第5話 噂と自称愛人、記録は忘れない
季節が、ひとつ、またひとつと巡っていった。
リディアの朝は、変わらない。床で目を覚まし、ヒルダに顔を拭かれ、卵粥を口に押し込まれて、森へ向かう。黒のゲートの周囲の森は、半年が過ぎても足を踏み入れていない場所が、まだ数多く残っていた。深く、広い森だった。
地図は、頭の中で毎日、細かくなっていく。木の一本ごとの位置。薬草の群生地。魔物の巣と、その縄張りの境界。大公家の騎士団が何十年かけても作れなかった精度の図が、リディアの中だけに存在していた。
もちろん、それを誰かに見せるつもりはない。見せる相手がいなかったからだ。
もうひとつ、数えているものがあった。
決まり文句。「ご存知の通り、我が領は貧困しておりますので」。
到着から半年が過ぎるころには、その数は百を超えた。暖炉の薪が足りないとき。食事が冷めているとき。湯の用意がないとき。廊下で使用人とすれ違い、挨拶を無視されたとき。どんな場面でも、彼らは一字一句違わず、その言葉を口にした。
リディアは毎回、頭の中の帳面に、線を一本ずつ足した。
*
噂が耳に届くようになったのは、そのころだ。
最初に運んできたのは、ノワールだった。
夜、北向きの小さな部屋で、彼女は影のように立っていた。
「お嬢様。お耳に入れておいたほうがよろしいかと」
「うん。聞く」
「領内で、お嬢様に関する噂がいくつか流れています。『伯爵家が、持て余した娘を押しつけた』『支援の見返りに差し出された、お飾りの嫁』『眼鏡で、姉に似ず醜い顔を隠している』」
淡々とした報告だった。感情は一片も混じっていない。リディアは茶を飲みながら聞いていた。
「出所は」
「三か所に絞れます。侍女長ベルタと、その取り巻きの侍女たち。執事長マティアスが懇意にしている商人。それから――」
ノワールはわずかに言葉を切った。
「大公爵様の愛人を名乗る、令嬢たちです。中心のロザリンド嬢は、侍女長ベルタの姪にあたります」
リディアは茶碗をゆっくりと置いた。
「愛人」
意味は、知っている。妻以外に持つ、親しい女性。ふと、あの窓の向こうにいる人のことが頭をよぎった。顔は、まだ見ていない。会ったこともない相手に、愛人がいるかどうかなど、知る由もなかった。
「ノワール。本当に、いるの」
「調べました。自称です」
ノワールはきっぱりと言った。
「大公爵様は、領地の仕事に埋もれて、日に三、四時間しか眠っておられません。女性と会う暇はありません。令嬢たちは、領内の式典で挨拶を交わした程度の関係を、勝手に膨らませているだけです」
リディアは頷いた。
愛人の噂は、嘘。使用人の噂も令嬢の虚言も、いずれあとで必要になる。気にする必要はない。必要なのは、集めることだ。
「記録、取っておいて」
「すでに」
*
令嬢たちが実際に屋敷へ現れたのは、それから三日後のことだった。
その日、リディアは昼過ぎに森から戻った。護衛を従えて玄関の石段を上ろうとしたとき、広間のほうから甲高い笑い声が聞こえた。
広間には、三人の令嬢が立っていた。
中央の女の髪は、豪奢な金の巻き髪だった。翠の瞳。派手な薔薇色のドレスに、胸元の宝石が眩しく光る。取り巻きの二人も、似たような華やかな装いで、扇を口元に当てていた。リディアの姿を見るなり、三人はそろって眉をひそめた。
泥のついた靴。森の草の匂い。寝癖の戻った髪。それなのに、レースの手袋だけが不自然なほど清潔で、編み目のひとつひとつが白く澄んでいる。
「まあ」
中央の女が扇をぱちりと閉じた。
「あなたが、噂の奥様? ……想像以上でしたわ」
「はじめまして。リディア・ヴェルナーです」
リディアは淡々と礼をした。
「わたくしは、ロザリンド・ヴァイスと申しますの。大公爵様とは、とても親しい仲ですのよ」
ロザリンドは扇を揺らしながら、リディアの足元から頭の先までを、ゆっくりと眺めた。
「あなたには、お分かりにならないでしょうけれど。大公爵様は、あなたの存在にお困りですの。伯爵家の娘と聞いていたのに、こんな、小さくて、みすぼらしい」
「確かに。みすぼらしくは、あります」
リディアはあっさりと頷いた。
ロザリンドの口がぽかんと開いた。反論されることを、想定していなかったのだろう。用意していた言葉の続きが、行き場を失った顔だった。
「で、でも、お分かりでしょう? 大公爵様は、あなたのところには一度もお見えにならない。けれど、わたくしのところには――」
「毎週、お見えになるのですか」
リディアは小首を傾げた。
「ええ、そうですわ! 毎週!」
ロザリンドは胸を張った。
リディアは眼鏡のつるを指先でそっと押さえた。レンズの奥で、小さな光が瞬く。
「そうですか。では、日付を、教えてください。いつ、どこで、お会いになったのか」
「な、何を」
「大公爵様は、一日の大半を執務室で過ごされています。毎週、屋敷の外へ出られるのなら、使用人の記録に残っているはずです。確認します」
取り巻きの令嬢のひとりが、さっと目を逸らした。
その瞬間だった。
もうひとりの令嬢が、手にしていたグラスをすっと持ち上げた。水が弧を描いて、リディアに向かって飛んでくる。
ミーシャが動いた。
侍女服の袖が翻り、金の短髪がきらりと光る。水の弧がリディアの顔に届く直前に、ミーシャの掌がグラスの中身をすべて受け止めた。飛沫ひとつ、リディアの髪に触れなかった。
「……おっと」
ミーシャは濡れた掌を、ぶらぶらと振った。
「奥様の前で、お行儀が悪いぜ。お嬢さん」
令嬢は顔面蒼白で、グラスを取り落とした。甲高い音が広間に響く。
リディアは割れたグラスをちらりと見た。それから、令嬢の顔をじっと見た。
「いま、記録しました」
静かな声だった。
「大公爵夫人に、水をかけようとした。三人。ロザリンド・ヴァイス嬢と、そのお友達。広間。昼過ぎ。映像と音声つきで」
「え……」
ロザリンドの顔から、血の気が引いていく。
「ご心配なく。使うべき時が来るまで、使いません」
リディアはそれだけ告げて、石段のほうへ歩き出した。
三人の令嬢は呆然と立ち尽くしていた。去り際に、ロザリンドが震える声で叫んだ。
「お、覚えてらっしゃい!」
「うん。覚えてる」
リディアは振り返らずに答えた。
「全部」
廊下に出ると、ミーシャが腹を抱えて笑い出した。
「『覚えてる。全部』だって! 最高だぜ、お嬢!」
「ミーシャ。声が大きい」
ヒルダが小声で窘めた。
「だってよ。あの顔、見たか? 見たよな?」
リディアは、笑わなかった。ただ、頭の中の帳面に、新しい頁を開いていた。自称愛人、三名。水をかける暴行未遂。ほかの使用人の関与は、確認中。
*
廊下の窓の外では、中庭の木々が色づき始めていた。
季節が、ひと巡りしようとしている。冷たい風が、ガラスを小さく鳴らした。
リディアがこの屋敷に来て、もうすぐ一年になる。
その間に、森はほぼ調べ尽くした。決まり文句は、数えて二百を超えた。使用人の暴言も令嬢の虚言も、冷えた部屋の記録も、十分に溜まった。
そして、大公爵本人とは、一度も顔を合わせていない。
それでも、不思議と寂しくはなかった。護衛たちがいて、森があって、好きな魔物の研究ができる。それで十分だった。
ただ、ひとつだけ、胸の奥に小さな棘のようなものが残っていた。
先代大公夫妻の笑顔。あの二人が、この屋敷にはいない。
リディアは窓ガラスに映った自分の顔を、じっと見た。
「……そろそろ、かな」
小さな声だった。ヒルダが足を止めて振り返った。
「お嬢様。何か」
「ううん。離婚の、準備、はじめよう」
窓の外で、一枚の葉がくるりと舞い落ちた。




