中の人 - 1/4
閉館後の美術館というのは思ったよりも音がする。特に耳が慣れると、想像以上にうるさく感じることもあるだろう。空調のうなり、非常灯のかすかな電子音、それから自分自身の足音、衣擦れ、呼吸音。
その残響の中で、若い警備員は懐中電灯を片手に三階の廊下を歩きながら、今夜だけでも何度目になるかわからない漠然とした考えを繰り返していた。
*/ The Person Inside /*
(転職、どうしようかな...)
別にこの仕事が嫌いなわけじゃない。正直に言えば、楽な仕事だと思う。自分の主な役目は安全の確認であって、別に飛び込んでくる “怪盗” と渡り合うわけでもない。いや、いっそ飛び込んできてくれれば張り合いが出そうだ。
この仕事は難しくはないが、とにかく退屈との付き合い方を問われる。その一点だけでも歳の離れた先輩たちからは「向いてないから、早いとこ別のいい仕事を探しなよ」と勧められている。自分としても同感だ。
かといって、だから行動を起こせるかと言えば話は別なのだが。
結局自分は何もしていない。ただ夜の美術館を一人ぐるぐると歩いて、電気・水気・空調・湿度を確認していく。展示物が正しく配置されていることを確認していく。忘れ物や清掃漏れを探しながら、誰もいないことを確認していく。
誰もいないとわかっていても確認しながら、そしてさらに歩き続ける。前日と同じように。ずっと、ずっと同じように。
今の配属先はほどほどの町の、ほどほどの中心街にある美術館だ。大きくもなければ小さくもない5階建で、1〜3階が展示階となっている。大した広さはないというか、はっきり言って狭い方で、美術館というよりもアートスペースと言われた方がしっくりくる。
中央が吹き抜けになっていて、そこに直径3メートルほどの太い柱が一本通っているのが特徴だ。その柱の周囲に巻き付くように螺旋階段が設置されていている。
この螺旋階段は建築コンペで選ばれた「ちょっと頑張った意匠」で、単なるデザインでしかないらしい。一応はこの階段を通りながらすべての展示物を一望できるという用途があるが、自分には空間の無駄遣いとしか思えなかった。
その日の二回目の巡回の時だった。いつもと同じように、螺旋階段を上から下へと降りていく。午前3時を少し回った頃だ。その時、柱の根元で “ある発見” をした。
見つけたのは、階段の裏手にあるメンテナンスパネルのわずかな緩みだ。ネジが緩んでいるらしい。構造的にはここを開くと柱の中が覗けるのだろう。そう言えば、この柱の中など意識したこともなかった。
放置しても実害はなさそうだったが、自分はそうする気にはなれなかった。暇だったからかもしれない。携帯しているミニドライバーでネジを外した。
締め直すのではなく外したのは、やはり暇だったからだろう。暇を持て余すと、人間は大抵余計なことをするものだ。
ネジはあっさり外れて床に落ちた。パネルを横にずらしてやると、そこに暗い穴が口を開けている。縦横およそ90センチ四方といったところか。
全周モードに切り替えた懐中電灯を掲げると、ぼんやりと中の様子が窺えた。奥行きがあるというか、想像よりも広さを感じる。外に広がる展示階の微妙な狭さとは別種の、もっと完成された閉塞感のような、ある種の落ち着きがそう感じさせた。
ただ、そこにどうしようもない異物があった。“ちゃぶ台” である。暗闇の中央にちゃぶ台が置かれ、その上で湯呑みが細い湯気を立てていた。なぜ。
「...あの、すみません──。」
穴の中からの思わぬ声に数歩を後ずさった。心臓が跳ね上がったが、声のトーンがあまりに穏やかだったので悲鳴だけは上げずに済んだ。
恐る恐るといった風に闇間から顔を覗かせたのは、二十代後半くらいの? 自分よりも少し年上のような? 地味な顔の女性だった。
彼女はうっそりと身を屈め、パネルを拾い上げ、穴を塞ごうと──
「待って、待ってください。」
「あ──すみません、驚かせてしまいましたね。」
「えぇ、まぁ...。」
「ですよね。」
「...誰、ですか?」
「ここの人です.....美術館の、階段の中の。」
その人はパネルを抱いたまま穴の向こう側にちょこんと座っている。グレージュのカーディガンを羽織っており、伏し目がちな目の下に大きな隈があった。はっきり言って少し怖い。
「修理、ありがとうございます。外れかけてたのはわかってたんですけど、内側からだと直すのが難しくて。」
「いや、自分は.....あなたは、なんでこの中にいるんですか?」
「住んでます。」
「ここに?」
「はい。」
もう一度、穴の中に視線を向けた。よく見ればちゃぶ台以外にも、小さな箪笥とカセットコンロがある。あとは座布団とごみ箱──でもそれだけだ。
「住んでいるというのは、勝手に...?」
「いえ、私はここの学芸員で、ここに住んでいるのは館長も知っています。」
「公認なんですか? でも、なんで柱の中に。」
「うっかり落ちたんです、最初に。」
──最初?
「で、出られなくなりまして、そのまま。」
彼女は改めて穴の中へと戻っていき、パネルは内側から閉じられた。
「ネジ、よろしくお願いしますね。」
..........。
一人 “外” に残された自分は、言われた通りにパネルのネジを締め直して、そのまましばし立ち尽くした。
夜の美術館には空調の唸りと、自分の衣擦れの音だけが溶けている。いつもの職場が戻ってきた。自分以外には誰もいない──少なくとも、この階段の外側には。
* * * 続く * * *




