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第0話 黒のゲートと、戻らない大公夫妻

 魔物がわき出るダンジョンに繋がる、黒のゲート。

 黒い口は複数あり、そのひとつが、帝国の大公領にあった。

 ゲートの周囲には、決まって木々が生い茂る。幹は太く、枝は低く垂れ、昼でも森の底には薄暗い影が溜まっていた。黒のゲートから這い出た魔物は、その影の中を彷徨い歩く。人間の領域と魔物の領域を分ける境界線は、いつの時代もこの森だった。

 魔物は脅威であり、至宝であり、財産でもあった。

 その年の秋も、森の魔物の討伐は順調に終わった。毎年恒例の、大公家の務めである。討伐で得た魔物の素材と森の資源は、高値で取引される。大公領の運営資金は、それなりに潤沢だった。

 けれども、大公領の冬は厳しい。雪は深く、街道は閉ざされ、領民は長い季節を蓄えだけで耐えなければならない。守るべき者の数を思えば、蓄えは多すぎるということがなかった。冬が訪れるまでには、まだしばらく猶予があった。

 その朝、大公邸の前庭には、秋の澄んだ冷気が降りていた。馬のいななきと、金具の触れ合う音が響く。大公家専属の騎士団が、黒い外套を翻して整列していた。腕利きで名高い、ベテランたちだ。

 先代大公ヴィルヘルムは、鞍に手をかけて振り返った。がっしりとした体躯に、黒に白が混じり始めた髪。厳めしい顔立ちが、魔物の話をするときだけ、少年のように綻ぶ。

「もう少し、奥まで行ってくる」

 豪快な笑顔だった。

 傍らで、エレオノーラが穏やかに頷く。亜麻色の髪を緩く編んで肩に流した彼女は、深い青の瞳に、夫を見守る柔らかな光を宿していた。

「すぐ戻りますわ。冬が来る前に」

 それから彼女は、控えていた使いの者に、薄い封筒を差し出した。

「これを、いつもの宛先へ。新しい魔物のデータの写しも、添えてあるの」

「かしこまりました。伯爵家の、お嬢様へ」

「ええ。素敵なお嬢さんなのよ。うちのお嫁さんに来てくれたらと、思ってしまうくらい」

 封筒の宛名には、帝都のさらに先、世界一の大富豪の家名が記されていた。その屋敷の片隅で、研究者がひとり、魔物の資料に埋もれている。エレオノーラは、これまでに何度か顔を合わせ、言葉を交わした彼女の姿を思い浮かべていた。穏やかに話すのに、魔物の話になると瞳を輝かせる人だった。

 黒のゲートは、朝の光の中でも黒かった。光を吸い込むような、底のない闇だ。その前に立つと、秋の空気がひやりと肌を撫でる。

 ヴィルヘルムが先頭に立ち、エレオノーラがその隣に並んだ。騎士団が、規律正しい足並みで続く。黒い口が、一行を静かに呑み込んでいった。外套の裾が最後に消え、あとには風に揺れる枝の音だけが残った。

 消息は、そこまで。

 冬になっても、大公夫妻と騎士団は戻らなかった。春が訪れても、戻らなかった。夏になっても、戻らなかった。

 秋が近づいたある日、皇帝は、大公家の嫡男に大公の座を継承させた。

 レオンハルト・アイゼンベルク、十八歳。大公位を継ぐには、あまりに若かった。

 艶のある漆黒の髪に、深い青の瞳。「美しすぎる」と評される整った顔立ちは、父譲りの剣の才能と並んで、領内外の誰もが知るところだった。剣の腕はソードエキスパート。あと数年でソードマスターに届くと言われた、将来有望な後継者である。魔物の討伐を務めのひとつとする大公家にとって、これ以上望めない跡継ぎだった。

 けれども彼は、剣を振るうことばかりを優先してきた。領地運営に関しては、素人同然だった。一人息子だったことも、災いした。

 社交にも、背を向けてきた。

 年に一度、貴族全員に招待状が送られる、皇室主催の新年を祝うパーティ。貴族の子女は、十五歳を過ぎると、社交を学ぶために両親と共に出席するのが習いだった。けれどもレオンハルトは、帝都が遠いこと、いつ魔物が脅かしてくるか分からないことを理由に、参加を拒み続けた。

 実際には、別の理由があった。

 皇族に次ぐ身分の大公家。皇族と縁戚関係にあり、冬は厳しいが資金源には困らない領地。そして、美しすぎる風貌と、将来有望な剣の腕を持つ嫡男。令嬢が嫁ぐ相手として、これ以上の優良物件はなかった。幼い頃から、結婚を申し込む釣書が、山のように送られてきた。断っても、断っても、終わらなかった。

 嫌気がさした彼は、いつしか社交そのものを拒むようになっていた。

 大公夫妻は、息子の事情を汲み、無理強いをしなかった。それが親の優しさだった。

 けれども、そのすべてが、十八歳の若い大公にとって悪い方向に働いてしまった。

 多くのベテランを失った、大公家専属の騎士団。不手際の多い領地運営。見知らぬ顔ばかりの社交界。慣れない交渉。激減した収入。底をつきかけた資金。執務室の机には、読み切れない書類が積み上がり、蝋燭の火は夜が明けても消えなかった。

 三年が経つころには、大公領は困窮していた。救済策になるはずだった求婚は、いつの間にか途絶えていた。

 皇帝は、立ち上がった。

 縁戚である大公家。黒のゲートを内包する、帝国にとって要の地。見捨てるわけにはいかなかった。

 白羽の矢が立ったのは、世界一の大富豪だった。帝国では伯爵位を授かりながら、領地を持たぬ事業伯として知られる男。他国にも複数の爵位を所有し、束縛を嫌い、自由を愛している。

 伯爵にとって、黒のゲートを内包する大公領を支援するのは、やぶさかではなかった。先代大公夫妻が、好人物だったからでもある。

 そして彼は、ひとつだけ条件をつけた。

「娘を、嫁がせることを」

 その一言が、すべての始まりだった。




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