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蛍光灯のリズム  作者: 久遠 睦


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3/10

第3章 冒険への召命

数日後の月曜日。

週初めの朝礼で、神谷本部長が壇上に立った。

いつもの業務連絡とは違う空気だった。

「次世代統合基盤刷新プロジェクトを、本日付で正式発足します」

フロアがざわついた。

基幹システムのクラウド移行。

顧客データの統合。

店舗・営業・物流で別々に管理されているデータの共通化。

成功すれば、会社の仕事の仕方そのものが変わる。

神谷は続けた。

「このプロジェクトは、単なるシステム更新ではありません。会社の意思決定の速度そのものを変える取り組みです」

「今まで、店舗ごと、部門ごとにバラバラだったデータを一つにする。それによって、現場の判断を待たずに、本部が状況を把握できるようになります」

フロアの空気が、少しずつ張り詰めていく。

「規模の大きいプロジェクトになります。皆さんの協力が必要です」

拍手はまばらだった。

歓迎というより、これから起きる変化への戸惑いの方が大きいように、千春には感じられた。

「リーダーは鈴木淳平君」

鈴木が立ち上がった。

三十三歳。

大手SIerから三年前に転職してきた。

千春が彼を強く意識したことはなかったが、障害対応で名前を聞くことは多かった。

冷静。

論理的。

それが周囲の評価だった。

千春は、鈴木と直接話したことはほとんどなかった。

けれど、彼が関わった障害対応のログを何度も読んだことはある。

無駄のない、簡潔な報告書だった。

その几帳面さの奥に、どんな人がいるのか、千春は知らなかった。

「専任メンバーとして、データ運用管理部の森田千春さん、インフラ運用部の田中翔君にも参加してもらいます」

どよめきが起きた。

「森田さんが?」

近くの席から、小さな声が聞こえた。

悪意はなかったと思う。

それでも、その声には隠しきれない驚きが滲んでいた。

六年間、目立った実績もなく、淡々と仕事をこなしてきた自分が選ばれる。

その意外性は、他人よりも千春自身が一番感じていた。

千春は数秒、動けなかった。

隣の佐藤が小声で言う。

佐藤の声に押されるように、千春は椅子から立ち上がった。

足が、自分のものでないように重かった。

周囲の視線が、一斉に自分に向いているのが分かる。

六年間、目立たないことを、どこかで自分の価値のように感じていた気がする。

その価値観が、今この瞬間に崩れていくのを感じた。

「森田さん」

ようやく立ち上がる。

前へ出る。

田中翔は一歳年下だった。

社内勉強会を自分で企画するようなタイプで、若手の中では目立つ。

「森田先輩、よろしくお願いします」

場違いなくらい嬉しそうだった。

千春は曖昧に頷き返すことしかできなかった。

田中という名前は、社内メールで何度か見た記憶があるだけだった。

若手勉強会の案内。

新しいツールの紹介記事。

どれも、千春がクリックせずに読み流していたものばかりだった。

その積極性が、今は少しだけ眩しく見えた。

朝礼が終わる。

鈴木が二人に近づいた。

「十時からキックオフをする。よろしく」

田中はすぐに質問を始めた。

「クラウドは既存ベンダーの継続ですか? それともマルチクラウドも検討します?」

「そこから話すと十時前にキックオフが終わるな」

鈴木が少し笑った。

田中も笑う。

千春はその横で言葉を探していた。

鈴木が気づいた。

「森田さん。不安?」

「……なぜ私なのかと思って」

「推薦したのは僕だ」

千春は顔を上げた。

「ログを何年も見てる人間が必要だった」

「でも、それだけなら他にも――」

「去年の三月、北関東の店舗データで旧商品コードの混在を見つけたのは?」

「私です」

「一昨年の配送システムの時刻ずれも?」

「……私です」

「そういうことだ」

鈴木は資料を一枚差し出した。

プロジェクトの構成図だった。

「設計する人間は、きれいな図を描きたがる。でも現場のデータは、そんなにきれいじゃない」

千春は黙って聞いた。

「例外を知っている人が必要なんだ」

千春はふと、これまで自分が処理してきた膨大な「例外」を思い返した。

数えたことはないが、六年間で数千件はあったはずだ。

そのほとんどは、誰の記憶にも残らず、ただ処理されて消えていった。

けれど、その一つ一つに、必ず理由があった。

通信が不安定な店舗。

古い端末を使い続けている拠点。

本部の想定と違う運用をしている現場。

それらを「例外」という一言で片付けてきたのは、自分たちの方だったのかもしれない。

その言葉が残った。

例外。

ずっと、ミスのように扱ってきたもの。

けれど現場では、その例外の積み重ねこそが仕事なのかもしれない。

十時。

会議室。

初回の議題は、店舗スタッフへのヒアリング項目だった。

資料には「標準業務フロー」の文字が並んでいる。

千春は何気なく一枚めくった。

「このフロー、地方店舗には当てはまらないと思います」

全員の視線が集まる。

声を出す前に、心臓が一度大きく跳ねた。

こんなふうに、会議室で全員の前で発言することなど、これまでほとんどなかった。

いつも、資料の片隅に小さく指摘を書き込むだけだった。

けれど今は、それでは済まされない立場にいる。

千春は一度、息を吸った。

千春は少し緊張した。

「地方店舗では、閉店後に売上をまとめて本部へ送る店舗があります。通信環境が不安定なので」

鈴木が尋ねる。

「何店舗くらい?」

「正確な数は調べます。ただ、少なくとも北陸と山陰にあります」

田中がノートパソコンを打つ。

「それ、新システムでオンライン前提にしたら詰みますね」

「他にも似たような制約、ありそうですね」

田中が言う。

「たぶん、山ほどある」

鈴木が答えた。

「標準化を急ぎすぎると、現場が壊れる。かといって、全部に合わせてたら統合の意味がなくなる」

「バランスってことですか」

「バランスというより、優先順位だ。何を先に統一して、何を後回しにするか」

千春はそのやりとりを聞きながら、自分のノートに小さくメモを取った。

「優先順位」

その言葉を、二重線で囲んだ。

鈴木が頷いた。

「森田さん。その洗い出しを頼める?」

「はい」

初めて、自分の知識が会議を動かした。

その感覚は、思っていたより強く残った。

会議室を出ると、廊下の窓から傾いた西日が差し込んでいた。

いつもは気にも留めない光だった。

けれど今日は、その色さえ少し違って見えた。

自分の言葉ひとつで、会議の流れが変わる瞬間があるのだと、初めて実感した。

デスクへ戻る足取りが、朝より少しだけ軽かった。

その軽さの理由を、千春はまだうまく言葉にできなかった。

その日の午後、千春は北陸と山陰の店舗リストを洗い出した。

過去の障害報告、通信ログ、店舗ごとの回線契約状況。

バラバラに散らばっていた情報を、一つの表にまとめていく。

夜八時、ようやく資料が完成した。

翌朝、鈴木にメールで送ると、五分もしないうちに返信が来た。

「助かった。これ、そのまま設計チームに展開する」

たった一行だったが、千春はその画面を何度も見返した。

自分の作った資料が、プロジェクト全体の判断材料になる。

その実感は、六年間の中で初めてに近いものだった。

その夜、久しぶりに定時より早く家に帰った。

シャワーを浴びながら、今日一日の出来事を反芻する。

名前を呼ばれたときの重い足。

発言したときの震える声。

そして、鈴木からの短い返信。

どれも、これまでの六年間にはなかった種類の一日だった。

明日からどうなるのか、まだ何も分からない。

それでも、少しだけ、前のめりになっている自分に気づいた。


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