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蛍光灯のリズム  作者: 久遠 睦


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第一部 日常の律動     第1章 蛍光灯と色褪せた夢

火曜日の午後三時。

フロアを満たす空気は、いつも決まって生ぬるく、乾燥していた。

森田千春の視線は、モニター上に広がるスプレッドシートの格子模様と、窓の外に連なる曇天のビル群との間を行き来していた。

電話が鳴った。

「データ運用管理部、森田です」

相手は北陸のとある店舗の店長だった。

「すみません、朝からPOSの反映がおかしくて」

千春は端末を操作しながら聞く。

「昨日の閉店処理は、通信が切れたタイミングでした?」

「あ……そうかもしれません」

「でしたら、バッチの再送信で直ります。今から送ります」

数分後、電話口の相手が声を上げた。

「直りました! ありがとうございます」

「いえ、よくあることなので」

電話を切る。

少し離れた席から、係長の声が飛んだ。

「森田さん、さっきの対応早かったね」

「大したことじゃないです」

「いや、他の人だったら小一時間かかるやつだよ」

千春は小さく頭を下げただけで、それ以上は答えなかった。

褒められることに、まだ慣れていなかった。

画面には商品コード、処理日時、拠点番号。

一行ずつ確認し、不整合があれば色を付ける。

それを別のシートへ転記する。

また次を見る。

カタカタ。

トントン。

時折、誰かがマウスを乱暴に机へ戻す音がする。

それ以外には、空調の低い唸りとキーボードの音しか聞こえない。

天井に並んだ直管蛍光灯は、机も人も同じ明るさで照らしていた。

自然光のような濃淡はない。

誰の顔にも、似たような白い光が落ちている。

エアコンの吹き出し口から、乾いた風が絶え間なく吹き出している。

紙とインクと、かすかな埃の匂い。

モニターの青白い光が、キーボードを打つ指先にうっすらと映り込む。

壁の時計は、いつも同じ速さで秒針を刻んでいるはずなのに、今日はやけにゆっくり感じられた。

六年間、毎日ここで同じ光を浴び、同じ音を聞いてきた。

その事実に、今さらのように気づく。

慣れというのは、いつからか麻痺と区別がつかなくなるものらしい。

千春は右手を止めた。

手の甲に青い血管が浮かんでいる。

今年で二十八歳。

新卒でこの中堅流通ITサービス企業に入社してから、六年目になった。

地元の大学を出て、上京してすぐの就職だった。

実家の母には「安定した会社でよかった」と言われた。

そのとおりだと思う。

実際、六年間、一度も生活に困ったことはない。

それでも時々、安定という言葉が、まるで自分を閉じ込める檻のように感じることがあった。

贅沢な悩みだと分かっている。

分かっているからこそ、誰にも言えなかった。

先月、母から電話があった。

「元気にしてる? 彼氏とかは?」

毎回同じ質問だった。

「元気だよ。彼氏は、まあ、いいや」

「無理しなくていいからね」

その言葉に、無理をしている自覚はないのに、なぜか胸の奥が少し締めつけられた。

デスクの一番下の引き出しには、内定式でもらった革張りの手帳がある。

捨てようと思ったことは何度もあった。

けれど、なぜか捨てられなかった。

一度だけ、数か月前に開いた。

最初のページには、学生だった自分の文字が残っていた。

三年以内に新規プロジェクトの主担当になる。

いつか、自分のアイデアで仕事を作る。

周囲から頼られる人間になる。

二十八歳の千春は、そのページを最後まで読むことができなかった。

恥ずかしいというより、遠い人間の文章を読んでいるようだった。

あの手帳を書いたのは、内定式の夜だった。

就職活動を終えたばかりで、まだスーツに慣れていなかった。

配属先も分からないまま、なぜかあれほど自信に満ちていた。

何にでもなれる気がしていた。

今の自分に、あの夜の自分は何と言うだろう。

考えて、すぐにやめた。

考えたところで、答えは出ない。

「森田さん」

隣席の佐藤に呼ばれた。

「先週分の売上マッピングなんだけど、一件だけエラーが残ってて。確認お願いできる?」

「はい」

ファイルを受け取る。

「今日中じゃなくても大丈夫だからね」

「分かりました」

佐藤は軽く笑い、自分の画面へ戻った。

それ以上の話はない。

佐藤には三歳になる娘がいるらしい。

以前、スマートフォンの待受に小さな子どもの写真が映ったのを偶然見た。

けれど、その話をしたことは一度もなかった。

佐藤も千春に休日の予定を尋ねない。

互いに必要な距離を保っていた。

その方が楽だった。

それでいい、と千春は思っていた。

距離があるからこそ、続けられる関係もある。

少なくとも、この六年間はそう信じてきた。

それでも、一度だけ佐藤の様子がおかしかった日があった。

半年ほど前、佐藤が涙目でトイレから戻ってきたことがあった。

千春は何も聞かなかった。

佐藤も何も言わなかった。

ただ、その日の帰り際、缶コーヒーを一本、そっと机に置いていった。

「今日、疲れたでしょう」

それだけ言って、佐藤は先に帰った。

言葉少なな優しさが、時々、痛いほどありがたかった。

千春はログを開いた。

数値を追う。

一件。

また一件。

やがて、ある行で目が止まった。

処理時刻は合っている。

商品コードも正しい。

それでも何かがおかしい。

別の月のログを開く。

半年前。

さらに一年前。

三つのファイルを並べる。

「あ……」

取引先コードの末尾だけが違っていた。

統合前の旧コードだった。

千春は修正依頼を作成し、佐藤へ送った。

数分後、佐藤が声をかけた。

「よく分かったね。私、全然気づかなかった」

「前にも似たのがあったので」

「そういうの覚えてるの、すごいよね」

「ただ長くやってるだけです」

反射的にそう答えた。

佐藤は少しだけ不思議そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。

ただ長くやっているだけ。

千春は自分で言った言葉を、頭の中でもう一度繰り返した。

六年。

長いとも短いとも言える。

その時間を、自分は何に使ったのだろう。

入社二年目の冬、大きな棚卸しの誤差を見つけたことがあった。

本社の在庫データと店舗の実数が、システム上でわずかにずれていた。

原因を辿ると、旧型端末のタイムスタンプのバグだった。

当時の上司に褒められ、少しだけ誇らしかった。

けれど、その後も似たような日々が続いた。

誰かの手柄になるわけでもなく、大きな昇進につながるわけでもない。

ただ、次の異常を見つけるだけの毎日。

気づけば、それが当たり前になっていた。

最近、ニュースアプリで「クォーターライフクライシス」という言葉を見つけた。

二十代後半から三十代前半。

仕事。

結婚。

転職。

生き方。

選択肢が増えるほど、自分だけが動けていないように感じる時期。

説明を読んだとき、自分のことだと思った。

実は一度、退職を本気で考えたことがあった。

去年の夏、繁忙期が重なり、三週間ほど休みなく働いた時期があった。

ある夜、帰りの電車で座席に座った瞬間、涙が止まらなくなった。

理由は自分でも分からなかった。

特別辛いことがあったわけではない。

ただ、限界だったのだと思う。

翌朝、上司に「少し休みたい」とだけ伝えた。

三日間、有給を取った。

何をするでもなく、ただ家で過ごした。

四日目、また普通に出社した。

何かが劇的に変わったわけではない。

それでも、あの三日間がなければ、今ここにはいなかった気がする。

大学時代の友人たちは、それぞれ違う場所へ進んでいる。

美沙は広告会社から外資系企業へ転職した。

麻衣は昨年結婚し、春には子どもが生まれた。

ゼミで一緒だった梨花は、小さなアクセサリーブランドを立ち上げた。

SNSを開けば、誰かの人生のハイライトが流れてくる。

空港。

結婚式。

新居。

仕事の受賞報告。

千春はそれらに「いいね」を押しながら、自分の投稿欄には何も載せるものがないことに気づく。

数日前、麻衣からグループLINEにメッセージが届いていた。

『子どもの寝相、見て見て(笑)』

写真には、大の字で眠る赤ん坊が写っていた。

美沙が続けて返す。

『かわいすぎ! 私はまだ仕事優先かなあ』

梨花も。

『分かる。今ブランド軌道に乗せるだけで精一杯』

千春はスタンプだけ送った。

にっこり笑う小さなクマのスタンプ。

言葉は、思いつかなかった。

仕事の話をすれば、地味すぎる気がした。

恋愛の話は、そもそもなかった。

グループの中で、自分の近況だけが空白になっている気がした。

けれど、不幸ではなかった。

会社は安定している。

収入も生活に困らない。

家賃も払える。

嫌がらせを受けているわけでもない。

だからこそ厄介だった。

捨てなければならないほど悪くない。

それでも、抱き続けるほど好きでもない。

社員食堂で、後輩の女の子たちが盛り上がっているのを見かけたことがある。

「今度の合コン、絶対来てくださいよ」

「彼氏いない歴、更新中なんで」

笑い声が響く。

千春は少し離れた席で、一人で定食を食べていた。

誘われないことに、不満はなかった。

ただ、誘われる自分を、もう長いこと想像していなかった。

先週のある夜、転職サイトを開いたことがあった。

「あなたの強みを入力してください」

その欄の前で十五分止まった。

正確性。

責任感。

地道な作業。

どれも間違いではない。

けれど、自分の人生を変えるほどの言葉には思えなかった。

ブラウザを閉じた。

閉じる前に、いくつかの求人が目に入っていた。

未経験歓迎、マーケティング職。

IT企業、データアナリスト経験者優遇。

どれも、今の自分から一歩だけ離れた場所にあるように見えた。

一歩なのか、百歩なのか、千春には測れなかった。

それからも、同じような朝と夜が続いた。

今日もまた、いつもと同じ火曜日だった。

千春は腕時計を見た。

午後三時四十五分。

退勤まで、あと二時間と少し。

それでも今日は、夜が来る。

それだけを考えると、少しだけ呼吸が楽になった。

週に三回。

月曜、水曜、そして今日。

この三年間、その頻度をほとんど崩したことがなかった。

残業が続いても、体調が多少悪くても、なるべく行く。

それが千春にとって、唯一自分で決めた習慣だった。

会社の予定は、いつも誰かに決められる。

けれど、この時間だけは違った。

誰にも急かされず、誰にも評価されない。

ただ、自分のためだけに使える時間。

それがどれほど贅沢なことか、千春は三年前まで知らなかった。


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