個人販売始めました - 1/2
新しい部屋の匂いが──壁紙と接着剤の匂いだ──浴室の中にまで充満していた。家の中の全てに自分の匂いが染みつくまでは、まだ数日かかるんだろう。
今はまだ、浴室から広がっていくシャンプーの香りだけが唯一の私の痕跡だった。浴室から出れば真っ先に、洗面台の鏡に映った自分の姿が目に入る。
布瀬冴子フセ・サエコ──私の名前だ。
鏡でも写真でもなんでもそうだけど、自分の顔を見る度にこの “名前” を意識してしまう。子供の頃からずっとそう。
別に大した名前でもないけれど、字面はまぁ悪くないと思うじゃない? なのに私自身が冴えない顔で、完全に名前負けしてる。作りが悪いわけじゃないけど、それにしてもパッとしたところがない顔。
でもまぁ、それだけ。
今、私は無職で、家賃の安さだけが取り柄の狭い部屋に越してきたばかりで、風呂上がりの湯気の中で冴えない自分と向き合っている。
今日は引っ越しの初日。荷解きもそこそこに一旦お風呂に入っていた。
引っ越し業者が帰ってからの数時間、段ボールを開けたり潰したりしていたせいで着ていた服は汗でもう...いや、もう私自身が限界だ。服だけ着替えて終わるより、一度シャワーを浴びたかった。
髪を拭きながら部屋に戻ると開けかけの段ボールがあと4つ。2箱が服で、残りは本と台所用品が1箱ずつ。うん、終わりが見えている。大変だったけどペースは上々。明日の午前中には終わるだろう。
続きを再開する前に、食事と買い物がてら洗濯を済ませてしまおうか。着替えを探して服の入った段ボールを漁る。ちょっと出かけるだけだから何でもいい。
この部屋には洗濯スペースがない。洗濯排水口も防水パンもなく、まず給水用の蛇口すら壁から生えていない。そういう部屋だ。
だけど代わりに家賃は破格で、前に住んでた部屋と比べればほぼ半額に近い。駅からは徒歩12分。日当たりは許容範囲──つまり良くはない。築年数は聞かなかった方がいいレベルだけど、台所とお風呂だけは妙に整えられている。
外に出れば真夏の夕暮れ。暑さはまだまだ続きそうだ。コインランドリーまでの道は歩いて2分の距離。
不動産屋はそれを「近い」と言っていたけど、洗濯のたびに2分歩くのを今後はどう感じるようになるんだろう。
何もない町の中を歩いていくと、じきに「コインランドリー パル泉」という看板が見えてきた。致命的にフォントがダサい。外壁は褪せたピンク色で、中で垂れ流しになっているラジオの音が外まで漏れている。
信用ならない外観とは不釣り合いに、備え付けられているのは比較的新しい6台の洗濯乾燥機だ。そのうちの空いている1台に洗濯物を放り込んでスイッチを入れると、乾燥抜きなら洗い終わりまで25分。
壁にはどこの業者が持ち込んだのかもわからない広告チラシが錆びた画鋲で貼ってある。備え付けの漫画本は巻数がまるで揃っていない。ラジオの音はちょっと割れている。
なんとなくこの場所の空気を覚えておきたくなった。これからは、この店が私の生活の一部になるんだから。
* * * * *
──それから3日が経ち、新しい部屋も自分の匂いに染まり始めている。もしや溜めた洗濯物の匂いじゃないかと少しだけ危惧し、今日は再びパル泉に行く。
ついでに少し近所を散策してみようか。どうせ何もない住宅街だけど、道の作りぐらいは覚えておいて損はない。そして特におしゃれする必要もない。
だったら着るのは “どうでもいい事用” の服でいいや。引越し初日に汗まみれにして、パル泉で洗ったやつ。それをハンガーラックから引き出して...そこで違和感を覚えた。
ただのボーダー柄のTシャツだ。なんの変哲もない直線の縞柄だ──だったはずだ。
だけど目の前に取り出したTシャツのボーダー柄は、少しだけ波打っていた。
まさかあの時に取り違えた? ...いや、そんなはずはない。一番端の洗濯機を使って、一番端の洗濯機から取り出したんだ。終わるまでずっと中で待っていたし、その間は他の利用者も現れなかった。じゃあ間違いようがない。
生地がよれたわけでもないし、染色が溶けたわけでもないようだ。色もサイズも同じ。なのに柄が少しだけ変わってしまった──そうとしか言いようがない。
生まれ変わってしまったTシャツをひっくり返し、うら返し、明かりに透かしていろんな角度から眺めてみる。柄以外にはおかしなところは何もない。
そしてその柄は.....意外と悪くない気がする。元はシンプルで退屈なボーダーだったけど、今の歪んだボーダーには斜に構えたサイケデリックさが滲み出ていた。
不思議に思いつつも袖を通し、洗濯物を詰めたバッグを手にパル泉へと向かった。着心地は以前と何も変わらない。自分の体に馴染んだ、やはりあのシャツだ。
時折町中のガラスに映る自分の姿が視界に捉えるたびに思う。やはり悪くない、と。元の柄より上等だと思うしサマになっている。
どうしてこうなったのかは解らないけど、得をしたかもしれない。
徒歩2分。あっという間に辿り着いたパル泉で問題もなく洗濯を終えた。
問題が起きたのは終えた後──先ほど洗ったビジネスシャツだと思って洗濯機から取り出したそれは、持っている覚えもない “パフスリーブ” だった。
はぁ?
..........変化した──今着ているボーダーといい、最早そうとしか思えない。意味がわからなすぎて、私は呆然と洗濯機の前に立ち尽くした。
手に持ったパフスリーブをじっと見続ける私の姿は、事情を知ってる人間にとってはわかりやすいものだったのだろう。
「あなた、ここを使ったのは初めて?」
突然背後から声をかけられ驚いて振り返ると、いつの間にか来店していた笑顔のおばさんが立っていた。
その人の第一印象は首から上が “人が良さそう” で、首から下は “ちぐはぐ” だった。服は一目でわかるほどセンスが良いのに組み合わせに統一感がない。そして化粧もせず髪も整えていないようで、本人だけが無頓着すぎる感じだ。
「あの、いえ、洗った服がなんだか...。」
「洗ったら変わったんでしょう? そうなのよねぇ。」
...やっぱり変わるの? あまりにあっさり核心を突かれて、用意していた遠回しな切り出し方は丸ごと無駄になってしまった。
「ここはね、そういう所なのよ昔から。あたしは30年通ってるけど、ずっとそうよ。」
30年も.....おばさんは自分の洗濯物を隣の洗濯機に入れながら話し続けた。
「ちょこっとだけしか変わらないの。でも、大体は元より良くなるのよ。なんでなのかしらね?」
「えっと、苦情とかは──」
「あったら30年も営業なんてできないわねぇ。まぁ細かいことは気にしない方がいいわよ、得できるんだから。ここで安物を洗って、ちょっとお洒落になる──それで十分じゃない?」
だからこの人、服だけが妙におしゃれなのか。私の洗濯はもう終わってるんだけど、おばさんの洗濯が終わるまで少し話をさせてもらった。
この店の話。今までの変わってしまった服の話。自分がこの町に越してきたばかりだという話。前は別の町でアパレル系のパートをしていたが辞めた話。今は無職で、預金を食い潰しながら次の仕事を探している話。
「あらあら、じゃあ冴子ちゃんは服とか詳しいのねぇ。」
「いやー服が好きだっただけですよぉ。」
「でも、だったら見る目はあるんじゃない? 沢山見てきたわけでしょうし、良い悪いくらいは。」
乾燥機のタイマーが鳴って、おばさんが立ち上がった。30年間の慣れた手つきでサクサクと中身を取り出していく。しかし薄手のカーディガンを取り出したところで手が止まった。洗濯前のそれとは特に変わった所はない様だけど...いや、ボタンが違う?
最初は量産品の画一的なプラスチックだったはずのボタンが、今は木目調のナチュラルな質感になっている。縫い目もわずかに細かくなっている気がするし、なんだか全体的に洗練された感じだ。
「ちょっとこれ見て頂戴? 元は500円のバーゲン品なのよ。こんなに見違えちゃって、今日は当たりだわぁ。」
「そのカーディガン、本当に良くなりましたね。」
「冴子ちゃんのシャツも可愛くなってたわねぇ。」
確かにあれも悪くない。悪くはないのだけどタイミングが悪かった。
「元はビジネスシャツだったんですけど、実は明日は仕事の面接で...面接に着ていくシャツがその一枚しかなかったから.....。」
おばさんと無言で見つめ合って、それから一緒に苦笑いした。
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