第18話 解呪と帰還
それから二日、リディアたちは灰色の広間を離れなかった。
ランタンの光は、輪の外までは届かない。だから、動くしかなかった。リディアが光を持って、立ち尽くす人々のそばへ寄る。輪の中に入った者から、少しずつ時間が戻っていく。
最初に目を覚ましたのは、ヴィルヘルムとエレオノーラだった。レオンハルトが袖留めの石を、二人の手に触れさせたからだ。銀の枠の中で白い光が脈打ち、止まった時間をゆっくりと押し戻していった。
数時間かけて、ようやく瞬きができるようになった。そこから指が動き、肩が動き、最後に声が出た。
「……レオ」
ヴィルヘルムの声はかすれていた。五年あまり使われなかった喉が、軋んでいる。
「父上」
レオンハルトは父の手を握ったまま、うつむいた。
「申し訳ありません。遅くなりました」
「何を言う」
ヴィルヘルムは息子の顔をまじまじと見つめた。
「大きくなったな。それにお前、痩せたな」
その大きな手が、ゆっくりと息子の頭に載せられた。
二日目には、アルベルトの祈りが膜の向こうに道を固定した。ヒルダたち四人が、荷を担いで入ってくる。
「待たせすぎだぜ」
ミーシャはそう言ってから、固まった騎士たちの顔ぶれを見渡した。それから、黙って毛布を配り始めた。
*
エレオノーラの視線は、息子の肩越しに、ずっとひとりの少女を追っていた。
リディアはランタンを床に置いた。それから、手袋に指をかけた。
右。左。繊細なレースの手袋が、白い蝶のように手から離れる。それを畳んで、膝の上に置いた。
武器はない。敵意もない。そう示す、古い礼儀だった。
「エレオノーラ様。ヴィルヘルム様。ご無事で、何よりです」
リディアは深く頭を下げた。
「まあ」
エレオノーラがゆっくりと笑った。
「あなたは昔から、そういうところが、きちんとしているわね。でも」
彼女はまだ上手く動かない指で、リディアの小さな手をそっと包んだ。
「そんな他人行儀は、いらないわ。来てくれたのね、リディア」
リディアは少しのあいだ、何も言えなかった。やがて、小さく言った。
「奥様の、最後の手紙。届いて、いません」
「え?」
「データの写しと、一緒に書いてくださったもの。……届きませんでした」
エレオノーラの表情がわずかに曇った。ヴィルヘルムが息子の顔を見た。
「どういうことだ」
「調べています」
レオンハルトが静かに答えた。
「後で、ご説明します」
「それより、どうしてリディアがここにいる」
ヴィルヘルムがまだ動かない体で、声だけは昔のままに言った。
「ヴェルナー家の末娘が、こんな深層に」
「大公爵夫人として、嫁ぎました」
リディアは淡々と答えた。
「支援のために。一年と少し前です」
時間が止まったような沈黙が落ちた。
ヴィルヘルムとエレオノーラが同時に、レオンハルトを見た。
レオンハルトはゆっくりと頭を下げた。
「私の妻です。書類の上では」
「まだ十四歳だぞ」
ヴィルヘルムの声が低くなった。
「お前、何を」
「そういう結婚では、ありません」
リディアはあっさりと言った。
「契約です。大公領の支援のための。それも、あと四週ほどで、離婚予定です」
エレオノーラの手が、リディアの手をきゅっと握った。
「……詳しく、話してちょうだい。最初から。全部」
リディアは記録を引き出すように、一年と少しを順番に話した。到着の日。北の端の部屋。冷めた食事。二百三十一回の決まり文句。買い叩き。大公爵が一度も会いに来なかったこと。
感情は混ぜなかった。事実だけを並べた。
話し終えたとき、エレオノーラは両手で顔を覆っていた。ヴィルヘルムは握った拳を床に叩きつけかけて、ぎりぎりで止めた。
「……お嫁にと願っていたのは、私たちだった」
エレオノーラが震える声で言った。
「年が近ければ、と。あなたにそう言っていたのは、私たちなのに」
「先代の、せいではないです」
リディアは静かに首を振った。
「ご両親は、悪くないので。顔を上げてください」
ヴィルヘルムが深く頭を下げた。この国の、先代の大公が。
「すまなかった」
「それは、レオンハルトの務めを、取ってしまうことになるので」
リディアはちらりと、息子のほうを見た。
「謝罪は、本人に、してもらいました」
*
三日目の夕方、アルベルトが広間の中央に膝をついた。
束ねられた金色の糸の結び目の前。両手を組み、静かに祈りを捧げる。神聖魔法の光が、結び目の隙間にゆっくりと染み込んでいく。
ひと呼吸ごとに、糸が一本、ほどけた。
四十六本のすべてがほどけたとき、広間の灰色がふっと薄れた。
色が戻った。壁の石の色。血の赤。騎士たちの外套の黒。止まっていた埃が、ゆっくりと床に降り始める。
空間の裂け目が、静かに閉じた。
広間の中央で、巨大な亀の骸がさらさらと灰になって崩れていく。五年あまり止まっていた時間が、一度に流れ出したのだ。
騎士たちが次々と膝をついた。それをヒルダたちがすかさず支える。ゼノンがひとりずつ声をかけながら、毛布を掛けていく。
アルベルトは祈りを終えて、静かに息を吐いた。
「……終わりました」
その顔は、少しだけ泣いているように見えた。
*
その夜、広間の隅で、リディアはランタンのそばに座っていた。
目を覚ました騎士たちは毛布にくるまって、ようやく眠りについている。ヴィルヘルムとエレオノーラも寄り添って、静かな寝息を立てていた。
足音が近づいた。
レオンハルトだった。彼はリディアから少し離れた場所に腰を下ろした。
「少し、いいだろうか」
「はい」
リディアは手帳を閉じた。
「私からも、言っておきたいことが、あります」
彼は小さく目を見張った。
「……何を」
「あなたのこと」
リディアはランタンの光を見つめたまま、淡々と話し始めた。
「あなたは、頑張れる人です」
レオンハルトは息を止めた。
「私は、ひとりでは、何もできません。ここまで来られたのも、父と、姉と、護衛の五人と、素材を買ってくれる人と、道具を買ってくれる人がいて。他にもたくさんの人に、助けてもらってるから」
一語ずつ、確かめるように続ける。
「あなたは、ご両親を突然失って、頼れる人がいなかった。筆頭の使用人は、あの三人だった。その中で、十八歳で家督を継いで、何年も、ひとりで堪えた。私には、できないです」
「リディア」
「結果は、領地の衰退。外交を怠ったこと。領主の勉強を後回しにしたこと。それは、あなたの責任です。でも」
彼女はそこで一度、言葉を切った。
「突然、ご両親を失って、十八歳で、全部を背負わされた。そのことは、十分、情状酌量の範囲だと思います」
レオンハルトの喉が動いた。
「努力は、認めます。偉いと思ってる」
慰めではなかった。ただの事実の報告だった。
「でも、信用は、ゼロのままです」
リディアは淡々と続けた。
「ご両親を助けるまで、あなたは、借りを増やすだけ。私にとっては、一方的な貸し付けです。謝罪も、書面も、規則も、当然のこと。……だから、離婚は、予定どおり進めます」
「……分かっている」
レオンハルトは静かに頷いた。
「それが当然だ。あなたの言葉に、間違いはひとつもない」
彼は少しのあいだ黙っていた。それから、ゆっくりと言った。
「私が持っているのは、爵位の重責だけだ。それで手一杯で、あなたに返せるものが今は何もない」
「はい」
「両親が戻った。領の務めは、父がまた担ってくれるだろう。そうなったとき、私はあなたに借りを返したい。返済の話ではなく、対等に話をさせてほしい」
リディアは少し考えた。
「そのとき、考えます」
それが彼女の答えだった。約束ではない。けれど、拒絶でもない。
「……ありがとう」
レオンハルトは深く頭を下げた。
*
帰り道は、十一日かかった。
四十六人の体は、止まった時間に慣れすぎていた。一階層ごとに休み、休憩部屋で眠り、ゆっくりと上へ向かう。ランタンの光に、全員は入りきらない。だから、光の中の者が帰巣の線を読み、後ろへ手の合図で順に伝えていった。足を引きずる騎士たちも、その列についていれば迷わなかった。
約束の十四日は、とうに過ぎている。
夜明け前、大公領の黒のゲートが、内側から静かに開いた。
最初に出てきたのは、ミーシャだった。続いてノワール。その後ろから、白い外套の聖騎士に支えられた黒髪の男が、一歩、地面を踏んだ。
祠の前には、人の群れが集まっていた。
大公家の騎士団の残り。片腕に古傷のある中年の騎士と、年若い見習いたち。領民。オットー。そして、皇帝の使者の旗。
十四日を過ぎた日、オットーは約束どおり、報せを送っていたのだ。
誰も声を出さなかった。
ゲートの黒から、ひとり、またひとりと、黒い外套の人影が姿を現した。ヴィルヘルム。エレオノーラ。そして、四十四名の見覚えのある顔。
中年の騎士が膝から崩れ落ちた。
「……閣下」
五年ぶりの声だった。
歓声が森に響き渡った。
リディアはその輪から少し離れた場所に立って、それを見ていた。ポシェットの重さのない感触。ランタンの小さな光。
背後から、エレオノーラの手がそっと肩に置かれた。
「ありがとう、リディア」
リディアは黙って頷いた。
それから、手帳を開いた。離婚届の猶予は、あと二週。それが終われば、時間が自由になる。
ダンジョンの底は、他の黒のゲートへ繋がっている。使える道が、またひとつ増えた。
――次は、どこのゲートへ行こう。
朝日が東の空から、森に差し込み始めていた。




