第3章 冒険への召命
数日後の月曜日。
週初めの朝礼で、神谷本部長が壇上に立った。
いつもの業務連絡とは違う空気だった。
「次世代統合基盤刷新プロジェクトを、本日付で正式発足します」
フロアがざわついた。
基幹システムのクラウド移行。
顧客データの統合。
店舗・営業・物流で別々に管理されているデータの共通化。
成功すれば、会社の仕事の仕方そのものが変わる。
神谷は続けた。
「このプロジェクトは、単なるシステム更新ではありません。会社の意思決定の速度そのものを変える取り組みです」
「今まで、店舗ごと、部門ごとにバラバラだったデータを一つにする。それによって、現場の判断を待たずに、本部が状況を把握できるようになります」
フロアの空気が、少しずつ張り詰めていく。
「規模の大きいプロジェクトになります。皆さんの協力が必要です」
拍手はまばらだった。
歓迎というより、これから起きる変化への戸惑いの方が大きいように、千春には感じられた。
「リーダーは鈴木淳平君」
鈴木が立ち上がった。
三十三歳。
大手SIerから三年前に転職してきた。
千春が彼を強く意識したことはなかったが、障害対応で名前を聞くことは多かった。
冷静。
論理的。
それが周囲の評価だった。
千春は、鈴木と直接話したことはほとんどなかった。
けれど、彼が関わった障害対応のログを何度も読んだことはある。
無駄のない、簡潔な報告書だった。
その几帳面さの奥に、どんな人がいるのか、千春は知らなかった。
「専任メンバーとして、データ運用管理部の森田千春さん、インフラ運用部の田中翔君にも参加してもらいます」
どよめきが起きた。
「森田さんが?」
近くの席から、小さな声が聞こえた。
悪意はなかったと思う。
それでも、その声には隠しきれない驚きが滲んでいた。
六年間、目立った実績もなく、淡々と仕事をこなしてきた自分が選ばれる。
その意外性は、他人よりも千春自身が一番感じていた。
千春は数秒、動けなかった。
隣の佐藤が小声で言う。
佐藤の声に押されるように、千春は椅子から立ち上がった。
足が、自分のものでないように重かった。
周囲の視線が、一斉に自分に向いているのが分かる。
六年間、目立たないことを、どこかで自分の価値のように感じていた気がする。
その価値観が、今この瞬間に崩れていくのを感じた。
「森田さん」
ようやく立ち上がる。
前へ出る。
田中翔は一歳年下だった。
社内勉強会を自分で企画するようなタイプで、若手の中では目立つ。
「森田先輩、よろしくお願いします」
場違いなくらい嬉しそうだった。
千春は曖昧に頷き返すことしかできなかった。
田中という名前は、社内メールで何度か見た記憶があるだけだった。
若手勉強会の案内。
新しいツールの紹介記事。
どれも、千春がクリックせずに読み流していたものばかりだった。
その積極性が、今は少しだけ眩しく見えた。
朝礼が終わる。
鈴木が二人に近づいた。
「十時からキックオフをする。よろしく」
田中はすぐに質問を始めた。
「クラウドは既存ベンダーの継続ですか? それともマルチクラウドも検討します?」
「そこから話すと十時前にキックオフが終わるな」
鈴木が少し笑った。
田中も笑う。
千春はその横で言葉を探していた。
鈴木が気づいた。
「森田さん。不安?」
「……なぜ私なのかと思って」
「推薦したのは僕だ」
千春は顔を上げた。
「ログを何年も見てる人間が必要だった」
「でも、それだけなら他にも――」
「去年の三月、北関東の店舗データで旧商品コードの混在を見つけたのは?」
「私です」
「一昨年の配送システムの時刻ずれも?」
「……私です」
「そういうことだ」
鈴木は資料を一枚差し出した。
プロジェクトの構成図だった。
「設計する人間は、きれいな図を描きたがる。でも現場のデータは、そんなにきれいじゃない」
千春は黙って聞いた。
「例外を知っている人が必要なんだ」
千春はふと、これまで自分が処理してきた膨大な「例外」を思い返した。
数えたことはないが、六年間で数千件はあったはずだ。
そのほとんどは、誰の記憶にも残らず、ただ処理されて消えていった。
けれど、その一つ一つに、必ず理由があった。
通信が不安定な店舗。
古い端末を使い続けている拠点。
本部の想定と違う運用をしている現場。
それらを「例外」という一言で片付けてきたのは、自分たちの方だったのかもしれない。
その言葉が残った。
例外。
ずっと、ミスのように扱ってきたもの。
けれど現場では、その例外の積み重ねこそが仕事なのかもしれない。
十時。
会議室。
初回の議題は、店舗スタッフへのヒアリング項目だった。
資料には「標準業務フロー」の文字が並んでいる。
千春は何気なく一枚めくった。
「このフロー、地方店舗には当てはまらないと思います」
全員の視線が集まる。
声を出す前に、心臓が一度大きく跳ねた。
こんなふうに、会議室で全員の前で発言することなど、これまでほとんどなかった。
いつも、資料の片隅に小さく指摘を書き込むだけだった。
けれど今は、それでは済まされない立場にいる。
千春は一度、息を吸った。
千春は少し緊張した。
「地方店舗では、閉店後に売上をまとめて本部へ送る店舗があります。通信環境が不安定なので」
鈴木が尋ねる。
「何店舗くらい?」
「正確な数は調べます。ただ、少なくとも北陸と山陰にあります」
田中がノートパソコンを打つ。
「それ、新システムでオンライン前提にしたら詰みますね」
「他にも似たような制約、ありそうですね」
田中が言う。
「たぶん、山ほどある」
鈴木が答えた。
「標準化を急ぎすぎると、現場が壊れる。かといって、全部に合わせてたら統合の意味がなくなる」
「バランスってことですか」
「バランスというより、優先順位だ。何を先に統一して、何を後回しにするか」
千春はそのやりとりを聞きながら、自分のノートに小さくメモを取った。
「優先順位」
その言葉を、二重線で囲んだ。
鈴木が頷いた。
「森田さん。その洗い出しを頼める?」
「はい」
初めて、自分の知識が会議を動かした。
その感覚は、思っていたより強く残った。
会議室を出ると、廊下の窓から傾いた西日が差し込んでいた。
いつもは気にも留めない光だった。
けれど今日は、その色さえ少し違って見えた。
自分の言葉ひとつで、会議の流れが変わる瞬間があるのだと、初めて実感した。
デスクへ戻る足取りが、朝より少しだけ軽かった。
その軽さの理由を、千春はまだうまく言葉にできなかった。
その日の午後、千春は北陸と山陰の店舗リストを洗い出した。
過去の障害報告、通信ログ、店舗ごとの回線契約状況。
バラバラに散らばっていた情報を、一つの表にまとめていく。
夜八時、ようやく資料が完成した。
翌朝、鈴木にメールで送ると、五分もしないうちに返信が来た。
「助かった。これ、そのまま設計チームに展開する」
たった一行だったが、千春はその画面を何度も見返した。
自分の作った資料が、プロジェクト全体の判断材料になる。
その実感は、六年間の中で初めてに近いものだった。
その夜、久しぶりに定時より早く家に帰った。
シャワーを浴びながら、今日一日の出来事を反芻する。
名前を呼ばれたときの重い足。
発言したときの震える声。
そして、鈴木からの短い返信。
どれも、これまでの六年間にはなかった種類の一日だった。
明日からどうなるのか、まだ何も分からない。
それでも、少しだけ、前のめりになっている自分に気づいた。




