順位をつける。
それは、フロアでも鏡の前でも、同じように必要なことだった。
三十分ほど繰り返した頃、ふと身体の重心がかちりと噛み合う瞬間があった。
足も、肩も、腕も、バラバラだったものが一つの流れになる。
「そう! 今の!」
RIEの声が飛んだ。
その一度だけで、また元に戻ってしまう。
それでも、できた瞬間の感覚は、はっきりと身体に残った。
仕事でも、こういう瞬間があったはずだ。
千春はふと、そう思った。
翌日。
プロジェクトで障害が起きた。
田中が焦っていた。
「僕のスクリプトが原因かもしれません」
「まだ決まってない」
「でも昨日変えたの僕なんで」
「一回、原因を分けよう」
田中の目が、千春を見た。
「先輩、こういうとき、いつも冷静ですよね」
「冷静なわけじゃないよ。ただ、パニックになっても直らないから、後回しにしてるだけ」
「それを冷静って言うんじゃ」
軽口を叩き合いながらも、田中の顔から少しずつ余裕のなさが薄れていくのが分かった。
千春は言った。
田中が止まる。
「ネットワーク、DB、変換処理。一つずつ見る」
田中が息を吐いた。
「……はい」
十分後。
原因は別のジョブだった。
田中は椅子に倒れ込んだ。
「危なかった。自分のせいだと思い込んでました」
「私もよくある」
「森田先輩でも?」
「あるよ」
田中は少し笑った。
「先輩、最初もっと大人しい人だと思ってました」
「それ褒めてる?」
「今の方がいいです」
その日の帰り際、田中がエレベーターで話しかけてきた。
「先輩、今日のあれ、正直助かりました。僕、あのままだったら夜中まで一人で抱え込んでたと思います」
「一人で抱え込むの、悪い癖だよ」
「先輩に言われたくないです」
図星を突かれ、千春は苦笑いした。
エレベーターの扉が開く。
「お疲れさまです」
「お疲れ」
それぞれ反対方向へ歩き出す。
その背中を見送りながら、千春は、自分もまた誰かに「抱え込むな」と言われる側の人間だったことを思い出していた。
千春は返事をしなかった。
けれど悪い気はしなかった。




