中の人 _ 2/4
釈然としない気分のまま、定時まで残りの仕事を勤め上げた。いまいち集中できなかったが、その分時間が早く過ぎたように感じられて楽ではあったかもしれない。
窓の外が白んだ頃に早朝から出勤してくる数人の館員を出迎えたが、その中にはここの館長の姿もあった。
普段なら「おはようございます」か「お疲れ様です」以外の言葉を交わすこともない相手だが、忙しい身だと分かっていても彼に声をかけずにはいられなかった。
「..........あぁ、知ってしまったんですか彼女のこと──いや、別に秘密とかでもないんですけどね。」
館長は顔色も変えずに返事をしている。彼女が美術館公認の存在であるという話はどうやら本当だったようだ。でも、なんでその状態を受け入れられるのだろう。
「彼女はね、美術館になったんですよ。」
「...? 話がよく──」
「この美術館が落成間近のころでした。既にここでの勤務が決まっていた彼女をはじめ、スタッフたちがここへ来ていたんです。前もって内部を知っておくために。研修みたいなものですかねぇ。
その時にね、まだ閉鎖されていなかった螺旋階段の頂上から、彼女は柱の中に落ちてしまいました。」
「頂上って、それは5階の高さですか? それで無事だったんですか?」
「ご覧になった通りです。無傷だったんです。だから今でもうちの職員として働いています。
もちろん幽霊なんかじゃありませんよ? 定期健康診断も受けてもらってますし。
ほら──医療機器満載のバスで来てもらうアレで。」
いや、ホラとか言われても、そういうことじゃない。わからないことしかない。
誰もこの状態を疑問に思っていないのか? そもそも、どうして落ちた時に彼女を助けなかったのか。
「もちろん助けようとはしたんですよ。彼女も外に出ようとしました。しかし、駄目だったんです。」
「駄目とは? あのパネルの穴から──」
「いいえ、駄目なんです。出られません。
つまりですね、彼女は柱の “中” に落ちた。そして “外” には出られない。世界がそういう状態で確定したんです。雇用も戸籍もそのままだけど、存在そのものが美術館になってしまって。
給料や食料も館の内部消費として計上されているんですよ。システム上ね。」
この人はいったいなんの話を──駄目だ、これは本当にわからない。自分にわからないだけで、アートに関わる人間ってのはみんなこんな風なんだろうか? 階段の中の人と、そのきっかけの説明を、自分は一体どう受け止めればいいんだろう。
「まぁあれですよ、一種の現代アートのようなものとでも思ってもらえたら...。」
*/ The Person Inside /*
次の夜、いつもと変わりなく出勤して巡回に出た。納得いこうがいかなかろうが、時間は進むし仕事は始まる。
4階の詰所で事務書類をチェックして、モニターで館内をざっと確認したのち、4階から順に下へ下へと各回を点検していく。そして1階の点検を終えた後は、螺旋階段を登って5階まで──。
だが、その階段を登るための一歩が踏み出せなかった。
館長はなんでもない事のように言っていた。自分は説明を聞いても意味が理解できなかった。なら、もう忘れてしまうのが一番いいのだろうか。
だけど、やっぱり気にはなる。目の前の階段の陰にあるはずの件のパネルを思いながら、しばらくそこで立ち止まったまま時間が過ぎていった。
「何かご用ですか?」
柱の中からの声に驚くことは、もうなかった。そこに居るのだとわかっていれば、自然と心構えもできている。
「いや、その──こんばんは。」
「今晩は...いつもご苦労様です。」
.....聞きたいことは色々あったが、気にするべきじゃないのだろう。聞いたところで自分に理解できるとも思えない。それ以上は言葉も交わさず、意を決して足を踏み出した。
一段一段と無心で階段を登っていく。間近の柱から目を背けて、階段の外の展示スペースだけを見つめながら上を目指した。中の人を意識しないで済むように。
だが無駄なことだった。およそ美術館ほど “中” というものを意識せずにいられない場所も無いかもしれない。
まずこの施設そのものの狭さが駄目だ。他ならない自分が常時 “狭い箱の中にいる” という感覚なのだ。壁面に並んだ絵画も良くなかった。太い額縁の “中” の人物、風景、etc...。どこに目をやっても背後の柱が気になってしまう。
3階まで登った頃には、もう頭の中は彼女のことでいっぱいだった。どうして落ちても生きてるんだ。どうして出られないんだ。どうしてみんな気にしないんだ。
「.....何でなんだ。なんで──」
「ただ、そういうシステムなんですよ。」
想定外に聞こえた彼女の声に、流石に今回は驚いた。3階の高さなのに、すぐ隣から聞こえたようにしか思えない。
「あっ、ごめんなさい...。」
「.....そこに居るんですか──この高さに?」
「はい、ここに。」
ぱかり、という音と共に柱の表面に小さな穴が開いた。それはバネで留めているだけの、メンテナンス用の小さなハッチだった。その中に昨夜と変わらない彼女の顔が覗いていた。
「ここは3階ですよ。中を登ってきたんですか?」
「いえ、ちょっと説明が難しいんですけど... “中” は、“中” でしかないんです。だから外がどこかは関係なくて、この通り──。」
ハッチを覗き込むとその向こうに、昨夜と同じままのあの空間があった。ちゃぶ台が見えて、その下には床がある。まさかエレベーター仕掛けということもないだろうし、なら──
「外側がどこだろうと、繋がる先はここである...と?」
「はい、そういう....。」
...そういうシステム?
またわからない事が増えてしまった。しかもダントツに理解を超えてきた。こうまで荒唐無稽だと、考えて悩むことも少し馬鹿馬鹿しくなって来る。もう思い切って色々と聞いてみようか。
「外に出られないっていうのは、本当なんですか?」
「そうですよ。正確には美術館の中なら出入りできるんですけれど、ふとしたはずみ──あくびとか、くしゃみとかの瞬間に、気づいたらここへ戻っているんです。
集中していれば大丈夫なんですけど、でもずっとは無理でしょう? だからここに住んでます。」
「それが、そのシステムとやらなんですか。なんとかしてそのシステムの外に出ることは、できないもんなんですか。」
「駄目だと思います。以前は色々と試しましたけど、今では私もその気が無くなっていますし。」
「え?」
「もともと好きでしたから、美術館は。いろいろな作品に囲まれて、自分もその一部になれたような気がして。
慣れたら結構悪くないですよ...内側から眺めている方が、私にとっては世の中は居心地がいいんです。」
美術館になった───館長の言っていた言葉の意味が今わかった。同時に、外の世界を煩わしく感じているのであろう彼女の気持ちも、自分には少しだけわかる部分がある。
自分がこの仕事を選んだのも、この仕事に飽きながらも転職に本気になれないのも、そこに世間そのものへの拒否感がないとは言えない。面倒な人付き合いなんてしたくもないし、興味のない仕事に打ち込める気もしなかった。
要するに彼女は、働きながら引き篭っているわけだ。それを少しだけ羨んでいる自分がいる。
自分がどこかに "居直れない" のは覚悟が足りないからなのか、それとも別のどこかに未練があるからなのか——その違いすら自分にはまだわからない。
「 それに──ほら、ここってお家賃かからないんですよ...。」
そう言う彼女はささやかに、だけど無邪気に笑っていた。この夜から自分の業務に、マニュアルにはない余計事が一つ増えた。
* * * 続く * * *




