第7話 断罪の日
皇帝が到着したのは、離婚届の通知からちょうど十日後の昼前だった。
その朝、リディアは珍しく、床の上で目を覚まさなかった。ヒルダに叩き起こされたわけではない。ただ、一晩中、記録の最終確認をしていたのだ。眠った記憶がない。机の上の水晶を数え終えると、窓の外が白んでいた。
「お嬢様。お召し替えを」
「うん」
ヒルダが手にしていたのは、紺色の簡素なドレスだった。伯爵家の末娘として恥ずかしくない程度の、けれど飾りの少ない一着。髪には、ミーシャが櫛を数十回通した。それでも寝癖は、いつも通り元の形に戻っていく。
「……これで、よしとしましょう」
ヒルダが静かに諦めた。
最後に、リディアは眼鏡を指で押し上げ、手袋を確かめた。肌色の薄い手袋の上に、レースの手袋。肌色のほうは、これから先も外さない。怪我を防ぐ付与があるからだ。
レースの手袋は――今日だけは、外すつもりだった。
部屋の隅の影から、ノワールが滑り出た。
「お嬢様。昨夜、大公爵様が廊下でお待ちになっていたそうです」
「待ってた」
「はい。お嬢様のお戻りを。けれど、家令殿が急ぎの用を持ち込んで、執務室へお連れしました」
ノワールは淡々と続けた。
「偶然かもしれません。偶然ではないかもしれません」
リディアは少しだけ考えた。
「……ふうん」
それだけだった。大公爵が待っていたかどうかは、今は問題ではない。問題は、一年のあいだ待たなかったことだ。
*
応接室は、予想より広かった。
高い天井。色褪せた絨毯。古い燭台。中央に据えられた長いテーブルの向こうに、すでに二人の人物が座っている。
真ん中に、ひときわ静かな存在感を放つ壮年の男。帝国の頂に立つ、皇帝その人だった。思っていたよりも穏やかな顔をしている。その隣で、銀混じりの栗色の髪を後ろに撫でつけた紳士が、リディアに小さく手を振った。父、ユリウス・ヴェルナー。いつもの商人の笑顔だ。
笑顔なのに、部屋の温度はすでに下がっている。
そして、向かいの席。
黒い髪の青年が立ち上がっていた。
艶のある漆黒の髪が、無造作に後ろへ流されている。深い青の瞳。整った顔立ちは、確かに「美しすぎる」と評されるだけのものだったが、目の下の隈が濃く、頬が少しこけていた。上質な黒の上着は、肩のあたりが余っている。痩せたのだ、とリディアは思った。体重にして三、四キロ。
それが、リディアが初めて間近で見る夫だった。
彼の青い瞳がリディアを捉えた。ほんの一瞬、言葉を探すような色が揺れる。窓の向こうの、あの日の少女。彼の目には、そう映っているのだろう。
リディアは丁寧に礼をした。
「リディア・ヴェルナーです。お目にかかるのは、初めてですね」
「……ああ。レオンハルト・アイゼンベルクだ」
声は掠れていた。
リディアは席に着く前に、両手を持ち上げた。
右のレースの手袋の指先をつまみ、静かに引き抜く。次に左。繊細な編み目が、白い蝶のように手から離れた。それをきちんと畳んで、テーブルの上に置く。
応接室がしんと静まった。
貴族が客の前で手袋を外す。武器を持たず、敵意もない、という意思表示。社交の場ではごく稀にしか行われない、古い作法だった。
リディアの手は小さかった。肌色の薄い手袋は、素手のように見える。
「今日は、争いに来たのではありません。事実を、並べに来ました」
レオンハルトは何かを言いかけて、声にならなかった。その視線が、少女の小さな手とテーブルの上のレースの手袋を、往復している。
皇帝がゆっくりと頷いた。
リディアは席に着いた。護衛たちは後ろの壁際に控えている。ヒルダ、ミーシャ、ノワール。侍女の姿勢のまま、誰ひとりとして隙を見せない。アルベルトとゼノンが、扉の両脇に立った。
扉が再び開いた。
家令のハインリヒ、執事長のマティアス、侍女長のベルタ。三人が顔を強張らせて入室してくる。彼らも呼ばれていたのだ。
*
「では、始めましょうか」
ユリウスが柔らかな声で言った。
「まず、前提から。リディアは大公爵夫人です」
ハインリヒが口を開きかけた。
「ご存知の通り、我が領は――」
「貧困している。存じています」
ユリウスの声はあくまで穏やかだった。
「その大公領を支援したのは、私です」
ハインリヒの口が閉じた。
ノワールが無言で一歩進み出て、小さな水晶をテーブルの中央に置いた。壁に光が走る。
映像が映った。
『どうぞ、大公爵様には関わらないでいただきたく存じます』『……お好きになさいませ。そちらはそちらで、好きに』
声は、ハインリヒのものだった。映像の中の彼は、慇懃な笑みを浮かべている。
次の映像。ベルタが廊下で小さくため息をついた。
『あれが、大公爵夫人? 笑わせないでちょうだい』
次。マティアスが赤ら顔で、侍女に囁く。『奥様はお気になさらないでしょう。どうせ、森で遊んでおられる』。
次。ロザリンドの甲高い声。『大公爵様とは、とても親しい仲ですのよ』『ええ、そうですわ! 毎週!』。
十数本の映像が、淡々と続いた。誰も口を開かなかった。
「最後に、ひとつだけ」
リディアが言った。
壁の映像が切り替わる。今度は映像ではなく、音だけだった。
『ご存知の通り、我が領は貧困しておりますので』
『ご存知の通り、我が領は貧困しておりますので』
『ご存知の通り、我が領は貧困しておりますので』
同じ言葉が、同じ抑揚で何度も何度も繰り返される。声の主は、家令。執事長。侍女長。若い侍女。幾十もの声が折り重なり、日付が右下に刻まれていく。
二十秒ほどで、音は止まった。
「全部で、二百三十一回です」
リディアは淡々と告げた。
「暖炉の薪が足りないとき。食事が冷めているとき。お風呂の用意がないとき。挨拶を無視されたとき。理由は、いつも、同じでした」
応接室の空気がひどく重くなった。
レオンハルトの顔は蒼白になっていた。青い瞳が、壁と使用人たちの顔の間を行き来している。
「……すべて、本当なのか」
絞り出すような声だった。
「はい。この水晶は、記録の魔道具で作ったものです。細工は、できません」
リディアは答えた。
ユリウスがゆっくりと、言葉を継いだ。
「使用人が客人に粗相をした場合、問われるのは、まず使用人の作法と節度です。そして、それを教育する責任は雇用主にある」
その視線がレオンハルトに向けられた。
「大公爵殿。あなたはこの結婚を、どうお考えでしたか」
「……支援を受けるための、政略結婚と」
「そのとおり。伯爵家の娘は二人。指定はありませんでした。思っていた相手と違ったからと、文句を言える立場ではなかったはずです。違いますか」
長い沈黙のあと、レオンハルトは低く答えた。
「……違いません」
「では、もうひとつ。あなたは到着の日、執務室の窓からリディアをご覧になった。家令から、北の棟の部屋へ通すと報告を受けた。そのとき、何とお答えになりましたか」
ユリウスの声は優しかった。優しいまま、逃げ道だけをきれいに塞いでいる。
レオンハルトの喉が動いた。
「……『任せる』と」
「それは、指示したのと同じ重さです。知っていて、何もなさらなかった。一年のあいだ」
レオンハルトは目を閉じた。それから、ゆっくりと頭を下げた。
応接室に息を呑む音が走った。ハインリヒの肩が、びくりと跳ねる。
「私は、妻に、一度も会いに行かなかった」
絞り出す声が微かに震えている。
「使用人に任せたのは、私だ。窓から見て、落胆して、そのまま執務室へ戻った。部屋の場所も聞いていた。それを止めなかった。……すまなかった」
深く、深く、頭が下げられた。
リディアはその頭頂部を、じっと見つめた。黒い髪の中に、白いものがいくつか混じっている。二十二歳の白髪。一年間の眠れない夜が、そこにあった。
不意に、リディアは口を開いた。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
レオンハルトが顔を上げた。
「ずっと、興味がありました。雇用主として、使用人の失礼な言動に、どう責任を取るのか。……教えてください」
それは、怒りでも皮肉でもなかった。観察する者の、まっすぐな問いだった。
レオンハルトはしばらく、言葉を探すように黙っていた。
「……返済を、する」
やがて彼は、一語ずつ確かめるように言った。
「支援の対価も、嫁入り道具の分も。慰謝料があるなら、それも。使用人の処罰は、伯爵殿の言う通りに。そして私自身も、領主として、やり直す」
声が少しだけ強くなった。
「言葉だけでは足りないのは、分かっている。だから、行動で示したい」
リディアは小さく頷いた。
「分かりました。見ています」
それだけだった。謝罪は受け取りました、とも、許します、とも言わない。ただ、見る。それが、彼女の返事だった。
*
「では、使用人の処遇ですが」
ユリウスが話を進めた。
「即刻、全員解雇。後に、再度働くことを希望する者には面接を行い、教育で改善の見込みがある者のみ、再雇用します。ただし、使用人をまとめる立場にあった者、大公爵夫人に関する仕事を放棄した者、大公家に関する事柄を口外した者は、紹介状なし」
「そ、そんな」
ベルタが震える声を上げた。
「私どもは、領のために、尽くしてまいりました。それを」
「領のために、大公爵夫人を軽んじたのですか」
ヒルダが侍女の姿勢のまま、静かに言った。ベルタは言葉を失った。
「ムチ打ちも、手首も足首も舌も、失わずに済んだことを、喜ぶべきです」
ミーシャが小声で付け加えた。次の瞬間、ヒルダの肘が、その脇腹に入った。
ユリウスは笑顔を崩さない。
「皇帝陛下が認めた大公爵夫人を、どう扱ってきたのか。思い出していただきたい」
皇帝が重々しく頷いた。リディアは心の中で数えた。今ので、三回目だった。
ユリウスは三人の顔を、順に見た。
「ハインリヒ殿は、フォルクマン伯爵家のご出身でしたね。マティアス殿は、ブラント伯爵家。ベルタ殿は、子爵家のご出身と伺っています」
三人の顔色がさっと変わった。
「ご実家には、事の次第を正式にお知らせします。紹介状がない、ということも含めて」
それは、貴族の使用人にとって、職を失う以上の意味を持つ通告だった。家名に傷がつく。縁談にも次の勤め先にも響く。
ベルタの唇が小刻みに震えた。
ユリウスは淡々と尋ねた。
「私からすれば、軽率な行動だ。しかし、言い分は違うようだ。それなら、聞かせてもらいたい。仮に支援が打ち切られたら、使用人という立場で、どう責任を取られるつもりだったのか。私たちが、納得できるほどの理由があったのなら、考慮しよう」
誰も答えなかった。ハインリヒは唇を動かしかけて、結局、何も言えなかった。ベルタは紙のように白い顔で俯き、マティアスの赤ら顔からは血の気が引いていた。
支援が打ち切られれば、領は再び困窮する。そのとき、領民の暮らしの責任を負えるのは使用人ではない。それを分かっていながら、彼らはこの一年を過ごしたのだ。
リディアはその沈黙を、頭の中の帳面に静かに書き留めた。「釈明:なし」。
「それから」
ユリウスが続けた。
「あなた方は、リディアをみすぼらしいと言い、持て余した娘だと言った。ひとつ、お教えしましょう」
彼の声がすっと低くなった。
「この子は、完全記憶を持っています。それも、五感のすべてに関しての。一度で、全てを覚えます。忘れることは、できません。見たものも、聞いた音も、嗅いだ匂いも、味も、触れた感触も。そういう、ギフトを持って生まれた子です」
応接室が静まり返った。
「魔物に関する知識で、この子に及ぶ者は世界のどこにもおりません。多くの国の中枢が、その知識を欲しがっている。私は娘の安全のため、このことを伏せておりました。各国の方々も、伯爵家を敵に回さぬよう、沈黙してくださった」
ユリウスはにっこりと笑った。
「その娘を、あなた方は一年、北の端の日の当たらない部屋に押し込めていた」
ことの重大さに気付き始めたハインリヒの顔が、土気色になった。
レオンハルトが呆然とリディアを見ていた。
「……五感の、すべてを」
「はい」
リディアは頷いた。
「経験したことは、全部、覚えています。この屋敷に来た日から、今日まで」
彼女は眼鏡のつるに指を当てた。
「あなたが、窓から、私を見ていた日のことも」
レオンハルトの顔から、一瞬で血の気が引いた。
リディアは責めるつもりで言ったのではなかった。ただ、事実を伝えただけだ。けれど、その事実は、どんな言葉よりも重く、彼に落ちた。
ユリウスがさらに続けた。
「先代大公夫妻は、この子の価値をよく分かっておられました。リディアと魔物の情報を交換し、親しくさせていただいていた」
「……父上と、母上が」
レオンハルトが掠れた声で呟いた。
「この子と、親しく」
「ええ。たいへん可愛がっていただきました」
リディアはそっと目を伏せた。
「先代の大公様と、奥様は、いつも、優しかったです」
応接室の空気が、わずかに和らいだ。リディアの声に、初めて温度が宿ったからだった。
レオンハルトは唇を固く結んだ。両親が、この少女と親しくしていた。両親が嫁にしたがっていた伯爵家の娘。――その二つが、頭の中でまだ繋がらない。
それが繋がるのは、遠くない先のことになる。
*
「それから、領地運営に関する不足部分の件ですが」
ユリウスが視線を向けると、皇帝が初めて口を開いた。
「私から手配しよう。数字に詳しく、領地運営にも明るい良き伴侶を、大公爵に見つけてやる」
ユリウスが頷いた。
「でしたら、家令、執事長、侍女長は、こちらで手配します。教育係も。せっかく支援して持ち直した大公領に、没落されては意味がありませんからね」
「対価は」
皇帝が重ねるように言った。
「魔物と、黒のゲート周辺の森の採取品の優先権。十年。取引価格は、適正価格で支払う」
「……適正、価格」
レオンハルトの視線が一瞬、泳いだ。買い叩きの件を、まだ知らない顔だった。
「そのあたりは、あとで、ゆっくり」
リディアはのんびりと言った。
「帳簿を、見てからで」
「それとは別に、慰謝料は、請求させていただきます」
ユリウスが当然だと、笑顔で付け加えた。笑顔のまま、温度がさらに二度、下がった。
家令たちは、もう何も言わなかった。
*
退室した廊下で、ヒルダが最初に口を開いた。
「お嬢様。あれでよろしかったのですか」
「うん」
リディアはレースの手袋を、もう一度、両手にはめながら答えた。繊細な編み目が、指に吸いつくように馴染む。
「手首も足首も、要らないし」
「そりゃ、確かに」
ミーシャが頷いた。
リディアは小さくあくびをした。
「あと、ご飯」
「はい?」
「お腹、すいた」
護衛隊は、一斉に動いた。ノワールが食堂へ。ミーシャが革鞄を探る。ヒルダが眼鏡のずれを直す。
「これは、試練ですな」
ゼノンが小さく呟いた。
リディアは足を止めて、一度だけ振り返った。
応接室の扉の向こうに、まだ席から動けずにいる黒髪の背中が見える。両手を握りしめ、こうべを垂れている。一年間、一度も見なかった人の背中だった。
彼女は頭の中の帳面に、新しい頁を開いた。「謝罪:あり。言い訳:なし」。それから、少し考えて、もう一行、書き足した。
「態度:保留」。
それだけだった。
廊下の窓から、午後の光が静かに差し込んでいた。




