14.本当の名前
「どうして……私を選んでくれないの……?」
――もう随分前のこと。
恋焦がれた人が私の元から去ったのは、きっと私のせい。人間の男に恋をして、引き止められなかったのも、私のせい。人間の男は、人間の女を選んで……私の元を去っていったわ。
そして、悪魔の囁きに堕ちてしまった。
涙に濡れた女ほど落としやすいのでしょう……? 人間に恋した私の心に、いとも簡単に入り込んだゼウスに絆されるのは時間の問題だったわ。巧みな話術、さり気ない気遣い、優しく見つめる瞳……どれもが愛しい人にしてほしかった仕草だったもの。
絆された私が妊娠した事を知った時、この喜びを伝えたくてゼウスを探し回った。
でも……見せつけられたのは、違う女神と交わるゼウスの姿。精神的に不安定な時に限って、嫌な話しばかりが聞こえてくる。
「ゼウスったら自分の子に手を出して子を成したんですって」
「まぁゼウスなら良いのかも。誰も逆らえないし」
「でもヘラが気の毒だわ」
「夫に選んだ時点で自己責任よ」
全てに自由なゼウスが羨ましいと思った時も確かにあったわ。おおらかな考え方、おおらかな人柄に惹かれて出来たお腹の子……だけど、この子にまで手を出されたら、私は……耐えられない。
お腹を摩りながら私はこの子を死んでも守るって決めたの。
お腹が目立つ前に全ての計画を練って、産む場所も産んだ後の子どもの行き先も、出来る限りの準備をした。
地上で暮らすプロメテウスに半ば強引にお願いしたのは申し訳なかったけど、理解して協力を得られたし、小さな街の小さな産院も見つける事ができた。大きくなるお腹は決して隠しきれないから、生まれた子は死産ということにして伝えれば良い。
そうして月日が経ち、地上で産んだ我が子をそっと抱きしめた。
「育ててあげられなくて……ごめんね、ペルセポネ……」
「デメテル……本当に良いのか?」
「……良いの。この子の幸せは、私が守ってみせるから」
腕に見える小さな痣。
ゼウスの子には全員同じ痣が浮かび上がるのを、私は知ってる。きっと、大きくなっても消えないこの痣を、どうか地上で隠し続けて欲しい。
「約束は守る。必ず守ってやるが、地上でその名は目立つから愛称でも付けてやれよ。本当の名は大きくなったこの子に自分で伝えてやれ、俺は愛称で呼ぶから」
「……ペル……いえ、お前の名はベルよ……私の可愛いベル……」
それでも私は、泣かなかった。
泣いてしまえば、この子を守れなくなる気がしたから。
***
「貴女の本当の名は、ペルセポネ……眩い光って意味なの」
私の本当の名前……?
プロメテウスも隣の神様も地面に膝を付けたまま、なんで頭をあげてくれないの? 隣に立つハデス様を見上げたけど……私と同じように困惑した表情をしてる。
「これ以上隠しても、きっと貴方のためにならないわね。ベル、貴女の本当の母親は私デメテル。そして父親は……ゼウスなのよ、今まで黙っていてごめんなさい」
「え……? そんなわけ――」
「嘘じゃない」そう言いながらやっと頭をあげてくれたプロメテウスが、膝を付いたまま「黙っていてすまなかった」と、私を見つめた。頭の中は真っ白で、自分の状況が飲み込めずにいるけど周りが嘘を言ってるようには見えない。それどころか、すごく申し訳なさそうな顔で……こっちまで息がしにくい。
「だって私は孤児で……」
「ベルを産んですぐにプロメテウスへ託したから、知らなくて当然よ。貴女をどうしてもゼウスから守りたかった……」
ここまで唖然としてたハデス様が、私の肩に触れながら口を開いた。
「ゼウスから……守りたかったのか」
「えぇ、あの男は手当たり次第女に手を出しては、自由奔放に暮らしてた……どうしても……自分の子だけは守りたかったの」
「もっと早く言ってくれれば天界には連れて行かなかった!」
「……分かってる。口では『連れてくるな』なんて言っておいて、本心は一目でも大きくなったらペルセポネに会えるのが嬉しかった……。まさか宴会まで来るとは思わなかったのよ」
口元を抑えるハデス様を横目に、自分のことなのに言葉も出なくて、何から聞いて良いかもわからなくて……でも、そしたら私は、神様から生まれた……人間?
心配そうに見つめるハデス様が、ポツリと「女神だったのか……」そう言ったように聞こえた。
「……女神……?」
「ベル……いえ、私の愛しいペルセポネ……。貴方は、私から生まれた新しい女神なのよ。花々に愛され、四季を司る女神」
私が、女神なんて、そんなこと……と思う自分と、日々美しく咲き誇る花々を思うと、妙に納得出来る自分がいる。だって、お世話する植物はみんな成長が早く、長く美しく咲くと花屋さんでも評判だったから。四季、の部分はよく分からない。
でも、花とか四季とかそんなことよりも「女神」と聞いて、真っ先に頭に浮かんだのは、両親が神様と言うことより――
「ハデス様と同じ神様……?」
私は人間、ハデス様は神様。だから、あるべき形に戻って二度と交わる事がないように、扉が閉じられたのだと思ってた。でも、そうじゃないとしたら……? 違う未来もあるの……?
「あるべき形って、変わりますか?」
ポロポロ流れる涙が、ハデス様をも滲ませる。
その表情も仕草も何も見えないけど、頬が温かく包まれたのは、きっとハデス様だと思うの。だから、優しさでいっぱいの温もりに私も手を重ねた。
「ハデス、お前も逃げずに向き合う時が来たんだよ。愛を拒んだハデスが見つけた優しい光を、今更拒む事なんて出来ないだろう?」
「ハデスなら心配いらないさ。こんな嘘つけない男、そうそういないよ」
「まずは二人できちんと話しをしなさい」
そうして、口々にハデス様を諭す神様たちが、飛び立った。
気付いた時には、お礼も伝えられないくらい随分高い空に吸い込まれてた。自分の中できちんと整理出来たら、必ずお礼を伝えに行こう……。
でもその前に、目の前で黙ったままのハデス様と話しをしなくちゃいけない、はず。もう部屋に閉じこもって泣いてた私じゃないんだから。
「ハデス様」
「…………」
「助けてくれて、ありがとうございました」
「いや……無事で良かった」
「……私、嬉しかったです。ハデス様が助けに来てくれて。怖かったし、目の前に大きな蛇が現れた時は、あぁ私もうこれで死んじゃうんだって思いました。だけど、心の中で『最後にハデス様にもう一度会いたい』って思ったら会えたんです。だから嬉しかったです」
「……ずっと後悔してたんだ。冥府から出た私と出会わなければ、ベルがゼウスに襲われることも天界で危険な目に遭うこともなかった。ベルの平穏を奪った自分を許せなかったのだ」
「ハデス様……」
「だけど私はもっと後悔してしまった。二度と交わらないと決めたあの日から、一日たりとてベルを思い出さなかった日など無くて……とても……とても会いたかった」
出会って日も浅いけど、真っ直ぐ私を見るハデス様の目が本気だと伝わる。ハデス様も私に会いたいと思ってくれてたんだ……自惚れても、良いんだよね?
優しく微笑みながら、ハデス様が言った。
「未来に貴方が居てくれるなら、何だって良い」




