第10話 〔息抜き〕水の湧く皮と密室の護衛隊
猶予期間も七週目に入った朝、リディアはとても機嫌がよかった。
誰が見ても分かる、というほどではない。ヒルダだからこそ分かる程度に。朝食の卵粥を、いつもより一口多く食べたこと。眼鏡を拭く手つきが少し弾んでいること。
「お嬢様。本日はいかがなさいますか」
「ダンジョン」
即答だった。
「森は、見終わった。ゲートの中に、入る」
ヒルダは護衛隊の全員に目配せをした。ミーシャが口笛を吹き、ゼノンが穏やかに微笑み、アルベルトが静かに頷く。ノワールは無言で装備の点検を始めていた。呪い対策の石。携帯食。予備の水。そして、革鞄とポシェット。
一年と少し、待たされたのだ。この日を。
*
黒のゲートの向こうは、冷たい石の匂いがした。
第一層は、洞窟だった。壁面の鉱石が淡く光り、足元には湿った砂が溜まっている。魔物の気配は薄い。リディアは一歩ごとに立ち止まっては、壁を撫で、床の砂をつまみ、天井の鍾乳石を見上げた。そのたびに、声が上がる。
「これ」
「あ、これ」
「資料にあった」
護衛たちに指示が飛んだ。
「ゼノン殿、左上の鉱石を、削らずに、一片だけ」
「承知しました」
ゼノンは剣を抜かず、懐から小さな道具を取り出して、鉱石の継ぎ目に当てた。リディアが刃物を嫌うことを、彼は誰よりもよく知っている。
「ミーシャは、右の苔。根元から。引っ張らないで」
「へいへい」
ミーシャは肩をすくめながらも、驚くほど丁寧な手つきで、苔を一枚ずつ剥がした。
第二層も、同じ調子で進んだ。壁画のように並んだ化石。天井から垂れる光る蔦。足の多い虫の群れは、ノワールが影から出ることもなく、いつの間にか消えていた。
第三層に降りたとき、リディアの目がいっそう輝いた。
そこは、石造りの部屋が連なる、部屋型の階層だった。
長い廊下の左右に、いくつもの扉が並んでいる。扉には、それぞれ紋が刻まれていた。赤い紋は、閉めると魔物が湧く討伐部屋。青い紋は、魔物の出ない休憩部屋。リディアの資料には、そう記録されている。
選んだのは、青い紋の扉だった。その向こうは四角い小部屋で、出口は入ってきた扉ひとつ。壁は滑らかで、継ぎ目がほとんどない。部屋の奥に、小さな祭壇のようなものが見える。
「部屋型。青い紋は、休憩部屋。魔物は、出ない。資料では」
リディアが早口で説明した。ミーシャは廊下の先の赤い紋の扉を、名残惜しそうに眺めている。
「あれは、あと」
リディアが先に釘を刺した。
「念のため、扉は閉めて、安全確保を、きちんと。お茶も、ここでしましょう」
ヒルダは扉に閂を下ろした。ゼノンが部屋の隅々を確かめ、アルベルトが聖騎士の目で、魔物の気配を探る。
「安全確保、完了です」
「了解。では、休憩にしましょう」
アルベルトが荷を下ろすと、リディアが肩のポシェットを開けた。
取り出されたのは、十センチ四方の青い皮だった。
*
竜種の喉の一部。水属性の魔物が、アクアブレスを吐くときに使う、あの喉だ。リディアが結婚前に手に入れて、楽しそうに加工していた。水が湧き出る道具だ。水温の調整には細かい魔力の操作が必要で、リディアにしかできない。
ヒルダはそれを何度か見たことがあった。お茶を淹れるとき、お風呂の準備のとき。専用の容器に入れて、リディアが魔力を流すと、ちょうどいい温度の水がこんこんと出て、いっぱいになる。便利な道具だ。
「お茶、入れる」
「お嬢様、ありがたいのですが、先に専用の容器に」
ノワールが言い終える前に、皮の端から水が噴き出した。
勢いは、水道の蛇口を全開にしたのと同じだった。
ざあ、と音を立てて、石の床に水が広がっていく。
「……あ」
ミーシャが間の抜けた声を出した。
「密封、ですね」
ノワールが低い声で言った。
ヒルダはそこで初めて、気づいた。水が湧く条件は、密封だ。専用の『密封』容器に入れて、蓋をしたときに湧く。そして、この部屋は、閂を下ろした今、出口のない完全な密室だった。
「しまえ、しまえ!」
「ポシェットに!」
ヒルダは皮を掴んで、ポシェットに押し込もうとした。けれど、噴き出す水の勢いに押し返される。足首まで、水が来ていた。
「閂を開けろ!」
「開けたら、密封ではなくなります。扉が開けば、止まるのでは」
「それです、ゼノン殿!」
ゼノンが閂に手をかけた。
その瞬間、壁から白い影が滑り出た。
幽霊型の魔物だった。休憩部屋に魔物は出ない、と資料にはあった。それ以前に、壁を抜けるものに、閂は何の意味も持たない。
*
「……このタイミングで」
アルベルトが天を仰いだ。それから聖騎士の顔になり、胸の紋章に手を当てて、構えた。
幽霊型は、脅威ではない。解呪も浄化も、彼には簡単だ。けれど、足元は水浸しで、視界は水しぶきに覆われている。ヒルダは皮と格闘中。
「冷てえ! なんで水が冷たいんだよ!」
ミーシャが叫んでいる。ノワールは無言のまま、全員の荷物を頭上に持ち上げていた。
幽霊はふわふわと漂いながら、混乱する護衛たちの周りを、ぐるりと一周した。それから、困ったように動きを止めた。魔物のほうが、状況に戸惑っているようだった。
「安全確保、意味がなかったな」
ゼノンが穏やかに呟いた。ベテランでも読み切れないのが、ダンジョンだ。
その間、リディアは部屋の隅で黙っていた。
濡れた石の上にちょこんと立って、ずれた眼鏡越しに、混乱する護衛たちを眺めている。幽霊型の魔物を見て、水を見て、護衛隊を見る。その顔には、新しい観察対象を見つけた、研究者の満足感が浮かんでいた。
「お嬢様! 見ていないで!」
「うん」
リディアはとことこと歩いてきて、ヒルダの手から皮を受け取った。
そして、無造作に握った。
水の勢いがすっと弱まった。
蛇口を絞るように、湧き出る水は細くなり、やがて、ちょろちょろと流れるだけになった。
全員が固まった。
「……お嬢様」
ヒルダが絞り出すように言った。
「はい」
「今のは」
「魔力を通すと、水温だけじゃなくて、水量も調節できるんです」
沈黙が降りた。幽霊型の魔物も、動きを止めていた。
「それ、最初に言ってくれよ」
ミーシャが濡れた袖を絞りながら、ぼやいた。
「聞かれなかったので」
リディアは本気で不思議そうに、首を傾げた。
アルベルトが無言で、幽霊型の魔物を浄化した。幽霊は、どこか安堵したような顔で、すうっと消えていった。
*
扉が開けられ、床の水が階段のほうへゆっくりと流れ出ていく。湿った石の匂いの中、ヒルダは濡れた靴を脱ぎ、ミーシャはぐったりと壁にもたれ、ゼノンは遠い目で扉を眺めていた。ノワールが静かに手を挙げ、頭上の荷物をひとつずつ床に下ろす。
「お嬢様」
「はい」
「次からは、先に、言ってください」
「うん。気をつける」
リディアは真面目な顔で頷いた。それから、ふとメモ帳を取り出して、何かを書き込み始めた。
ヒルダが覗き込むと、そこにはこう書かれていた。
『水量の調節、魔力を送るとき握る強さで変化。休憩部屋に幽霊型、資料と相違。安全確保の意味、場合による。護衛の反応、大変よい』
「……お嬢様」
「データは、大事」
ヒルダは何も言い返せなかった。
「これは、訓練でしょうか」
アルベルトが小声で尋ねた。
「試練だな」
ゼノンが遠い目で答えた。
湯気の立つお茶が、全員に配られた。リディアは味の感想を何も言わず、ただ水の温度と魔力量の変化を、ひたすらメモしていた。
ヒルダは茶を一口飲みながら、ふとあの黒髪の青年のことを思った。もし、彼がこの場に居合わせたなら。きっと、あの小さな手帳を取り出して、必死に書き留めていたに違いない。「魔力を通すと、水量も調節できる」。慌てて。真剣な顔で。
その想像に、ヒルダは思わず、ふっと笑った。
「なんだよ」
ミーシャが水を絞った髪をかき上げながら、訝しげに言った。
「いいえ。何でも」
ヒルダはそう答えて、もう一口、茶を飲んだ。
ダンジョンの石の部屋に、穏やかな湯気が静かに広がっていた。




