↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/20

第8話 帳簿と買い叩き

 断罪の日の翌朝、リディアの部屋の扉の下に、一通の手紙が差し込まれていた。

 飾り気のない白い封筒。差出人は、レオンハルト・アイゼンベルク。この屋敷に来て一年と少し、初めて受け取る大公爵からの手紙だった。

 中には、几帳面な字で短い文面が並んでいる。

 『帳簿を見ていただきたい。ご都合のよい時に、執務室へお越しいただけないだろうか。こちらから伺うべきだが、書類を持ち出せない事情がある。無礼をお詫びする』

 リディアは手紙を二度読んだ。一度目は中身を。二度目は字の癖を。急いで書いたのだろう。「詫」の最後の払いが、わずかに乱れている。

 それでも、「ご都合のよい時に」という言葉は、この一年のあいだ、彼女に向けられた初めての配慮だった。

 頭の中の帳面に一行、書き足す。手紙:あり。

「行く。今」

 床から立ち上がりかけたリディアに、ヒルダがすかさず言った。

「お嬢様。まずは朝食と、お着替えです」

「……うん」

  *

 二階の南側。ずっと閉ざされていた区画の扉は、今日は開いていた。

 臨時の家令として、伯爵家から派遣された老人が、扉の脇で礼をした。オットー。ユリウスの腹心で、帳簿の扱いにかけては帝国一と噂される古参だ。白髪を丁寧に撫でつけ、背筋は伸びている。

「奥様。お待ちしておりました」

 執務室に入った瞬間、リディアは足を止めた。

 広い部屋だった。けれど、床も机も椅子も、書類の山に埋もれている。窓には厚いカーテンが引かれ、昼間なのに燭台の火が揺れていた。冷めきった茶の杯が五つ。インクの染みが、机の端から端まで広がっている。

 部屋の隅に、折り畳みの簡易寝台が置かれていた。毛布は畳まれていない。

 ここで、眠っているのだ。三、四時間。

 机の向こうから、レオンハルトが立ち上がった。昨日よりさらに青白い。目の下の隈は、隠しようがないほど濃かった。

「来てくれて、ありがとう」

「お手紙、いただきました」

 リディアは淡々と答えた。

「初めて、でした」

 レオンハルトの肩が小さく揺れた。責める言葉ではなかった。ただの事実だった。けれど、事実だからこそ、深く刺さる。

 彼は何も言わず、机の上の帳簿を一冊、両手で差し出した。

  *

 帳簿は、全部で十二冊あった。

 三年分の魔物素材の売買記録。討伐日、品目、数量、買い取り先、買い取り額。細かな数字が、びっしりと並んでいる。

 リディアは椅子に座り、最初の一冊を開いた。

 そして、頁をめくり始めた。

 速かった。一頁を見るのに、一呼吸もかからない。指がするすると動き、頁が羽のように繰られていく。紙の擦れる音が規則正しく、静かな部屋に響いた。

 レオンハルトは黙って、それを見ていた。オットーも、目を細めてその手元を追っている。

 一冊目が終わり、二冊目に移る。三冊目。四冊目。

 十二冊目を閉じたとき、窓の外はまだ午前の光だった。

「……読んだのか」

 レオンハルトが掠れた声で尋ねた。

「はい。全部、覚えました」

「全部」

 リディアは帳簿を重ねて、机の端に揃えた。

「焔鱗蜥蜴の鱗。相場は、一枚、金貨三枚。この帳簿の三年間の平均買い取り額は、一枚、金貨一枚と銀貨二枚。六割、安いです」

 淡々と続ける。

「銀脈草は、相場の四割。月影茸は、三割五分。岩苔蜥蜴の肝は、半分以下。全部を平均すると、買い取り額は、相場の、およそ四割です」

 レオンハルトの顔から血の気が引いた。

「……四割」

「差額は、三年間で、金貨にして、およそ一万八千枚です」

 部屋が静まり返った。

 金貨一万八千枚。それは、先代の時代の大公領の運営費の何年分にも当たる額だった。それが三年のあいだ、帳簿の上で静かに消えていた。

「それと」

 リディアは帳簿の端を、指でとんと叩いた。

「採取方法の特許料の項目が、ありません」

「特許……」

「先代の大公様と奥様が実践されていた採取方法は、私の特許です。素材の買い取り額に特許料を上乗せして、買い手が私に払う決まりでした。でも、この三年間の分は、一度も届いていません」

 オットーが静かに頷いた。

「帳簿の上では、上乗せの記載すらございませんでした」

「つまり」

 リディアは言った。

「素材代を買い叩いたうえに、特許料まで払っていない。私の分も、およそ四千枚、抜けています」

 淡々とした声だった。怒りは少しも混じっていない。ただ、数字を並べているだけだ。その淡々さが、レオンハルトには何よりも堪えたらしい。彼は机に両手をついたまま、しばらく動かなかった。

「……私が、相場を、知らなかった」

 絞り出すような声だった。

「素材の価値を、確かめなかった。家令に任せて、商人の言う値をそのまま受け入れていた」

「はい」

 リディアは否定しなかった。

「それが、一番の原因です」

 レオンハルトは目を閉じた。それから、ゆっくりと開いて、まっすぐリディアを見た。

「どうすれば、いい」

 問いは短かった。言い訳も泣き言もない。

 リディアは少しだけ驚いた。近くにあった紙を一枚引き寄せ、鉛筆を取る。

 そして、書き始めた。

 魔物素材の名前。ひとつ書いては、その横に相場。またひとつ。またひとつ。鉛筆の動きは止まらない。四十、五十、八十。紙が一枚埋まれば、次の紙へ。

 半刻ほどで、七枚の紙がびっしりと埋まった。

「相場表です。大公領で採れる素材だけ、世界の相場を並べました。まず、これを覚えてください」

 紙の束を、レオンハルトの前に押し出す。

「相場を知らない人は、買い叩かれます。知っている人は、買い叩けません。単純な理屈です」

「……なぜ、これを」

 レオンハルトの目が、紙とリディアの顔を行き来した。

「君は、離婚するのでは」

「はい」

 リディアは頷いた。

「返済を受け取るために、必要だからです。大公領が潰れたら、お金は返ってきません」

 ぶっきらぼうな理由だった。けれど、レオンハルトはその紙の束を、両手で大切そうに受け取った。

「……ありがとう」

「まだ、早いです」

 リディアは椅子から降りながら言った。

「相場を覚えて、使えるようになってから、言ってください」

  *

 ガルシア商会の会頭が大公邸を訪れたのは、それから三日後のことだった。

 肥満気味の体を豪奢な上着に押し込み、口髭を丁寧に撫でつけた男。十の指のすべてに、大振りの指輪をはめている。ガルシア。この三年、大公領の魔物素材のほぼすべてを買い叩いてきた商人だった。

 通された応接室は、断罪の日と同じ部屋だった。

 長いテーブルの向こうに、レオンハルトが座っている。その隣にオットー。部屋の隅の椅子には、リディアがちょこんと座っていた。護衛たちが壁際に控えているが、ガルシアの目には入っていないようだった。

「いやあ、大公爵様。このたびはとんだ災難で。ご家令様方がお辞めになったと伺いまして」

 ガルシアは腰を低く折り、にこにこと笑った。

「新しい家令様が決まるまで、わたくしどもでお手伝いできることがあればと、参上した次第です」

「ご心配、痛み入る」

 レオンハルトは静かに答えた。

「今季の素材の件だが」

「ええ、ええ。今季もよい品が揃っていると伺っております。つきましては、買い取り価格でございますが――」

 ガルシアは書類を一枚、すっと差し出した。

「焔鱗蜥蜴の鱗、一枚、銀貨三枚でいかがでしょう。ご存知の通り、素材の買い手は少なく、大公領の品を安定してお引き受けできるのは、わたくしどもだけでして」

 銀貨三枚。相場の十分の一。リディアの相場表では、一枚、金貨三枚だ。

 リディアは椅子の上で、足を少しだけぶらぶらさせた。

 レオンハルトは書類を見なかった。代わりに、静かに一枚の紙をテーブルの上に置いた。リディアの書いた相場表の、一枚目だった。

「焔鱗蜥蜴の鱗の相場は、金貨三枚と聞いている」

 ガルシアの口髭がぴくりと動いた。

「き、金貨? どなたが、そのような」

「確かな筋だ。銀脈草は一束、金貨一枚。月影茸は金貨二枚。これまでの買い取り額とは、大きく違う」

 レオンハルトはひとつずつ、相場表を読み上げた。声はまだ少し固い。けれど、数字はひとつも間違えなかった。

 ガルシアは額の汗を、ハンカチで拭った。

「それは、帝都のごく一部の高級店での話でして。大公領は辺境。運搬費や保管費が」

「運搬費は、帳簿に別項目で計上されている」

 ガルシアの目が泳いだ。

「で、では、危険手当が」

「それも、別項目だ」

 ガルシアは声の調子を、ころりと変えた。

「大公爵様。失礼ながら、お若い。商売というものは、そう単純では」

「では、他を当たる」

 レオンハルトは静かに告げた。

「相場で買ってくれる商会を探す。見つからなければ、今季の素材は売らない」

「ほ、他には、おりませんよ」

 ガルシアは嗤った。

「大公領の素材を扱える商会など。わたくしどもが手を引けば、誰も」

「いえ。います」

 リディアが口を開いた。

 全員の視線が、部屋の隅に集まる。少女は足をぶらぶらさせたまま、のんびりと続けた。

「世界中に、います。ヴェルナー商会。相場で買います。特許料も、きちんと上乗せして」

「ヴェルナー……商会」

 ガルシアの顔から笑みが消えた。

「まさか。伯爵家の」

「はい。リディア・ヴェルナーです。大公爵夫人です」

 リディアは小首を傾げた。

「三年分の、買い取り額の差額と、特許料。後日、請求書をお届けします。お支払いが難しい場合は、ご相談ください。帝国の法廷でも、構いません」

 ガルシアの口がぱくぱくと動いた。何かを言おうとして、言葉にならない。赤かった顔が、みるみる土色になっていく。

 レオンハルトがその隙に、静かに続けた。

「今後の取引は、すべて相場で行う。特許料も含めて。受け入れられないなら、取引は終了だ」

「……は、はい。も、もちろん」

 ガルシアは這うように立ち上がった。ずらりとはめられた指輪が、テーブルに当たってかちゃかちゃと音を立てる。

「で、では、今日は、これで。改めてご挨拶に」

 彼はほとんど逃げるように、応接室を出ていった。

  *

 扉が閉まると、部屋の中に沈黙が落ちた。

 最初に口を開いたのは、ミーシャだった。

「……あのおっさん、汗の量、すげえな」

「ミーシャ」

 ヒルダが小声で窘めた。

 レオンハルトは長く息を吐いた。それから、ゆっくりとリディアのほうを振り向いた。

「……助かった」

「交渉は、あなたがしていました」

 リディアは椅子から降りながら言った。

「私は、最後に、少し口を挟んだだけです」

「それでも」

「相場表を、見ないで、読み上げていました」

 リディアはふと、レオンハルトを見上げた。

「三日で、覚えたのですか」

「……徹夜で」

 彼は少しばつが悪そうに言った。

「間違えないように」

 リディアは小さく頷いた。頭の中の帳面を開き、「態度:保留」の下に一行、書き足す。

 ――相場表、覚えた。

 それだけだった。評価ではない。ただの記録だ。けれど、この一行は、レオンハルトが努力で手に入れたものだった。

 廊下に出ると、ノワールが影から現れた。

「お嬢様。ガルシア商会と元執事長マティアスの関係について、調査が終わりました」

「うん」

「毎月、小さな封筒が動いていました。金額は、金貨にして二十枚ほど。それ以外に大きな繋がりはありません。背後に、他国や他家の動きもありません。伯爵家の情報網も、同じ結論です」

 ノワールは淡々と続けた。

「陰謀ではありません。ただの強欲な商人と、小遣い欲しさの家臣です」

 リディアは少し黙った。

「……つまんない」

「はい?」

「何でもない」

 彼女は歩き出した。護衛たちが静かに後に続く。

 窓の外は、冬の気配の薄い青空だった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。