第1話 嫁いできたのは眼鏡の少女
馬車の窓の外を、森が流れていく。
リディア・ヴェルナーは、座席の隅で膝を抱えるようにして、その景色を眺めていた。幹の太い常緑樹。枝に絡んだ蔦。苔むした岩の陰に群れる小さな白い花。どれも帝都の近郊では見かけない種類だ。葉の裏の色、茎の太さ、花弁の枚数。ひとつ残らず、頭の中の棚へ収めていく。彼女の頭は、一度見たものを決して忘れなかった。見たものだけではない。聞いた音も、嗅いだ匂いも、舌に残った味も、肌に触れた感触も。五感のすべてをそっくりそのまま覚えている。創造主が気紛れに人へ贈るという、ギフトのひとつだった。
窓ガラスに、大きな眼鏡をかけた自分の顔がぼんやりと映っている。ボサボサの栗色の髪。琥珀色の瞳。十三歳にしては小柄で、手袋の中の指も細い。見た目を気にしたことは、一度もなかった。気にする時間があれば、薬草の配合表を一枚読める。
「お嬢様。間もなく、大公邸が見えてまいります」
向かいの席で、ヒルダが穏やかに告げた。濃紺の侍女の礼装に身を包んでいても、背筋の伸びた姿は軍人のものだ。赤銅色の髪を後ろで一つに結び、翠の瞳が窓の外を静かに探っている。
「うん」
リディアは窓から目を離さずに頷いた。
「眼鏡の記録は、お続けになりますか」
「うん。全部」
眼鏡の縁に仕込んだ魔道具が、森の植生や街道の轍の深さ、すれ違った荷馬車の積荷を、静かに映像として刻んでいた。魔物の目で作った道具だ。コツさえあれば、材料は森の中にいくらでもいる。
後ろには馬車が十二台続いている。前の六台は、伯爵家が用意した本来の支援品。後ろの六台は、リディアが自分の財布で用意した品だった。魔物の調査も素材の採集も錬金も、およそ大公爵夫人らしくないことばかりやる予定なのだ。咎められても、やめるつもりはない。ならば迷惑料の手土産くらいは持っていくのが礼儀だと、彼女は思っていた。
それに、大公領には黒のゲートがある。
考えただけで、胸の奥がふわりと浮いた。
やがて、森が開けた。
灰色の石で組まれた大きな屋敷が見えてくる。三層の本館に両翼の棟。屋根の傾きは古い様式で、石壁の継ぎ目は丁寧に積まれていた。三年前までは、手入れの行き届いた立派な邸宅だったのだろう。今は雨樋に錆が浮き、いくつかの窓が曇ったままになっている。
門の外には領民たちが集まっていた。ざわめきが車輪の音に混じって届く。どの顔も、期待に輝いて見えた。
馬車が止まり、扉が開いた。白金の短髪の聖騎士が手を差し伸べる。アルベルトの澄んだ青の瞳が、いつもより少しだけ硬い。リディアはその手を借りて、泥の残る地面に降りた。
その瞬間、ざわめきが波のように引いた。
「え……?」
「あれが、伯爵家の?」
「剣で有名な、あの方ではないのか」
囁きがあちこちから聞こえた。リディアの頭の上を、誰かを探すような視線がいくつも通り過ぎていく。探しているのは、自分ではない誰かだった。
「……お姉様のお噂は、こちらまで届いていたようですね」
隣に降りたヒルダが、唇をほとんど動かさずに言った。
ああ、そういうことか、とリディアは思った。姉は美人で剣が強く、大公爵と年も近い。姉が嫁いでくると思い込むのは無理もない。気にはならなかった。気にするだけ、記憶の容量がもったいない。
それよりも、玄関の石段に整列した使用人たちの顔を、一人ずつ見ていく。先頭に立つのは、白髪を撫でつけた老人。細い銀縁眼鏡の奥から、値踏みするような目が降りてくる。その隣に、恰幅のいい赤ら顔の男と、灰色の髪をきつく結い上げた痩せた女。事前に目を通した名簿の顔と、ぴたりと一致した。家令のハインリヒ。執事長のマティアス。侍女長のベルタ。
三人とも頭の下げ方が浅かった。
「ようこそおいでくださいました、リディア様」
ハインリヒが慇懃な声で言った。
「お世話になります。リディア・ヴェルナーです」
リディアはスカートの裾をつまんで礼をした。作法は完璧だった。それを見ていた者が何人いたかは分からない。
「大公爵様は、あいにく執務中でして」
「ご挨拶は、いつ頃にできますか」
「ご存知の通り、我が領は貧困しておりますので」
答えになっていない。リディアは頭の中の帳面に一行書き加えた。一回目。
背後で小さなため息が聞こえた。侍女長のベルタだ。
「あのお姿で、大公爵夫人とは」
「支援のついでに、押しつけられたのではないか」
わざと届く声量の囁きだった。ヒルダの視線の端が、すっと冷える。ミーシャは侍女服の裾の下で、足を一歩前に出しかけていた。ゼノンがほんのわずかに首を振る。アルベルトは穏やかな顔のまま、目だけをまったく笑わせていなかった。
リディアは聞こえなかったふりをした。実際、半分は聞いていなかった。玄関の石段の数を数えていたからだ。
二階の窓のカーテンが、一瞬だけ揺れた。視界の端でそれを捉えたけれど、リディアは何も言わなかった。
*
執務室の窓は、二階の南側にあった。
レオンハルトはカーテンの隙間から前庭を見下ろしていた。窓枠に手をかけたまま、もう十分以上動いていない。机の上には読みかけの書類が積み重なっている。徹夜で赤くなった目の下には、濃い隈が張りついていた。艶のある漆黒の髪は、無造作に後ろへ流されたまま乱れている。
門の前に馬車が並んでいた。数えると十二台。どの荷台も重そうに沈んでいる。領民たちが列を作り、歓声を上げていた。喉の奥から安堵の息が漏れる。これで冬を越せる。滞った支払いも、傷んだ橋の修繕も、なんとかなる。
それから、先頭の馬車の扉が開いた。
降りてきたのは、白金の髪の騎士に手を取られた小さな影だった。
ボサボサの栗色の髪。顔の半分を覆う大きな眼鏡。余った袖のようなレースの手袋。細すぎる体は、風が吹けば飛びそうに見えた。
レオンハルトは瞬きをした。
「……侍女、か?」
声が、掠れていた。
伯爵家の娘が嫁いでくる、と聞いていた。剣を取れば帝国でも指折りだと噂される、輝くような美人。亡き――いや、行方の知れない父と母が、伯爵家の娘を嫁にしたかったと語っていたのを覚えている。あの噂の女性が来るのだと、疑ったことさえなかった。
けれど、馬車から降りたのはあの少女ひとりだ。後に続くのは護衛の騎士と侍女たちばかり。他に降りてくる者はいなかった。
「何だ、あれは……」
背後で扉の開く音がした。
「大公爵様。奥様が、ご到着になりました」
家令のハインリヒが慇懃に頭を下げていた。
「あれが、か」
「さようでございます」
ハインリヒの声は淡々としていた。
「リディア・ヴェルナー様、十三歳。伯爵家の末のご息女とのことです」
十三歳。
レオンハルトは言葉を失った。自分は二十一歳だ。妻として迎える相手が、十三歳の少女。しかも、伯爵が寄越すと思い込んでいた娘とは、まるで別人だった。
「……なぜ、あの子なのだ。上の姉君が来るのではなかったのか」
「伯爵家からは、そのようなご説明はございませんでした。支援さえ受けられれば、領の安泰は約束されます。お相手がどなたであろうと、大公爵様のお務めに差し障りはございません」
ハインリヒはそこで言葉を切り、小さく頭を下げた。
「ご挨拶も、お部屋のご用意も、私どもで済ませます。奥様には、北の棟の静かなお部屋を。大公爵様は、お仕事を」
――お仕事を。
その言葉に、レオンハルトの視線は机の上の書類へ向かった。今日中に目を通さなければならない報告。返答を待つ取引の書簡。眠る時間は、昨日も三時間だった。
ショックと落胆と、それを押し流していく疲労。北の棟が屋敷のいちばん端であることは、分かっていた。分かっていて、彼は何も言わなかった。
彼は手を握ったり開いたりしてから、窓から目を離した。
「……任せる」
それが、最初の過ちだった。
窓の外では、小さな少女が石段をゆっくりと見上げていた。
*
案内されたのは、三階の北側の部屋だった。
「大公爵様のお部屋は、二階の南側でございます」
ハインリヒは、それだけを付け加えた。
長い廊下を歩きながら、リディアは歩数を数えていた。階段は二十八段。踊り場の窓が二つ。廊下の突き当たりの壁には、薄く四角い跡が残っている。かつて絵が掛かっていた場所だろう。空いた額縁の跡だけが、色の濃い壁に白く浮いていた。
扉が開く。
狭い部屋だった。小さな窓から差す光は弱く、午後の早い時間なのに隅には影が溜まっている。暖炉に薪はなく、冷えた空気が足元にわだかまっていた。寝台も机も椅子も、造りは悪くない。けれど角は欠け、塗りは剥げ、埃が薄く積もっていた。最近ついた傷ではない。三年前までは良い品だったものを、手入れせずに放っておいた傷だった。
「貧困ゆえ、行き届かぬところもあるかと存じますが」
「いえ」
リディアは部屋を一巡して見回してから、そう答えた。
「十分です」
ハインリヒの口元がわずかに緩んだ。満足げな笑みだった。
けれど、リディアが言ったのは「構わない」ではない。「確認が取れた」という意味だった。部屋の位置。広さ。家具の質。暖炉の薪。全部、頭の中の帳面に収まった。
重い扉が閉まり、家令たちの足音が遠ざかる。
誰も、動かなかった。
最初に口を開いたのは、ミーシャだった。
「……なあ。殴っていいか? 一発だけ」
「だめです」
「じゃあ、蹴るのは」
ミーシャの手は握った拳のまま、侍女服の脇で震えていた。
「ミーシャ」
ゼノンが、穏やかに言った。
「お嬢様の前だ」
リディアは窓際の椅子に座って、足をぶらぶらさせていた。床に届かない足先が冷たい空気を蹴る。
アルベルトが彼女の前で膝をついた。
「お嬢様。護衛として、あのような扱いを許しました。申し訳ございません」
「うん」
「……お怒りではないのですか」
リディアは少し考えてから、首を傾げた。
「怒る理由は、あるけど」
眼鏡のつるを手袋の指で軽く叩く。レンズの奥で、微かな光が揺れた。
「今日の分は、全部、記録できたから」
護衛たちは、黙って聞いていた。
「家令の言葉。侍女長の言葉。部屋の位置と広さ。家具の傷。暖炉の薪。大公爵が、出てこなかったこと」
一つずつ、指を折る。
「全部、いつから、どこが、おかしかったか並べられる。契約書と、照らし合わせる」
淡々とした声だった。怒りも悲しみもない。ただ、積み上げていく人の声だった。
護衛たちがそろって何かを飲み込んだような顔をした。理由は分からなかったが、リディアは聞かなかった。聞かれなかったことに答えないのと同じで、聞くのもあまり得意ではない。
「それと」
リディアがふと顔を上げた。
「お腹、すいた」
ヒルダが即座に動いた。
「ただちに、ご用意いたします」
「冷めてるかも」
「承知しております。革鞄に、温かいスープを」
革鞄から湯気の立つ鍋が取り出された。無限に近い収納と時間停止。重さのない鞄の中で、スープはずっと出来立てのままだった。
北向きの冷えた部屋に、あたたかな匂いが広がる。
リディアは手袋のまま木の椀を受け取り、一口飲んだ。
「……おいしい」
味に興味のない彼女が小さくそう呟いた。味の感想なのか、あたたかさへの感想なのか、本人にも分からなかった。
ただ、先代大公夫妻の顔がふと頭に浮かんだ。いつも温かいお茶を淹れて迎えてくれた二人。この屋敷のどこにも、あの笑顔はない。
リディアは椀の中身を静かに飲み干した。
窓の外の空は、もう夕暮れの色に変わっていた。
明日は、廊下の歩数を数えよう。屋敷の外観と内部の広さを照らし合わせて、間取り図を作る。案内がなかったのだから、自分で歩くしかない。
そして、その次の日には。
――森へ行こう。
黒のゲートの森を思うと、冷えた部屋の中で、リディアの口元がほんの少しだけ緩んだ。




