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第4話 〔回想〕頬袋と護衛隊の長い一日

 その夜、ヒルダは寝台ではなく床で丸くなっている主に、毛布をかけ直していた。

 リディアは肩のポシェットを抱え込むようにして眠っている。薄く開いた唇から、寝言が漏れた。「……ふわっと……」。意味は、聞かなくても分かる。あの日の指示だ。

 ヒルダは小さく息を吐いて、笑った。

 あれは、この屋敷に来るずっと前のこと。海の向こうの国の、黒のゲートでの話だった。

  *

 岩壁に囲まれた深層の広間は、薄青い鉱石の光に満ちていた。天井は高く、足元には細かな砂が積もり、踏みしめるたびにさらさらと鳴る。空気は乾き、遠くで水の滴る音がした。

 その中央に、それはいた。

 山のような灰色の体毛の塊が、ゆっくりと上下している。丸い背中。短い手足。顔の両側が不自然なほどに膨らんでいた。頬袋だ。ひとつが、大きな樽ほどもある。見た目の大きさはそれだけだが、中には際限なく入る、と資料にはあった。巨大な鼠にも似た魔物は、まだ眠っているらしい。

 ヒルダは剣の柄に手を添えたまま、後方を振り返った。

 岩陰に、小柄な影がしゃがみ込んでいる。ボサボサの髪、大きな眼鏡、レースの手袋。リディアは目を輝かせて、巨大な魔物の頬を見つめていた。

「お嬢様。もう一度、確認させてください」

 ヒルダは声を潜めた。

「今回の目的は」

「頬袋。二つ。傷なし」

 リディアは迷いなく答えた。

「それと、右の牙の付け根。背中の斑の毛。尾の先。左目の水晶体。爪は、全部。あ、舌も。胆のうは、絶対に、傷つけないで」

 ヒルダは目を閉じた。

 岩陰の端で、ミーシャが小声で呟いた。

「全部、って言ったか? 今」

「言ったな」

 ゼノンが穏やかに頷いた。

「ひとつも失いたくない、のだそうです」

 ノワールが淡々と付け加えた。

 ヒルダは観念して、剣の柄から手を離した。

 目的の魔物は希少種だ。頬袋は、無限収納と時間停止の効果を持つ。採取の方法を間違えなければ、これ以上ない素材になる。ほかの部位も、いずれも手に入りにくいものばかりで、リディアはそのひとつも失いたくないのだ。

 つまり、護衛たちの仕事は、巨大な魔物をほとんど傷つけずに倒すこと。

「これは、訓練です」

 アルベルトが自分に言い聞かせるように言った。

「試練だな」

 ゼノンが静かに頷いた。

 誰も反論しなかった。

  *

 討伐は三時間に及んだ。

 魔物は、目を覚ますと思いのほか俊敏だった。丸い体を転がして壁に叩きつけ、砕けた岩壁の破片が雨のように降る。ゼノンが白髪を揺らして軽やかに躱し、アルベルトが神聖魔法の障壁で破片を弾いた。ミーシャが金の短髪を跳ねさせて、足元を駆け抜ける。ノワールの姿は、いつの間にか天井の影に溶けていた。

 その間も、リディアの声が岩陰から途切れなく飛んでくる。

「右前脚、膝の裏。そこ。……もう少し、すっと」

 ゼノンが魔物の爪をかわしながら、静かに聞き返した。

「すっ、とは……」

「すっ。ぬるっとしてるところ。あ、違う。もっと、ふわっと」

 老剣士は十秒ほど、黙って考えた。唇だけが、小さく同じ言葉をなぞっている。ふわっと。その間に、魔物の爪が二度、頬を掠めた。それから不意に、一歩踏み込んだ。

 刃が膝の裏のどこかを、ほんのかすかに撫でた。

 巨体が静かに膝から崩れ落ちた。

「それです」

 リディアが満足げに頷いた。

 護衛たちは顔を見合わせた。今の一撃を、あとで全員が言葉にしなければならない。それが、今回の報酬、貴重な情報の対価だからだ。

 解体は、さらに二時間かかった。

 リディアが魔物の亡骸の前に膝をつく。手袋の指先に、淡い光が宿った。刃物は一本も使わない。風を糸のように細く束ね、肉と皮の継ぎ目へゆっくりと差し込んでいく。切り口は、布を解くように滑らかに開いた。

 ヒルダはその手元を見つめながら、あとで説明する言葉を頭の中で並べていた。護衛にも再現でき、きちんと説明できる方法だけが、特許になる。リディアの感覚的な言葉を、自分たちが翻訳する。それが彼らの役目だ。

 やがて、二つの頬袋が傷ひとつなく、広間の床に並んだ。

「やった」

 リディアが小さくそう言った。

 次の瞬間だった。

 彼女は何の躊躇もなく、頬袋の口へ片腕を突っ込んだ。

「お嬢様ッ!?」

 全員が同時に叫んだ。アルベルトは呪い対策の装備を確かめ、ノワールは毒の可能性を数え、ヒルダは少女の襟首を掴みに走った。

 当の本人は、袋の中をがさごそと探りながら、不思議そうに首を傾げた。

「あ。出てきた」

 ずるり、と引き出されたのは、巨大な魔物の脚の一部だった。次に牙。鱗。乾いた薬草の束。鈍く光る鉱石。

「おやつ、かな」

 リディアが呟く間にも、中身はずるずると出てくる。出てくる。出てくる。

 広間の床に、小さな山ができた。山が丘になった。丘が、護衛たちの膝の高さを越えた。取り出された瞬間に、本来の重さが戻るのだろう。どさり、どさりと、地響きのような音を立てて、素材が積み上がっていく。

「……これが、無限収納か」

 ゼノンが静かに呟いた。

「これだけの量が、ひとつの袋に入っていたのですか」

 驚き呆れた声で、アルベルトが言った。

「長い年月、拾い集めて、溜め込んでいたのだと思います」

 肩をすくめ、ノワールが答えた。

 すべて取り出し終えると、リディアは床に座り込み、ひとつずつ手に取って選別を始めた。

「これは、使える。これは、要らない。これは、保留。これは、すごい。この鉱石、あの魔物の胃石かな。なら、効能が」

「お嬢様。説明は帰ってから」

 ヒルダがそっと遮った。

「でも、この草は」

 リディアは手にした緑の葉を、名残惜しそうに握り締めた。

「帰ってから」

 選別した素材を、リディアは再び袋の中へ戻していった。それをもう一度、繰り返した。二回。護衛たちは広間の床に並んで座り、無言で待った。誰かが干し肉を齧り出したが、全員が見ないふりをした。

 リディアが顔を上げたとき、護衛たちは半分、魂が抜けていた。

  *

 屋敷に戻ると、リディアは頬袋のひとつを加工して、ポシェットと小さな革鞄を作った。

 作業は一晩で終わった。刃物は使わない。魔力を通した手袋の指で、頬袋を少しずつ、形のあるものへと変えていく。仕上がった二つの品を、リディアはひとつずつ、そっと抱きしめた。

「できた」

 淡々とした声なのに、眼鏡の奥の目はきらきらしていた。

 もうひとつの頬袋は、丁寧に布で包まれ、棚の奥へしまわれた。

「大事に取っておくの。とても、貴重だから」

 彼女が部屋を出ていくと、護衛隊は無言で顔を見合わせた。最初に口を開いたのは、ミーシャだった。

「……なあ。あれ、買ったほうが断然安かったよな」

「アイテムバッグは、高価ですが」

 ノワールが、同意するように小さく頷いた。

「あの労力と時間を考えれば」

 ミーシャが無言で頭の後ろで手を組み、天井を仰いだ。

「空間魔法の使い手に頼めば、もっと楽に作れましたよ」

 ヒルダは、そう付け加えた。空間魔法を使える者が少ないのは、承知の上だ。それでも、魔物討伐の苦労と天秤にかければ、どちらが楽かは明白だった。

「お嬢様は、生活魔法しか使えませんから」

 アルベルトが少しだけ優しい声で言った。

 ゼノンがゆっくりと頷いた。

「だが、あれほど嬉しそうな顔を見られたのだ。まあ、いいか」

 誰も反論しなかった。

  *

 ――そして、現在。

 ヒルダは毛布の端を、リディアの肩にそっと整えた。ポシェットは、あの日と同じように少女の腕の中にある。時間が止まり、重さのない鞄。かつて、巨大な魔物の頬に収まっていた袋。

 今日も、買ったほうが安いとは、誰も口にしなかった。

 窓の外で星が静かに瞬いている。




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