第3話 大公領の黒のゲート
翌朝のリディアは、驚くほど早く目を覚ました。
眠りは足りていた。足りていないのは森だった。床の上で目を開け、天井の染みを一度見て、次の瞬間には起き上がっている。
「お嬢様。顔を洗ってからです」
ヒルダが濡らした布を手に待ち構えていた。
「……うん」
顔を拭かれ、髪に櫛を通される。通した端から寝癖が元の形に戻っていく。乾いたパンと温かいスープを口に押し込まれながら、リディアは頭の中で森の地図を広げていた。窓から見えた木々の高さ。街道の分岐。屋敷から北へ、馬で半日。
屋敷を出るとき、見送りの者はひとりもいなかった。
馬は五頭。リディアはアルベルトの前に横向きに座らされ、揺られながらすでに半分眠っていた。
「森に入ったら、起こしてください」
それだけ言い残して、リディアは目を閉じた。
けれど、それほど長くは眠れなかった。街道を外れ、木々が濃くなるにつれて空気が変わっていく。湿った土の匂いの奥に、微かな金属の匂いが混じり始めた。魔力の匂い、と呼んでもいい。
リディアはぱちりと目を開けた。
森が、深い。
幹は太く、枝は低く垂れ、足元には苔が絨毯のように広がっている。葉の縁が淡く光を帯びた銀色の薬草。倒木の陰で、青い斑の茸が静かに身を寄せ合っている。どれも、帝都の近郊では見ることができない種類だ。毎回思うが、通常の植物より強い生命の匂いがする。効能が高い証拠だ。
「お嬢様。あれは後でです」
背後からヒルダの声が飛んでくる。
「まだ、何も言ってない」
「手が伸びております」
見れば、アルベルトの腕の中からリディアの手が、勝手に銀色の薬草へ向かって伸びていた。
しばらく進むと、道の脇に小さな詰所が見えた。大公家の騎士たちが数名、そこに立っている。年若い見習いが二人と、片腕に古傷のある中年の騎士。ベテランの多くを失った騎士団に、残された顔ぶれだった。
「ここから先は魔物の領域です。立入りには、大公爵様の許可が必要でして」
中年の騎士が馬の前へ進み出た。
「ありません」
リディアはあっさりと答えた。
「リディア・ヴェルナーです。大公爵夫人として、森へ入ります」
騎士は眼鏡の少女を見下ろして、ぽかんと口を開けた。一昨日、屋敷の前で領民たちが落胆の声を上げていたのを、彼も聞いていたのかもしれない。
「……奥様、で」
「うん。通っていい?」
しばしの沈黙が落ちた。騎士の視線が、少女の後ろの一行へ移る。聖騎士。老剣士。侍女服を着た三人の女。どの立ち姿にも隙がなかった。年若い見習いのひとりが、ごくりと唾を飲む。
「……お気をつけて。何かあれば、すぐ笛を」
騎士は一歩下がって道を空けた。声に、迷いと、ほんのわずかな敬意が混じっていた。リディアはその変化を帳面には書き留めなかった。ただ、覚えておくべき顔として頭の隅に置いた。
*
やがて、木々の幹が黒ずんだ。
森の中心に近づくほどに、樹皮は石のように硬くなり、枝は地面近くまで垂れ、昼でも闇が溜まっている。空気がひやりと肌を撫でた。冷たいのではない。「向こう」の気配を孕んでいる。
そして、森の中心に、たどり着いた。
太い木々に抱かれるように、黒い口があった。
黒のゲート。
幅は、大人が三人並んで立てるほど。二本の太い根が門柱のように左右から絡み合い、その間の空間がただ黒い。光が吸い込まれて、輪郭がつかめない。風もないのに、黒の縁が呼吸するように微かに揺れていた。
リディアはアルベルトの手を借りて馬を降り、その前に立った。
息を吸う。吐く。
頭の奥で、幾つもの資料の頁が一斉にめくれた。世界各地の黒のゲート。階層の違い。出現する魔物の分布。ここは先代夫妻から贈られた資料の中で、何度も目にしてきた場所だ。紙の上の線と目の前の景色が、ぴたりと重なっていく。そして、資料にはなかった細部が、新しい頁として積み上がる。足元の苔。根の形。魔力の渦の向き。目に映るすべてが、記憶の棚へ収まっていく。
隣でヒルダがためらいがちに口を開いた。
「お嬢様。お顔が、その……またゆるんでおります」
「うれしい」
飾らない、短い言葉だった。
ミーシャが横で肩をすくめる。
「何度見ても、ゲートの前だけ別人だな。泣きそうな顔で喜びやがる」
ゲートのすぐ手前に、小さな石積みの祠があった。苔むした石の上に、白い花が一輪供えられている。しおれてはいない。ここ数日のうちに、誰かが置いたものだ。
リディアはその花をじっと見つめた。
供えたのは、騎士団の誰かか。それとも――。
それ以上は、考えなかった。考えるには、材料が足りない。
代わりに、彼女は小さな瓶を取り出した。透明な液体が木漏れ日を受けて淡く揺れている。怪我防止のポーション。一口含み、喉を鳴らして飲み込むと、体の周りに薄い膜のようなものが張られる感覚があった。
これを手に入れてから、リディアは森に入ることが怖くなくなった。痛みを二度と味わいたくない。あの日の痛みの感触は、五感のすべてを覚えている彼女の中で、一度も薄れてくれないのだから。その一心で作った、世界でいちばん高価で、いちばん個人的なポーションだ。
護衛たちの胸元や袖口では、小さな石のアクセサリーがほのかに光っている。呪い対策の装備だ。全員がそれを確かめるように指先で触れた。
「今日は入りませんよね」
ノワールが念を押すように言った。
「うん。ゲートは、見るだけ。まずは、森」
*
「あ」
リディアの足が止まった。
森の奥、大木の根元に、巨大な蜥蜴が丸まって眠っていた。体長は馬の三倍ほど。背中に赤銅色の鱗がびっしりと並び、その隙間から、陽炎のような熱が立ち昇っている。
「焔鱗蜥蜴」
彼女は息を弾ませた。
「炎の耐性が高い魔物。鱗は、加工すると耐熱の素材になる。傷がつくと価値が半分になる。……ほしい」
ゼノンが穏やかに尋ねた。
「お嬢様。今回はいかがなさいますか」
「炎だけで。傷は、最小限で」
護衛たちは無言で目を見合わせた。
炎に耐性を持つ魔物に、炎属性のみで挑む。しかも傷は最小限。いつもの無茶振りだった。
「これは、訓練ですね」
アルベルトが穏やかな声で言った。胸元の呪い対策の石が、木漏れ日を受けてかすかに光っている。
「試練だな」
ゼノンが白髪を揺らして頷いた。
「開き直りましたね」
ノワールが表情を変えないまま、言い添えた。
リディアは岩陰にしゃがみ込み、眠る蜥蜴をじっと観察した。鱗の一枚ごとの縁。呼吸のたびに上下する腹。尾の先が、わずかに左へ傾いている。そこまで見て、顔を上げた。
「ヒルダ。右の後脚の、膝の裏。炎は、青くして。温度は、三割上げて。当てる角度は、右に十度」
「……承知しました」
ヒルダは小さく息を吐いて、炎の準備に入った。
「ミーシャは、左前脚に注意を引いて。叩かない。見せるだけ」
「見せるだけぇ? まあ、やるけどよ」
細かすぎる指示に、護衛隊は慣れた様子で位置についた。
蜥蜴が目を覚ましたのは、ミーシャが左前脚の前で手を振った、その瞬間だった。巨体がぐわりと身を起こし、赤銅の鱗が一斉に熱を放つ。ヒルダの炎が、青く膝裏へ吸い込まれた。
――効かない。
鱗の表面を覆う薄い脂の膜が、炎を弾いていた。蜥蜴が咆哮し、尾を振り回す。
「お嬢様! お下がりください!」
ヒルダが叫んだ。リディアは下がらなかった。
代わりに一歩、前へ出た。蜥蜴の尾が空を切る軌道を、頭の中で計算する。膝の裏の鱗は、三度、同じ周期で熱を逃がしている。その合間に。
手袋の指先がふわりと動いた。
洗浄。ごくありふれた生活魔法だ。汚れを落とすための、小さな水と風の魔法。それを、膝裏の鱗の手のひらほどの範囲にだけ、ごく薄く、鋭く集めた。
鱗の脂が剥がれ落ちた。
そこへ、もう一度、ヒルダの青い炎が届いた。
今度は、効いた。
蜥蜴は声もなく体を痙攣させ、そのまま横倒しになった。血の一滴も流れなかった。
静寂が落ちた。
「……お嬢様。今のは」
ヒルダが剣を構えたまま、呆然と呟いた。
「洗浄」
「それ、もう生活魔法の範疇、爆超えしてんだろ」
ミーシャが頭を抱えた。
リディアは倒れた蜥蜴に近づき、鱗の一枚を指先でそっと撫でた。傷はない。完璧だ。
「解体、するね」
ゼノンが腰の剣に手をかけた。鞘から抜かれた刃が、木漏れ日を受けて白く光る。その光が、リディアの目の奥に鋭く刺さった。
「……しまって」
声がほんの少しだけ固くなった。
「失礼いたしました」
ゼノンは何も言わずに剣を鞘へ戻した。老剣士は、そういうことに一度も理由を尋ねない。
リディアは手袋の指をすっと動かした。刃は使わない。風を糸のように細く束ね、鱗の継ぎ目にゆっくりと差し込んでいく。切り口が、まるで布を解くように滑らかに広がった。脂と鱗と肝と舌と、牙の根元。傷を負わせずに、ひとつずつあるべき形で取り分けていく。レースの手袋は、脂にも体液にも汚れなかった。新品の状態を保つ付与が、貴族令嬢の嗜みとして施されている。作業の邪魔にはならない。
護衛たちは、静かに見守っていた。この作業を、あとで言葉に変換し、説明できるようにしなければならない。それが、彼らへの報酬だからだ。
*
夕暮れの色が森の隙間から差し込む頃、リディアはようやく手を止めた。
素材はすべて、肩のポシェットと革鞄へ収められた。鱗。脂。肝。牙。舌。帰り道に摘んだ銀色の薬草と青い斑の茸も。重さは、どれも感じない。
その夜は、ゲートから少し離れた岩陰で野営した。翌日、日が傾く頃になってようやく屋敷へ戻ると、門の前には誰もいなかった。
玄関の石段にも、出迎えの使用人はいない。リディアは気にしなかった。黙って石段を上り、歩数を数え、北向きの小さな部屋へ戻った。
椅子に座り、深く息を吐く。
今日の戦果。焔鱗蜥蜴の素材一式。討伐者は自分たち。魔物の素材は討伐者のもの。大公家の騎士ではない。だから本来なら、これはすべてリディアのものだ。けれど、自分はもう大公家の一員になった。収益は、領地に還元すべきなのかもしれない。
頭の中の帳面に、新しい項目を静かに書き込む。明日の朝、確認しよう。素材の扱いを、きちんと。
「お嬢様。お疲れさまでございました」
ヒルダが温かい茶を差し出した。
「うん。たのしかった」
「明日も、ですか」
「うん。ずっと」
窓の外は、もう暗かった。
リディアは茶を一口飲んで、図面の隅に書き込んだ小さな黒い点を、指先でそっとなぞった。
*
翌朝。リディアは手書きの書状を一枚、ヒルダに託した。
宛先は大公爵。内容は短い。昨日の森での討伐と、そこで得た素材について。これらを自分のものとして扱ってよいのか、それとも領地に還元するべきなのか。ご意向を伺いたい、と。
実のところ、答えは半分決まっていた。必要なら、収益の一部を領のために回すつもりだった。大公家の一員になったのだ。そのくらいの筋は通したい。ただ、勝手に決めるより、聞いてからのほうが後が楽だ。
「お嬢様。直接、ご持参なさいますか」
「ううん。書状で、お願い。返事は、口頭でも、書面でも」
「承知しました」
ヒルダが出ていって、およそ半刻。
扉が、乱暴ではないがどこか不機嫌に叩かれた。
入ってきたのは三人だった。家令のハインリヒ、執事長のマティアス、侍女長のベルタ。三人そろっての訪問は初めてだった。先頭のハインリヒの指に、リディアの書状が挟まれている。
「奥様。お手紙を、拝見いたしました」
「ありがとうございます。大公爵様は、ご覧になりましたか」
「その必要は、ございません」
ハインリヒは細い銀縁眼鏡を指先で押し上げた。
「大公爵様は、領地のことで手一杯でございます。奥様のお振る舞いにまで、お心を割く余裕はございません。どうぞ、大公爵様には関わらないでいただきたく存じます」
淡々とした声だった。慇懃な言葉の下に、はっきりとした拒絶が透けている。
「では、森で得た素材とその収益は、私が自分のものとして扱ってもよろしいのですね」
リディアは一語ずつ、区切るように尋ねた。
ハインリヒは一瞬だけ、侍女長と執事長に視線を送った。
「……お好きになさいませ。そちらはそちらで、好きに」
ベルタが小さなため息をついた。
「ご存知の通り、我が領は貧困しておりますので。奥様のなさることに、口を挟む余力もございません」
リディアは眼鏡のつるを指先で押さえた。レンズの奥で、小さな光が静かに瞬いている。
「確認します。大公爵様には関わらず、森の素材と収益は、私が好きにしてよい。間違いありませんね」
「二言は、ございません」
ハインリヒが慇懃に頭を下げた。
三人が部屋を出ていく。扉が閉まり、足音が廊下の奥へ消えていった。
しばらくして、ミーシャが天井を仰いだ。
「……言質、取ったな」
「完璧に」
ノワールが、短く答えた。
「映像も音声も、記録済みです」
ヒルダが静かに眼鏡を指さした。
リディアは小さく頷いた。
本当に確認したかった相手は、この三人ではなかった。収益のうち、どれだけを領地のために回すのか。それを決めるのは、領主である大公爵のはずだ。けれど、書状は大公爵に見せられることなく、家令の手で止められた。大公爵に尋ねる道は、三人の言葉で閉ざされてしまった。
ならば、仕方がない。
彼女は書状を畳んで、机の隅に置いた。
「好きにしていい、って。じゃあ、好きにする」
窓の外は今日もよく晴れていた。森が呼んでいる気がした。




