校舎裏
「おい, 飯田。お前が次の試験で俺に推薦枠を譲らないなら、この動画を全校生徒にバラ撒くって言ったよな?」
旧校舎裏の薄暗い通路。
御手洗正は、いつもの品行方正な仮面を脱ぎ捨て、卑劣な笑みを浮かべてクラスメイトの飯田を壁に押しつけていた。恐怖に震える飯田の胸ぐらを、御手洗の連れてきた他校のガチな不良グループの男たちが荒々しく掴み上げ、今にも拳を振り下ろそうとしたその時——。
「——そこまでにしなよ、ゴミ屑くんたち」
静寂を破ったのは、信じられないほど甘く、そして冷ややかな声だった。
驚いて御手洗たちが振り返ると、夕暮れの光を背に、生徒会の制服をまとった翔と比呂が静かに立っていた。
「じ、神宮寺先輩……蒼井先輩……!? なぜここに!」
動揺する御手洗を無視し、翔は冷たく告げた。
「君がクラス全員を脅迫していたデータは、すべて回収しました。足がつかないよう私物のノートPCで脅迫文を作っていたようですが……詰めが甘いですね。事前に仕込ませていただいたプログラムにより、君が今朝、そのPCを何気なく学校の生徒用Wi-Fiに接続した一瞬の隙を突いて、こちらでキー入力をすべて傍受させてもらいました。おかげで君のPC版LINEのパスワードも、クラウド上のトーク履歴も、我が生徒会室のサーバーに完全同期済みです。被害生徒たちのプライバシーは完璧に保護し、君の悪事の証拠だけを抽出しました」
「なっ……! クソ、お前ら顔がいいだけのアイドルが調子に乗ってんじゃねえぞ! おい、そいつらボコボコにしてスマホ奪い取れ!」
御手洗が逆上して叫ぶと、大柄な不良グループの男2人が「オラァ!」と翔に向かって殴りかかった。
だが、翔は一歩も動かない。ただ静かに、隣のバディに視線を送った。
「比呂、30秒で片付けてください。アイスが溶けます」
「了解〜!」
次の瞬間、比呂の身体が弾かれたように動いた。
いつもはお調子者の美少年が、まるで猛獣のような、圧倒的な速度と無駄のない体術を見せる。鋭いストレートを紙一重でかわした比呂は、そのまま相手の懐に潜り込み、電撃のようなアッパーを顎に叩き込んだ。一人目が白目を剥いて崩れ落ちる。
「てめぇ……っ!」
残るもう一人がナイフを取り出し、ギラつく刃物を比呂へ突き出した。それを見た瞬間、後ろで静観していた翔の大きな瞳が、初めて冷酷に細められた。
「……比呂、下がっていなさい」
翔は静かに歩み出ると、仕立ての良い生徒会のブレザーを脱ぎ捨て、地面に放り投げた。
ネクタイを緩め、眼鏡を外して比呂に手渡す。
遮るもののなくなった翔の素顔が、夕暮れの光に照らし出された。長い睫毛に縁取られた大きな瞳が、今は冷酷なまでの鋭い光を放っている。お上品な副会長の仮面を脱ぎ捨てた彼の顔立ちは、息を呑むほどに美しく、そして圧倒的に危険だった。
翔は、シャツの袖を乱暴に肘の上までまくり上げた。
その瞬間、御手洗も、ナイフを持った男も息を呑んだ。
白シャツの上からでも一目でわかる、信じられないほど厚い胸板と、逆三角形の広い肩幅。まくられた前腕には、鋼のように硬くしなやかな筋肉と青い血管がバキバキに浮き上がっていた。普段の「物静かな秀才メガネ」の面影はどこにもない。そこにいたのは、圧倒的な威圧感を放つ本物の『強者』だった。
比呂が「あーあ、翔を本気で怒らせちゃった。あの人、怒ると加減が効かないから僕より怖いんだよね〜」と笑顔で一歩引く。比呂の無茶に付き合いながらも、比呂に危険が及ぶことだけは、翔の合理性が絶対に許さないのだ。
「なんだよその体……っ、ハッタリかよ!」
男がヤケクソになってナイフを突き出す。しかし、翔の冷徹な頭脳は、相手の重心の移動、刃物の軌道をすべて先読みしていた。
フッ、と最小限の動きで刃先をかわすと、翔は男の手首を容赦なく掴み、そのまま骨が軋む音が出るほどの力で握り潰した。
「ぎゃあああああっ!」
ナイフが地面に落ちる。間髪入れず、翔はまくり上げた右腕を真っ直ぐに引き絞り、男の腹部へと強烈なストレートを叩き込んだ。
ガハッ……!!!
大男の巨体が嘘のように宙に浮き、そのまま旧校舎の壁へと激しく叩きつけられて動かなくなった。
時計を見た翔が、何事もなかったかのように呼吸一つ乱さず、比呂から眼鏡を受け取ってかけ直す。
「15秒。少し力を入れすぎましたね」
「相変わらず引くほど強いなぁ、翔は」
比呂はふにゃっと笑うと、恐怖で完全に腰を抜かし、ガタガタと震えている御手洗に歩み寄った。その美しい顔には、心底哀れなものを見るような、冷ややかな薄笑いが浮かんでいる。
「ねえ、御手洗くん。昨日まで、自分が特別な人間だとでも思ってた?」
比呂の声は、御手洗の鼓膜だけに届くほど低く、残酷に響く。
「君が家でどんなに否定されて、どんなに恐ろしい重圧に潰されそうになってたとしてもさ。だからってクラスの皆を踏みつけていい理由にはならないんだよ。君がこれまで必死に積み上げてきたブランドも、推薦の枠も、ぜーんぶ消えちゃったね。あ、ちなみに君の親御さんにも、君のこの『脅迫データ』がそろそろ届く頃かなぁ。家庭内も、もう終わりだね」
「な……、なんで、そこまで……っ」
ガタガタと震える御手洗の横で、翔が冷徹な瞳で見下ろしながら告げた。
「君が他者を支配していたのではない。君自身が、恐怖の連鎖に縛られた最底辺の奴隷だったという、ただの事実です。……哀れですね」
その瞬間、御手洗の脳裏に、あの地獄のような夜が鮮烈にフラッシュバックした。
激しい衝撃。床に飛び散る点数シート。見下ろしてくる父親の、冷酷で無関心な蔑みの目。
『お前がそんな無能だから、私の顔に泥が塗られるんだ。目障りだ、消えろ』
「あ……あ、あああああああッ!!!」
御手洗は突然、狂ったように頭を掻きむしり、旧校舎の壁に頭を打ち付けんばかりに絶叫した。その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃに歪んでいる。
「違う……違うッ! 僕は無能じゃない! 僕はゴミなんかじゃないッ!! ゴミは僕以外の奴らだ! 僕は1位だ、完璧んだ! お父さん、見てよ、僕を見てよォ!! 僕はゴミじゃない、ゴミじゃないんだあああッ!!!」
夕暮れの薄暗い通路に、彼の血を吐くような絶叫が虚しく響き渡る。
それはクラスメイトへの怒りではなく、どこまでも彼を縛り付け、呪い続けた「父親」への、届かない悲鳴だった。
飯田は、さっきまで自分を脅迫していた独裁者のあまりに惨めで、哀れな姿に、言葉を失って立ち尽くしている。
翔はそんな御手洗の絶叫を、冷たいほどに静かな目で見つめ、一言だけ付け加えた。
「その言葉は、僕たちではなく、あなたを壊した張本人にぶつけるべきでしたね。……行きましょう、比呂。飯田君も」
「うん。……バイバイ、御手洗くん。もう二度と、僕たちの視界に入らないでね」
比呂は最後に一度だけ冷たくウインクすると、呆然とする飯田の背中を優しく押して歩き出した。
背後からは、まだ「僕はゴミじゃない……!」と泣き叫び続ける、哀れな操り人形の声が遠ざかっていく。
完璧に計算された知性と、圧倒的な暴力の拒絶。そして、連鎖していた恐怖の呪縛が、完全にこの学園から解き放たれた瞬間だった。




