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蛍光灯のリズム  作者: 久遠 睦


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2/12

第2章 闇夜のスタジオ

午後六時十分。

千春はファイルを保存し、システムからログアウトした。

「お先に失礼します」

佐藤が顔を上げる。

「今日もスタジオ?」

千春は少し驚いた。

佐藤から私生活について聞かれたのは、ほとんど初めてだった。

「はい」

「すごいね。私だったらもう帰ったら動けない」

「行けば意外と元気になります」

「そういう場所があるの、いいね」

佐藤はそう言って笑った。

千春は小さく頭を下げ、会社を出た。

渋谷へ向かう。

駅を出ると、音が一気に増える。

大型ビジョン。

信号機の電子音。

若者の笑い声。

飲食店から漏れる音楽。

会社のフロアとは正反対だった。

人も光も、すべてが好き勝手に存在している。

途中、コンビニに寄って水を買う。

レジの店員は、いつも同じ大学生らしき青年だった。

「今日もお疲れさまです」

顔を覚えられているのかどうかは分からない。

それでも、その一言が、渋谷という街の中で唯一自分に向けられた言葉のように感じられることがあった。

会計を済ませ、また歩き出す。

坂道の傾斜が、仕事帰りの重い足に少しだけこたえた。

道玄坂を上り、古い雑居ビルへ入る。

地下へ続く階段。

壁の小さなプレート。

『STUDIO B-ROOTS』

防音扉を開けると、熱気が流れ出してきた。

「千春さん、お疲れさまです!」

受付のミクが手を振った。

「お疲れさま」

「今日、RIE先生、機嫌いいですよ」

「それ、逆に怖くない?」

「分かります」

二人で笑った。

更衣室へ向かう途中、顔なじみのユキと会った。

「千春さん、今日も来たんですね」

「ユキちゃんこそ」

ユキは千春より三つ年下で、同じ火曜と土曜のクラスによく出ている。

仕事の話をしたことは一度もない。

それでも、この三年でどんな会話よりも自然に言葉を交わせる相手になっていた。

「最近、新しい振り付け覚えるの大変で」

「分かる。腰の動き、まだ全然できてない」

「一緒ですね」

二人で笑いながら、更衣室のドアを開けた。

会社の人間関係とは、まったく違う近さだった。

利害もなく、上下関係もない。

ただ、同じ曲を、同じ熱量で好きだという事実だけでつながっている。

更衣室で着替える。

ブラウス。

スカート。

パンプス。

会社で必要だったものを、一つずつロッカーへ入れる。

黒いトラックパンツ。

タンクトップ。

スニーカー。

髪を高く結ぶ。

鏡を見る。

顔は同じだ。

けれど肩の位置が違った。

会社では無意識に内側へ縮めていた身体が、ここでは自然に開く。

ロッカーの小さな鏡に映る自分は、さっきまでのオフィスの自分とは別人のようだった。

姿勢も、表情も、呼吸のリズムまで違う。

千春はストレッチで肩を回した。

関節が小さく鳴る。

その音さえ、今日は心地よかった。

床に座り込んで足を伸ばすと、周囲から自然と話し声が聞こえてくる。

仕事の話をする人は、ここには一人もいなかった。

「始めるよ!」

RIEの声が飛ぶ。

レッスンが始まった。

千春がこの場所に来るようになったのは三年前。

最初は運動不足を何とかしたかっただけだった。

高校時代にダンス部だったわけでもない。

子どもの頃から習っていたわけでもない。

二十五歳から始めた。

だから、うまい人間に囲まれれば、いつも自分の遅さを思い知らされた。

それでも辞めなかった。

最初の三か月は、本当に何もできなかった。

リズムを取ることさえ難しく、周りの動きを目で追うだけで精一杯だった。

一度、レッスン後にトイレの個室で少しだけ泣いたこともある。

情けなさより、悔しさの方が強かった。

それでも、次のレッスンにも行った。

なぜ続けられたのか、今でもうまく説明できない。

ただ、行かない選択肢の方が、なぜか苦しく感じられた。

ある日、仕事で大きな入力ミスを出しかけたことがあった。

実際には確認工程で止まり、事故にはならなかった。

上司からも強く責められなかった。

それでも、その夜は頭の中で何度も同じ場面が回った。

スタジオへ来ても気持ちが切り替わらなかった。

ところが曲が始まった瞬間、突然どうでもよくなった。

失敗した。

怖かった。

悔しかった。

その全部を抱えたまま踊ればいい。

身体を動かしている間だけは、感情に正しい名前を付ける必要がなかった。

千春は、その自由を好きになった。

RIEはよく「正解を探すな」と言った。

最初にその言葉を聞いたとき、千春は戸惑った。

仕事では、常に正解を探すことを求められていたからだ。

「振り付けは合ってるかどうかより、どう感じてるかが先」

「感じてないと、動きは死ぬから」

最初は意味が分からなかった。

今は、少しだけ分かる気がする。

正しい角度、正しいタイミング。

それだけを追いかけていると、身体は動いていても、何かが置き去りになる。

逆に、感じることを優先すると、多少ずれても、動きに嘘がなくなる。

そのことに気づいてから、千春のダンスは少しずつ変わっていった。

RIEは、かつてプロのダンサーだったらしいと聞いたことがある。

本人は多くを語らない。

「昔の話」とだけ言って、それ以上は流される。

怪我でステージを離れたという噂もあれば、単に指導の方が向いていたからだという話もある。

本当のところは、誰も知らない。

それでも、RIEの動きには、迷いのなさがあった。

一つ一つの指の先まで、意味があるように見えた。

千春はいつか、その理由を聞いてみたいと思っている。

まだ、その機会はない。

「胸、もっと前!」

RIEの声。

千春は肋骨を開く。

「そう。普段縮こまりすぎ」

「仕事でずっとパソコンなんです」

「じゃあ余計にここで開きなさい」

音が速くなる。

右。

左。

クロス。

ターン。

汗が落ちる。

新しいコンビネーションは、右に三歩、クロスしてターン、そこから床に手をつくローの動きへ続く。

最初は身体が追いつかず、何度もバランスを崩した。

けれど、五回、十回と繰り返すうちに、少しずつ流れが見えてくる。

頭で考える前に、身体が次の動きを覚え始める瞬間があった。

その瞬間だけは、他の何も考えずにいられた。

仕事のことも、将来のことも、手帳のことも。

ただ、次の拍だけを見ていればよかった。

隣で大学生の女の子が笑っている。

前列では四十代の男性が必死にステップを踏んでいる。

職業も年齢も違う。

誰が会社で偉いかなど関係ない。

できるか。

できないか。

音を聞いているか。

それだけだった。

肩書きも、勤続年数も、ここでは何の意味も持たない。

その公平さが、千春には時々、怖いくらい心地よかった。

前列の男性は、たしか広告代理店の部長だと以前ミクから聞いたことがある。

仕事では何十人もの部下を持つ立場らしい。

けれど、ここでは誰よりも下手で、誰よりも真剣だった。

一つのステップを何度も間違えては、悔しそうに舌打ちする。

その姿は、部長という肩書きとまったく結びつかなかった。

大学生の女の子は、逆にどんな動きも軽々とこなす。

才能というより、まだ身体に何の癖もついていないからかもしれない。

千春は自分の身体の癖を思う。

六年間、椅子に座り続けた身体の癖。

それを一つずつほどいていく作業でもあった。

千春は鏡を見る。

息を切らしている。

頬が赤い。

それでも目だけは昼より強かった。

会社では、早く夜になればいいと思う。

スタジオでは、もう終わるのかと思う。

その違いを考えるたび、少しだけ怖くなった。

レッスンが終わると、ミクが飲み物を渡してくれた。

「お疲れさまです。今日も良かったですよ」

「そう? 全然そんな感じしなかったけど」

「本人が気づかないところで、伸びてるんですよ、きっと」

その言葉に、千春は少しだけ救われた気がした。

仕事では、成長を実感する瞬間はめったにない。

数字が合っていて当然、ミスがなくて当然。

できて当たり前の世界で、伸びを実感することは難しかった。

ここでは違う。

昨日より少しだけ滑らかになったターン。

先週より少しだけ深くなった呼吸。

小さな変化に、誰かが気づいてくれる。

その積み重ねが、千春をここに通わせ続けているのかもしれなかった。

帰り道、鞄の中で社員証が小さく揺れる音がした。

昼間の自分と、今の自分。

どちらも本当の自分だと、千春は思うようになっていた。

どちらか一方を選ぶ必要はない。

その考えに辿り着くまでに、三年かかった。


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