第2話 北向きの部屋と、間取り図
翌朝、リディアが目を覚ましたのは、寝台の上ではなく床の上だった。
冷えた石の床に大の字になって、天井の染みを眺めている。昨夜、寝る前に調合の手順を思い返していたら、いつの間にか寝台まで歩くのが面倒になったのだ。部屋は寒く体も冷えていたが、それをどうにかしようという気は起きなかった。寒い、という記録が一行増えただけだ。
リディアにとって、これはありふれた朝だった。周りも慣れている。
「お嬢様。おはようございます」
ヒルダの声がして、毛布が肩にかけられた。いつの間にか入ってきたミーシャが、温石を床の隅に並べている。じんわりとした温かさが冷えた部屋に広がっていく。
「……おはよう」
「お風呂のご用意が整っております」
革鞄から取り出された折り畳み式の浴槽が、部屋の中央に据えられていた。この屋敷からは湯は届かない。分かっていたことなので、驚きはなかった。
朝食は扉を叩く音と共に届いた。
盆を持った若い侍女が、うつむいたまま入ってくる。盆の上には薄い粥と固いパン、冷めきった茶。侍女の指先が小さく震えていた。
「ご存知の通り、我が領は貧困しておりますので」
決まり文句のように言って、侍女は逃げるように出ていった。目が泳いでいた、とリディアは思う。言われた通りに言っているだけの顔だった。
二回目。リディアは頭の中の帳面に線を引いた。
ヒルダが盆を見下ろし、無言で下げる。数分後、革鞄から出された湯気の立つ卵粥が彼女の前に置かれた。
食べ終わる頃、部屋の隅の影がすっと形を取った。
黒のボブに長い前髪。暗い紫の瞳。ノワールは足音も扉の音もなく、そこに立っていた。侍女服が、恐ろしいほどよく似合っている。
「ただいま戻りました、お嬢様」
「おかえり。どうだった」
「屋敷の中の人の動きは、一通り把握しました。大公爵様は一日の大半を執務室で過ごされています。食事もそこで」
リディアは匙を止めた。
「眠るのは」
「三、四時間かと。使用人たちの間では、『お忙しい』『お疲れ』という言葉ばかりが飛び交っています。ただ――」
ノワールはわずかに言葉を切った。
「お嬢様の到着を、大公爵様は執務室の窓からご覧になっていました。家令殿がお嬢様を北の棟のお部屋へお通しすると報告した際も、『任せる』とだけ答えられたそうです」
「……ふうん」
リディアは匙を椀に戻した。見ていたのなら、知っている。部屋の場所も聞いている。知っていて、来ない。余裕がないのかもしれないし、期待外れだったのかもしれない。どちらにしても、それを確かめに来ないのは別の話だった。
*
朝食と入浴を終え、リディアは部屋を出た。
案内は来なかった。本来なら到着の翌日までに、家令が屋敷を案内するのが礼儀だ。だから、自分で歩く。護衛をぞろぞろと連れて歩く大公爵夫人の姿に、廊下の使用人たちが慌てて目を逸らした。
歩幅は一定。リディアは数える。廊下の長さ、扉の間隔、窓の数。見た景色は何でも覚えているが、図面にするには数字に変換する作業が要る。一歩ごとに、足の下の石の継ぎ目を数えた。
背後にはアルベルトとゼノンが続く。ヒルダは書類鞄を提げて並び、ミーシャは廊下の窓の外を眺めている。
「ここ、見張りがいねえな? 不用心だろ」
ミーシャの呟きに、ヒルダが無言で脇腹を突いた。
三階。北の端が自分の部屋。南の端には、陽当たりのいい客室が四つ並んでいた。
扉をひとつ開けてみる。窓から明るい光が差し込んでいた。掃除は行き届き、寝台のリネンも清潔だ。大公爵夫人を泊めるのに、これ以上の部屋はない。
それなのに、案内されたのは北の端の小さな部屋だった。
リディアは頭の中の帳面に、そっと書き足した。貧困は、客室の掃除と寝台のリネンには影響していない。
二階へ降りると、廊下の途中にひとりの男が立っていた。
恰幅のいい体に赤ら顔。執事長のマティアスだ。腰を折り、低姿勢のまま笑みを浮かべている。目だけがまったく笑っていなかった。
「奥様。こちらは大公爵様の私室がございます区画でして。お通しするわけにはまいりません」
「理由を、聞いてもいい」
「ご存知の通り、我が領は貧困しておりますので。大公爵様はお仕事にかかりきりでございます」
理由になっていない。リディアは三回目を記録した。それから頷いた。
「分かりました」
男が安堵の息をつくのが分かった。
それで十分だった。扉の向こうを覗けなくても、屋敷の外観と、通された応接室や廊下の長さがあれば、中の広さは計算できる。庭に出てアルベルトの隣で、窓の数をひとつずつ数えた。一階。二階。三階。南側の窓の間隔。北側の窓の間隔。
二階の南側に窓が三つ。そのうち二つは、昼間なのにカーテンが引かれたままだった。
あれが、レオンハルトの執務室と、私室だろう。
彼女は手袋の指で空に線を引くように、頭の中の図面を動かした。
*
夜になっても、北向きの小さな部屋は暗いままだった。
日が落ちたことに、リディアは気づいていなかった。床に座り、窓の外の星を眺めていた。やがて机に向かって鉛筆を握った瞬間、手元だけがちょうどいい明るさにふわりと照らされる。本人はそれにも気づいていない。研究や作業のときだけ、生活魔法は勝手に働くのだ。
肌色の薄い魔道具の手袋は、実用のためのもの。手の怪我を防ぐ付与。手の浄化。温度や湿度への耐性。滑り止め。魔力の通り。中はあきれるほど快適な空間だが、それよりも怪我の防止がある限り、リディアが外すことは決してない。その上に重ねたレースは、貴族令嬢の嗜みとして、新品のまま保つ付与があるだけの、見た目のための手袋だ。魔力の通りのいい指先は、細かな線を迷いなく引いた。一階の広間、食堂、応接室。二階の廊下と閉ざされた区画。三階の南側の客室。そして、北の端の自分の部屋。
数字を書き込み、書き加え、最後に小さく印をつけた。
客室四つ。使用中、ゼロ。
「完成、ですか」
ヒルダが肩越しに覗き込んだ。
「うん。たぶん、これで合ってる」
「廊下の歩数まで、記載があります……」
「合ってないと、証拠にならないから」
証拠。その言葉に、ヒルダは小さく頷いた。
リディアは鉛筆を置いて、図面を眺めた。大公爵の部屋は二階の南側。自分の部屋は三階の北の端。本館と棟をいくつもまたいで、歩数にして二百歩を超える。ほとんど屋敷の端から端、対角線に近い配置だった。
けれど、妻に顔を見せに来られないほどの距離では決してない。それなのに、一度も顔を合わせていない。
一日目は使用人の暴言。二日目は使用人の遮断。そして、大公爵本人からの言葉は、まだ一言もなかった。
いつ来るか、と数えるのはやめた。来ないものを待つ時間がもったいない。
ヒルダが静かに部屋の灯りをともした。
「お嬢様。お休みの時間です」
「うん」
返事だけして、リディアは机から動かなかった。窓の外では星がいっそう明るくなっている。
「明日は」
「森」
「承知しました」
その短いやり取りだけで、護衛隊は全員、明日の準備に取りかかった。
リディアは図面の隅に、小さく黒のゲートの位置を書き込んだ。屋敷の北の森の奥、馬で半日ほどの場所。
早く、行きたい。
冷えた部屋の中で、鉛筆の先がほんの少しだけ弾んだ。




