第8話 帳簿と買い叩き
断罪の日の翌朝、リディアの部屋の扉の下に、一通の手紙が差し込まれていた。
飾り気のない白い封筒。差出人は、レオンハルト・アイゼンベルク。この屋敷に来て一年と少し、初めて受け取る大公爵からの手紙だった。
中には、几帳面な字で短い文面が並んでいる。
『帳簿を見ていただきたい。ご都合のよい時に、執務室へお越しいただけないだろうか。こちらから伺うべきだが、書類を持ち出せない事情がある。無礼をお詫びする』
リディアは手紙を二度読んだ。一度目は中身を。二度目は字の癖を。急いで書いたのだろう。「詫」の最後の払いが、わずかに乱れている。
それでも、「ご都合のよい時に」という言葉は、この一年のあいだ、彼女に向けられた初めての配慮だった。
頭の中の帳面に一行、書き足す。手紙:あり。
「行く。今」
床から立ち上がりかけたリディアに、ヒルダがすかさず言った。
「お嬢様。まずは朝食と、お着替えです」
「……うん」
*
二階の南側。ずっと閉ざされていた区画の扉は、今日は開いていた。
臨時の家令として、伯爵家から派遣された老人が、扉の脇で礼をした。オットー。ユリウスの腹心で、帳簿の扱いにかけては帝国一と噂される古参だ。白髪を丁寧に撫でつけ、背筋は伸びている。
「奥様。お待ちしておりました」
執務室に入った瞬間、リディアは足を止めた。
広い部屋だった。けれど、床も机も椅子も、書類の山に埋もれている。窓には厚いカーテンが引かれ、昼間なのに燭台の火が揺れていた。冷めきった茶の杯が五つ。インクの染みが、机の端から端まで広がっている。
部屋の隅に、折り畳みの簡易寝台が置かれていた。毛布は畳まれていない。
ここで、眠っているのだ。三、四時間。
机の向こうから、レオンハルトが立ち上がった。昨日よりさらに青白い。目の下の隈は、隠しようがないほど濃かった。
「来てくれて、ありがとう」
「お手紙、いただきました」
リディアは淡々と答えた。
「初めて、でした」
レオンハルトの肩が小さく揺れた。責める言葉ではなかった。ただの事実だった。けれど、事実だからこそ、深く刺さる。
彼は何も言わず、机の上の帳簿を一冊、両手で差し出した。
*
帳簿は、全部で十二冊あった。
三年分の魔物素材の売買記録。討伐日、品目、数量、買い取り先、買い取り額。細かな数字が、びっしりと並んでいる。
リディアは椅子に座り、最初の一冊を開いた。
そして、頁をめくり始めた。
速かった。一頁を見るのに、一呼吸もかからない。指がするすると動き、頁が羽のように繰られていく。紙の擦れる音が規則正しく、静かな部屋に響いた。
レオンハルトは黙って、それを見ていた。オットーも、目を細めてその手元を追っている。
一冊目が終わり、二冊目に移る。三冊目。四冊目。
十二冊目を閉じたとき、窓の外はまだ午前の光だった。
「……読んだのか」
レオンハルトが掠れた声で尋ねた。
「はい。全部、覚えました」
「全部」
リディアは帳簿を重ねて、机の端に揃えた。
「焔鱗蜥蜴の鱗。相場は、一枚、金貨三枚。この帳簿の三年間の平均買い取り額は、一枚、金貨一枚と銀貨二枚。六割、安いです」
淡々と続ける。
「銀脈草は、相場の四割。月影茸は、三割五分。岩苔蜥蜴の肝は、半分以下。全部を平均すると、買い取り額は、相場の、およそ四割です」
レオンハルトの顔から血の気が引いた。
「……四割」
「差額は、三年間で、金貨にして、およそ一万八千枚です」
部屋が静まり返った。
金貨一万八千枚。それは、先代の時代の大公領の運営費の何年分にも当たる額だった。それが三年のあいだ、帳簿の上で静かに消えていた。
「それと」
リディアは帳簿の端を、指でとんと叩いた。
「採取方法の特許料の項目が、ありません」
「特許……」
「先代の大公様と奥様が実践されていた採取方法は、私の特許です。素材の買い取り額に特許料を上乗せして、買い手が私に払う決まりでした。でも、この三年間の分は、一度も届いていません」
オットーが静かに頷いた。
「帳簿の上では、上乗せの記載すらございませんでした」
「つまり」
リディアは言った。
「素材代を買い叩いたうえに、特許料まで払っていない。私の分も、およそ四千枚、抜けています」
淡々とした声だった。怒りは少しも混じっていない。ただ、数字を並べているだけだ。その淡々さが、レオンハルトには何よりも堪えたらしい。彼は机に両手をついたまま、しばらく動かなかった。
「……私が、相場を、知らなかった」
絞り出すような声だった。
「素材の価値を、確かめなかった。家令に任せて、商人の言う値をそのまま受け入れていた」
「はい」
リディアは否定しなかった。
「それが、一番の原因です」
レオンハルトは目を閉じた。それから、ゆっくりと開いて、まっすぐリディアを見た。
「どうすれば、いい」
問いは短かった。言い訳も泣き言もない。
リディアは少しだけ驚いた。近くにあった紙を一枚引き寄せ、鉛筆を取る。
そして、書き始めた。
魔物素材の名前。ひとつ書いては、その横に相場。またひとつ。またひとつ。鉛筆の動きは止まらない。四十、五十、八十。紙が一枚埋まれば、次の紙へ。
半刻ほどで、七枚の紙がびっしりと埋まった。
「相場表です。大公領で採れる素材だけ、世界の相場を並べました。まず、これを覚えてください」
紙の束を、レオンハルトの前に押し出す。
「相場を知らない人は、買い叩かれます。知っている人は、買い叩けません。単純な理屈です」
「……なぜ、これを」
レオンハルトの目が、紙とリディアの顔を行き来した。
「君は、離婚するのでは」
「はい」
リディアは頷いた。
「返済を受け取るために、必要だからです。大公領が潰れたら、お金は返ってきません」
ぶっきらぼうな理由だった。けれど、レオンハルトはその紙の束を、両手で大切そうに受け取った。
「……ありがとう」
「まだ、早いです」
リディアは椅子から降りながら言った。
「相場を覚えて、使えるようになってから、言ってください」
*
ガルシア商会の会頭が大公邸を訪れたのは、それから三日後のことだった。
肥満気味の体を豪奢な上着に押し込み、口髭を丁寧に撫でつけた男。十の指のすべてに、大振りの指輪をはめている。ガルシア。この三年、大公領の魔物素材のほぼすべてを買い叩いてきた商人だった。
通された応接室は、断罪の日と同じ部屋だった。
長いテーブルの向こうに、レオンハルトが座っている。その隣にオットー。部屋の隅の椅子には、リディアがちょこんと座っていた。護衛たちが壁際に控えているが、ガルシアの目には入っていないようだった。
「いやあ、大公爵様。このたびはとんだ災難で。ご家令様方がお辞めになったと伺いまして」
ガルシアは腰を低く折り、にこにこと笑った。
「新しい家令様が決まるまで、わたくしどもでお手伝いできることがあればと、参上した次第です」
「ご心配、痛み入る」
レオンハルトは静かに答えた。
「今季の素材の件だが」
「ええ、ええ。今季もよい品が揃っていると伺っております。つきましては、買い取り価格でございますが――」
ガルシアは書類を一枚、すっと差し出した。
「焔鱗蜥蜴の鱗、一枚、銀貨三枚でいかがでしょう。ご存知の通り、素材の買い手は少なく、大公領の品を安定してお引き受けできるのは、わたくしどもだけでして」
銀貨三枚。相場の十分の一。リディアの相場表では、一枚、金貨三枚だ。
リディアは椅子の上で、足を少しだけぶらぶらさせた。
レオンハルトは書類を見なかった。代わりに、静かに一枚の紙をテーブルの上に置いた。リディアの書いた相場表の、一枚目だった。
「焔鱗蜥蜴の鱗の相場は、金貨三枚と聞いている」
ガルシアの口髭がぴくりと動いた。
「き、金貨? どなたが、そのような」
「確かな筋だ。銀脈草は一束、金貨一枚。月影茸は金貨二枚。これまでの買い取り額とは、大きく違う」
レオンハルトはひとつずつ、相場表を読み上げた。声はまだ少し固い。けれど、数字はひとつも間違えなかった。
ガルシアは額の汗を、ハンカチで拭った。
「それは、帝都のごく一部の高級店での話でして。大公領は辺境。運搬費や保管費が」
「運搬費は、帳簿に別項目で計上されている」
ガルシアの目が泳いだ。
「で、では、危険手当が」
「それも、別項目だ」
ガルシアは声の調子を、ころりと変えた。
「大公爵様。失礼ながら、お若い。商売というものは、そう単純では」
「では、他を当たる」
レオンハルトは静かに告げた。
「相場で買ってくれる商会を探す。見つからなければ、今季の素材は売らない」
「ほ、他には、おりませんよ」
ガルシアは嗤った。
「大公領の素材を扱える商会など。わたくしどもが手を引けば、誰も」
「いえ。います」
リディアが口を開いた。
全員の視線が、部屋の隅に集まる。少女は足をぶらぶらさせたまま、のんびりと続けた。
「世界中に、います。ヴェルナー商会。相場で買います。特許料も、きちんと上乗せして」
「ヴェルナー……商会」
ガルシアの顔から笑みが消えた。
「まさか。伯爵家の」
「はい。リディア・ヴェルナーです。大公爵夫人です」
リディアは小首を傾げた。
「三年分の、買い取り額の差額と、特許料。後日、請求書をお届けします。お支払いが難しい場合は、ご相談ください。帝国の法廷でも、構いません」
ガルシアの口がぱくぱくと動いた。何かを言おうとして、言葉にならない。赤かった顔が、みるみる土色になっていく。
レオンハルトがその隙に、静かに続けた。
「今後の取引は、すべて相場で行う。特許料も含めて。受け入れられないなら、取引は終了だ」
「……は、はい。も、もちろん」
ガルシアは這うように立ち上がった。ずらりとはめられた指輪が、テーブルに当たってかちゃかちゃと音を立てる。
「で、では、今日は、これで。改めてご挨拶に」
彼はほとんど逃げるように、応接室を出ていった。
*
扉が閉まると、部屋の中に沈黙が落ちた。
最初に口を開いたのは、ミーシャだった。
「……あのおっさん、汗の量、すげえな」
「ミーシャ」
ヒルダが小声で窘めた。
レオンハルトは長く息を吐いた。それから、ゆっくりとリディアのほうを振り向いた。
「……助かった」
「交渉は、あなたがしていました」
リディアは椅子から降りながら言った。
「私は、最後に、少し口を挟んだだけです」
「それでも」
「相場表を、見ないで、読み上げていました」
リディアはふと、レオンハルトを見上げた。
「三日で、覚えたのですか」
「……徹夜で」
彼は少しばつが悪そうに言った。
「間違えないように」
リディアは小さく頷いた。頭の中の帳面を開き、「態度:保留」の下に一行、書き足す。
――相場表、覚えた。
それだけだった。評価ではない。ただの記録だ。けれど、この一行は、レオンハルトが努力で手に入れたものだった。
廊下に出ると、ノワールが影から現れた。
「お嬢様。ガルシア商会と元執事長マティアスの関係について、調査が終わりました」
「うん」
「毎月、小さな封筒が動いていました。金額は、金貨にして二十枚ほど。それ以外に大きな繋がりはありません。背後に、他国や他家の動きもありません。伯爵家の情報網も、同じ結論です」
ノワールは淡々と続けた。
「陰謀ではありません。ただの強欲な商人と、小遣い欲しさの家臣です」
リディアは少し黙った。
「……つまんない」
「はい?」
「何でもない」
彼女は歩き出した。護衛たちが静かに後に続く。
窓の外は、冬の気配の薄い青空だった。




