第9話 頑張る大公
猶予期間の最初の週が、静かに過ぎていった。
リディアの朝は、変わらない。床で目を覚まし、ヒルダに顔を拭かれ、卵粥を口に押し込まれて、森へ向かう。ただ、ひとつだけ変わったことがあった。
毎朝、扉の下に小さな紙が差し込まれているのだ。
前夜の収支をまとめた帳簿の写し。整った字で数字が並び、その脇に、赤いインクで昨日の誤りと訂正が記されている。誰かに頼まれたわけではない。大公爵が毎朝、自分で書いて持ってくるのだ。
リディアはそれに、朝食の合間に目を通した。返済を受け取る立場として、確認する権利がある。それだけの理由だった。
一週目。誤り、四十七か所。
二週目。二十一か所。
三週目。九か所。
頭の中の帳面に、数字を並べていく。間違いが減っている。しかも、同じ種類の間違いは二度と繰り返されていない。一度指摘された誤りを、次の日には正確に直している。
「……ふうん」
ヒルダが茶を注ぎながら、そっと尋ねた。
「お嬢様。何か」
「間違い、減ってる」
ヒルダの手が止まった。
「大公爵様の、ですか」
「うん」
リディアは紙を畳みながら頷いた。
「同じところ、二回、間違えない。覚えるの、早い」
失われた信用を取り戻すのは、難しい。この一年、レオンハルトが選んできた行動は、リディアが知る中でも最低の部類だった。
でも、頑張っていることだけは、受け止める。それくらいの度量は、リディアにもあった。
小さく笑みを浮かべたヒルダは、茶碗をそっとリディアの前に置いた。
*
四週目には、解雇された使用人たちの再雇用のための面接が始まった。
面接は応接室で行われる。伯爵家から派遣された教育係が質問を投げ、答えを記録していく。その席の端に、ひとり、黒髪の青年が座っていた。
レオンハルトだった。
誰かに頼まれたわけではない。彼が自分で、そこに座ると決めたのだ。
リディアはその様子を、廊下から、薄く開いた扉の隙間越しに見ていた。ノワールの報告で知っていたことだ。確かめたくなって、ついて来た。
順番に、使用人たちが入っていく。レオンハルトは全員の名前を、紙も見ずに呼んだ。ひとり、ひとり。
「アンナ」
入ってきたのは、あの若い侍女だった。大公爵邸に到着した翌日の朝。リディアに冷めた食事を運んできた、指先の震えていた娘。
彼女はうつむいたまま、深く頭を下げた。肩が細かく震えている。
「お、奥様に、申し訳のないことを、いたしました。冷たい食事を、お出しして。……侍女長様に、言われた通りにすればいいと、思って」
涙声だった。
「命じられたのだな」
レオンハルトが静かに言った。
「はい」
「その命じた者を止められなかった責任は、私にある。……顔を上げてくれ」
アンナはおそるおそる、顔を上げた。
「君に、問いたい。あの日、おかしいと思ったとき、話せる相手はいたか」
アンナは唇を噛んだ。しばらく答えられなかった。やがて、小さな声で言った。
「……いませんでした。侍女長様の下には、先輩方しか。皆、同じようにしておりましたので。家令様や執事長様には、お声をかけることもできません」
「話せる場所が、なかったのだな」
「はい」
レオンハルトは目を閉じた。
「それは、君の落ち度ではない。話せる場所を作るのは、使用人の仕事ではなく雇う者の仕事だ」
一語ずつ確かめるように、彼は続けた。
「これからは、違う。誰に命じられても、おかしいと思ったら、私か伯爵家から来る教育係に、直接、話してほしい。そういう道を必ず作る。それでも話さなかったときは、君にも責任を問う。それでいいか」
「……はい。ありがとうございます」
廊下の隙間で、リディアはそっと目を伏せた。
あの日、玄関の石段に整列していた使用人たちは、ほとんどが同じ顔をしていた。上に立つ者が全員、同じ方向を向いていたのだ。その下で、アンナひとりに声を上げろというのは、酷だ。必要なのは、誰かひとりを変えることではなく、話せる場所を作ること。彼はそのことを、見ている。
頭の中の帳面に、一行、書き足した。使用人の再教育:自ら立ち会う。話せる場所を作る、と約束。
努力、継続中。
*
五週目の朝、扉の下に差し込まれたのは、いつもの帳簿の写しではなかった。
厚みのある書類の束だった。表紙には、整った字で題が書かれている。『大公領における魔物素材の取引規則(案)』。
リディアは、朝食の卵粥を口に運びながら、それを開いた。
頁をめくる速さは、いつもと変わらない。一条ずつ読み、一条ずつ頭の棚に収めていく。
第一条。魔物から得た素材は、討伐した者の所有とする。大公家の騎士が討伐したものは、大公家の所有とする。
第二条。採取方法に特許がある場合、買い手は、買い取り額に特許料を上乗せして、特許を持つ者へ支払う。
第三条。前二条は、領主の一族に連なる者にも、例外なく適用する。
第四条。領主は、リディア・ヴェルナーの知識を、対価なしに求めてはならない。助言を受けるときは、正当な報酬を支払う。
最後の頁には、レオンハルトとオットーの署名と、領主の印が押されていた。
リディアは、穴を探した。穴は、なかった。
討伐者のもの。特許料は上乗せ。どちらも、最初から払われて当然のものだった。それが、ようやく書面になっただけのこと。第四条も、守られていて当然の、最低限の線だ。
数日後、廊下で顔を合わせた大公に、リディアはその書類を示した。
「この、第四条」
「ああ」
レオンハルトは頷いた。
「あなたの知識に、私は助けられている。それを当然のものにしてはいけない。決まりにしておけば、私が忘れても、領が忘れない」
淡々とした答えだった。善意に縋る甘えも、期待も捨てた、覚悟を決めた者の響きだった。
「私の知識の対価、かなりお高いです」
「あ、ああ……」
想定外の返事だったのか、レオンハルトの目がわずかに見開かれ、頷いた。リディアはそれには反応せず、話を進めた。
「……契約として、穴がないです」
リディアはそう答えた。
それ以上の感想は、なかった。当然のことが、当然のこととして書かれただけだ。
でも、努力は認める。マイナスだった信用を、ゼロに戻すための努力。
その夜、頭の中の帳面に、一行を書き足した。規則の整備:完了。
信用の欄は、動かない。実際には、まだ何も実践されていないから、減ったままだ。
でも、音を上げずに頑張っていることだけは、評価してもいい。点数に変動はなし。
*
六週目の夜。
その日、リディアは森から戻ると、夕食もそこそこに、北向きの小さな部屋の床に仰向けになっていた。
部屋は暗かった。日が落ちたことに、気づいていない。暖炉には火が入っている。新しい侍女長が着任してから、薪は足りるようになった。今朝、大公爵が自ら手配させた分だと聞いた。ありがたいことだ。ありがたいけれど、起き上がって灯りをつけるほどの気力は湧かなかった。
天井の染みがぼんやりと見える。暑くも寒くもない。だから、動かなくていい。
「お嬢様」
扉の外で、ヒルダの声がした。
「大公爵様がいらしています」
「うん」
リディアは天井を見たまま答えた。
扉が開いた。
暗がりの中に、背の高い影が立つ。黒い髪。深い青の瞳。レオンハルトは手に、小さな燭台を持っていた。
彼は部屋に一歩入って、そのまま動きを止めた。
床の上に、大の字で転がっている少女。暗闇の中。ひとりで。
「お嬢様は、これが普通でございます」
ヒルダが静かに補足した。
「研究のあいだは、照明も温度も勝手に整えてしまわれるのですが。そうでないときは、暗くても寒くても、そのままで」
「……そう、なのか」
掠れた声だった。
レオンハルトは燭台を机の上に置いた。ぼんやりとした灯りが、部屋に広がる。リディアはまぶしそうに目を細めた。
「つけなくて、いい」
「暗い」
レオンハルトは短く答えた。
「気にならない」
リディアは天井を見たまま言った。
彼はしばらく、立っていた。それから、何も言わず、寝台のほうへ歩いていった。一度も使われた形跡のない寝台。きちんと畳まれたままの毛布。
彼はその毛布を、両腕に抱えた。
そして、床の上のリディアの隣に膝をついた。
ふわり、と毛布が体にかけられた。
リディアは目を瞬いた。
「……いらない」
「いる」
レオンハルトは短く言った。短いのに、静かで、有無を言わせない声だった。
リディアは少し考えた。毛布の重みが、確かに温かい。暑くも寒くもない。けれど、ある、というのは、悪くなかった。
「……ありがとう」
小さな声だった。ほとんど独り言だった。
レオンハルトの目が、ほんのわずかに見開かれた。
彼は少しのあいだ、迷うように黙っていた。それから、手にした帳簿の写しを開いて、背筋を正した。
「明後日、ガルシアが来る。今季の焔鱗蜥蜴の鱗は、相場表のとおり、金貨三枚で通すつもりだ。報告は、それだけだ」
「……鱗、だけ?」
リディアは天井を見たまま、ぽつりと言った。
「ほかに、何か」
「脂」
その一言で、部屋の空気が変わった。
リディアはむくりと起き上がった。毛布が肩から滑り落ちる。眼鏡を指で押し上げた。琥珀色の瞳が、ほんの少しだけ輝いて見えた。
レオンハルトは立ち上がりかけた姿勢のまま、動きを止めた。それから、黙って座り直した。
彼女は床にぺたんと座ったまま、勢いよく話し始めた。魔物の話になったことで、止まらなくなったのだ。
「焔鱗蜥蜴はね、鱗の脂が、炎を弾くんです。でも、膝の裏だけ、脂の層が薄くて、洗い流すと、そこから炎が通ります。この脂も素材になるんです。耐熱の塗り薬の原料に」
早口だった。息継ぎも、ほとんどしない。
レオンハルトは慌てて、懐から小さな手帳を取り出した。鉛筆を握る手が、必死に動く。
「それから、岩苔蜥蜴の肝は、傷つけると、薬効が半分に。だから、取り出すときは、背中側から、こう。ひと息で。……あ、これは、風の糸でやるんですけど」
「風の……糸?」
「生活魔法です。刃物は、嫌いなので」
リディアはきっぱりと言った。
レオンハルトの鉛筆が一瞬、止まった。それから、また動き出した。
半刻。一刻。リディアの話は止まらなかった。ヒルダは扉の脇で、静かに新しい茶を淹れ直した。ミーシャとノワールは廊下で顔を見合わせて、肩をすくめている。
やがて、リディアはふと、気づいた。
鉛筆の音が、止んでいる。
見れば、レオンハルトは椅子の背にもたれたまま、眠っていた。手帳が膝から滑り落ちかけている。頬には、鉛筆の黒い線がうっすらとついていた。
「……寝た」
リディアは小声で呟いた。
「三、四時間しか寝てない人が、寝た」
ヒルダがそっと自分の上着を脱いで、レオンハルトの肩にかけた。
リディアは床に落ちた毛布を拾い上げた。少し考えて、それを持ち上げ、レオンハルトの膝のあたりにそっと広げた。
「……毛布、あげる」
誰にも聞こえない声だった。
「ありがとう、の分」
頭の中の帳面に、書き足す。毛布:あり。魔物の話を聞く態度:良好。居眠り:減点なし。
最後の一行で、口元がほんの少しだけ緩んだ。
*
数日後の夜明け前。
黒のゲートの前の祠に、ひとりの青年が立っていた。
レオンハルトは手にした白い花を、苔むした石の上にそっと置いた。毎月、屋敷の庭の隅で摘んでくる、白い星草。母が好きだった花だ。
騎士団の誰にも、話していない。見張りの交代の隙を縫って、前の晩に屋敷を発ち、夜通し森を抜けて、夜明け前にひとりで来る。毎月、父と母が出発した日に。五年あまり、一度も欠かしたことはなかった。
けれど、その間、彼はここで何も語れなかった。ただ、黙って花を置いて、帰るだけだった。
今朝は、違った。
「……父上。母上」
声は掠れていた。
「今月も、来ました」
黒いゲートが静かに、呼吸している。
「母上が、親しくされていた伯爵家の娘に、会いました。……いえ、一年前から同じ屋敷にいたのですが」
自嘲のような息が漏れた。
「十三歳で嫁いできた子でした。魔物の話になると、目を輝かせて、早口で止まらなくなって。魔物の話をするときの母上と父上に、そっくりでした」
朝の風が頬を撫でた。
「私は、あの子に、一年、何もしませんでした。……あの子は何も言わずに、記録をとっていました。私が何をしなかったか」
拳を握りしめる。
「父上。母上。私は、あの子に償いたい。それから、まだ、あなた方が生きていると信じたい」
返事はなかった。
けれど、ゲートの黒がほんの少し、揺れた気がした。
レオンハルトは深く一礼した。そして、屋敷へ向かって歩き出した。朝日が東の空から、少しずつ、森に差し込み始めていた。




