第6話 離婚届
一年が経った日の朝、リディアは床の上ではなく、机の前にいた。
珍しいことだった。ヒルダは寝台の脇に用意していた毛布を持ったまま、少し驚いた顔で立っている。
「お嬢様。もうお目覚めでしたか」
「ううん。寝てない」
リディアは紙の束から目を上げずに答えた。机の上には、一年分の記録が整然と積まれている。
契約書の写し。支援物資の目録。嫁入り道具の内訳。冷遇の項目を日付ごとに並べた一覧表。そして、眼鏡の魔道具で記録した映像と音声の写し。写しを収めた小さな水晶が、三十七個。
決まり文句の回数も、数えてある。二百三十一回。
ひとつだけ、この山に入らないものがあった。先代大公夫妻からの、最後の手紙だ。毎月の初めに届いていた魔物のデータの写しが、あの秋だけは届かなかった。代わりに届いたのは、夫妻が黒のゲートに入ったまま戻らない、という知らせだった。
出発の朝に書かれたはずの一通が、どこでどうなったのか。リディアはその行方を、まだ知らない。
どれも、頭の中にはすべて入っている。けれど、頭の中の記憶は他人には見せられない。書面と証拠の形にしておくのが取引の礼儀だと、父に教わっていた。
リディアは最後の一枚に署名を書き終えた。
「できた」
インクが乾くのを待ちながら、大きく息を吐く。
貴族の離婚は、皇室への届出ののち、皇帝が当事者の前に臨んだ日から半年の猶予期間を置き、皇帝の承認をもって成立する。契約書にも、そう定めてあった。さらに第七条には、支援側が待遇に重大な瑕疵を認めたときは単独で届出ができる、とある。離婚届の書式は、リディアが自分で用意した。大公爵の署名欄は、空白のままだった。
父への手紙は、短かった。
『お父様へ。予定通り、離婚届を出します。証拠は、全部そろいました。皇帝陛下への連絡を、お願いします。あと、この森はほぼ調べ尽くしたので、次の黒のゲートを探したいです。リディア』
読み返して、小さく首を傾げる。
「……ちょっと、素っ気ない、かな」
「お嬢様のお手紙らしくて、よろしいかと」
ヒルダが微笑んだ。
手紙と離婚届は、ノワールが受け取った。伯爵家の連絡網を使えば、皇室へも伯爵の屋敷へも、数日で届く。ノワールは足音もなく、影の中へ消えていった。
窓の外は、冬の気配だった。リディアは机の上の記録の山を眺め、ふと呟いた。
「あとは、あれ。あれの、使い道。考えなきゃ」
誰にも聞こえない小さな声だった。
*
帝都から遠く離れた伯爵邸の、朝の食堂。
ユリウスは銀のナイフを持つ手を止めた。目の前に、一通の手紙が届いている。差出人は、末娘。彼はゆっくりと封を切り、短い文面に目を通した。
銀混じりの栗色の髪を後ろに撫でつけた、穏やかな紳士。その顔に、柔らかな笑みが広がっていく。
笑みはそのままに、食堂の温度が二度ほど下がった。
「お父様」
向かいの席で、長身の若い女が紅茶のカップを置いた。輝く栗色の髪を高いポニーテールにまとめ、琥珀色の切れ長の瞳には、すでに剣呑な光が宿っている。セレスティアだった。
「リディアから、ですね。……今、わたくしの勘が申しております。『斬りに行け』と」
「セレス。落ち着きなさい」
ユリウスは笑顔のまま、娘を見た。
「剣は、まだ仕舞っておきなさい。あの子は、黒のゲートを満喫するまで待ってほしいと、私に頼んだ。私はその頼みを、一年守った」
声が静かに低くなる。
「満喫したのだそうだ。ならば、次は、こちらの番だ」
セレスティアがふっと息を吐いて笑った。
「承知しました。では、準備だけ」
「ええ。まず、皇帝陛下へお手紙を。それから、書類。それから――」
ユリウスはにこやかに、紅茶を一口含んだ。
「大公爵殿に、お会いする日取りを」
*
帝都からの使者が大公邸に着いたのは、それから十日後のことだった。
レオンハルトは執務室の机の前で、使者から受け取った封書を開いた。皇帝の印章が、深い赤で押されている。
読み進めるうちに、彼の顔から色が失われていった。
『離婚届を受理した。届出人は、リディア・ヴェルナー。猶予期間は大公邸を訪問する日より半年とし、期間満了をもって、皇帝の承認の下に成立する。近日中に、伯爵と共に、大公邸を訪問する。貴殿は、必ず同席せよ』
「……離婚、届」
声に出すと、現実味がますます遠のいた。
妻。あの日、窓から見た小さな少女。それが、自分の妻について知っているすべてだった。一度も話していない。名前の響きさえ、まだ舌に馴染まない。それなのに、その妻から離婚の届けが出された。
「ハインリヒ」
呼ぶと、家令はすぐに現れた。
「は。お呼びでしょうか」
「これを、知っていたか」
差し出された書状に、ハインリヒは目を走らせた。細い銀縁眼鏡の奥の表情は変わらない。
「奥様がお一人で、勝手に進めておられるのでしょう。お気になさる必要はございません。ご存知の通り、我が領は貧困しておりますので、奥様もお寂しいのでしょう」
答えになっていない、とレオンハルトは思った。
寂しい、という言葉が胸に引っかかった。この一年、妻はあの北の端の小さな部屋で、どんな顔をしていたのか。自分は何も知らない。
同時に、初めて疑念が浮かんだ。
この一年、自分は一度も妻のことを尋ねなかった。家令に任せた。それで済んでいると、思っていた。
「……会って、話す」
「大公爵様」
「皇帝陛下がおいでになる前に。一度、顔を見ておく」
言い切ってから、レオンハルトは立ち上がった。けれど、ハインリヒは慇懃に頭を下げた。
「奥様は森へ出ておいででございます。お戻りは夜かと。それに、陛下がお見えになるまで十日ほど。お仕事が山積みでございます」
机の上の書類の山が、視界に入った。
今日中に目を通すべき報告。期限の迫った取引。返答を待つ書簡。いつもの日常。
レオンハルトは立ったまま、手を握ったり開いたりした。それから、無言で椅子に座り直した。
それが、二度目の過ちだった。
窓の外では、北の棟の最上階の窓に、ごく淡い光が灯っていた。あそこが妻の部屋だ。到着の日に、家令から聞いた。分かっていて、一年、一度も足を向けなかった。
彼はその光を、しばらく見つめていた。
*
その夜、北向きの小さな部屋では、リディアが床の上で丸くなって眠っていた。
半年のカウントが始まる日は、静かに近づいていた。




