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第17話 異空間の夫妻と騎士団

 空間の裂け目は、広間の中央、亀の甲羅の真上に浮かんでいた。

 縦に長い楕円。薄い膜のように揺れ、向こう側の景色がぼんやりと透けている。そこへ、広間じゅうから集まった金色の糸が、ひとつ残らず吸い込まれていた。

 リディアはその手前の床に膝をつき、手帳を広げた。

「入れるのは、三人」

 彼女は鉛筆の先で紙を叩きながら言った。

「私と、アルベルトと、レオンハルト。糸が呪いの縁にあたるから、血縁の人がいたほうが、道が開きやすい。ほかの四人は、ここに残って」

「お嬢様」

 ヒルダが一歩前に出た。

「私どもは、お嬢様のお側を離れないのが務めでございます」

「分かってる。でも、中の広さが分からない。大勢で入ると、糸に絡まる人が増える」

 リディアはヒルダの目をまっすぐに見た。

「ここが、帰る場所。ヒルダたちが、待っててくれるから、私は、安心して入れる」

 それは、いつもの淡々とした声だった。けれど、ヒルダはほんの少しだけ目を見開いて、それから、深く頭を下げた。

「……承知いたしました。必ず、お戻りください」

 ゼノンが静かに言い添えた。

「大公爵様。袖留めは、外れておりませんな」

 レオンハルトは両袖口の石を確かめて頷いた。

「ああ」

 アルベルトが胸の前で祈りの形を取る。ミーシャとノワールは扉の脇に立ち、何があっても三人を引き戻せる位置についた。

 リディアが最後の確認をしているとき、ヒルダはレオンハルトを呼んだ。

「お嬢様は、怪我をなさることがお嫌いだ。臆病だからと言ってしまうのは簡単だ」

 静かに言い聞かせるように、ヒルダは言った。

「お嬢様は、一度経験したら、忘れることができない。怪我を負ったときの感触も、痛みも、忘れることができない。対策はしている。今回のことも、大公爵様のためだけに、動いたわけではない」

 ヒルダは、ぐっと目をつむり、すぐに見開いて、レオンハルトをまっすぐ見つめた。

「ここに残る私に代わり、お嬢様を守り抜いてほしい」

「はい。命にかけても」

 その返事が、裂け目へ入る合図になった。

 リディアはポシェットから月梟のランタンを取り出した。蓋を開ける。乳白色のやわらかな光が、広間の暗がりを押し広げた。

「光の中から、出ないで」

 それだけを、リディアは言った。

 三人はひとつの光の輪に収まって、裂け目へ足を踏み出した。

  *

 膜に触れた瞬間、音が消えた。

 冷たくも温かくもない。ただ、世界からすべての響きが抜けていく感覚。足が床に着いているのか分からない。リディアはランタンの柄を握りしめた。手のひらの中で、光だけが確かに脈打っている。

 次の瞬間、足が石の床を踏んだ。

 そこは、灰色の広間だった。

 さっきまでいた部屋と同じ形をしている。同じ壁。同じ天井。けれど、色がなかった。影もない。すべてが薄い灰の霧の中に沈んでいる。

 空中に埃が浮いていた。一粒。二粒。落ちもせず、舞いもせず、そこに留まっている。

「……時間が、止まってる」

 リディアが小さく呟いた。

 その声は、不思議なほどはっきりと、光の輪の中に響いた。光の外へ出ようとした声は、空気に溶けてすぐに消える。

「光の輪が、守ってくれてる」

 彼女はすぐに分かった。ランタンの消音は、外の音を消すのではなく、輪の中の音を輪の中に留める効果だった。ここでは、それが命綱になる。

 鎮痛と解毒。光の中にいる限り、停滞の枷の冷たさが体に届かない。

 光の外に、一歩でも出れば――。

 リディアは床に落ちた小さな石を、光の外にそっと投げてみた。

 石は空中で止まった。

 誰も何も言わなかった。

  *

 ランタンの光の線が、全員の足元から同じ方向に伸びていた。

 帰巣。

 最後に安全だった場所を、指し示す。

 その線は広間の外へ向かっていた。扉の向こう。昨夜、全員が眠った青い紋の休憩部屋のほうへ。

「……そうか」

 リディアは気づいた。

 糸は、自分たちの足元だけを通っているのではなかった。広間の奥へ向かって、金色の糸が何本も、何本も、浮かび上がっている。その先には、動かない人影が立っていた。

 騎士たちだった。

 黒い外套。大公家の紋章。剣を構えたまま、盾を掲げたまま、後ろを振り返ろうとしたまま。四十四人が灰色の霧の中に、立ったまま固まっている。

 リディアは光の輪を寄せていった。輪の縁に触れた騎士の足元から順に、新しい光の線が伸びる。そのすべてが、同じ方向を指していた。

 あの扉の外。青い紋の休憩部屋。

 彼らが最後に安全だったのは、昨夜、リディアたちが眠ったあの部屋だったのだ。

「……あの部屋で、眠ったんだ」

 レオンハルトが掠れた声で言った。

「討伐の前の夜。……父上と、母上が」

 リディアは何も言えなかった。ただ、ランタンを持つ手に力がこもった。

  *

 広間の中央、巨大な亀の骸の前に、二人が立っていた。

 大柄な男。黒に白が混じり始めた髪。振り上げた黒鋼の剣が、亀の首の付け根に半ばまで食い込んでいる。その横顔は、豪快な笑顔のまま凍りついていた。

 その後ろに、女性が一人。亜麻色の髪をゆるく編んで肩に流している。両手を前に差し出し、淡い光の障壁を張りかけた姿のまま、動かない。

 ヴィルヘルムと、エレオノーラ。

 レオンハルトの足が止まった。

 彼はゆっくりと、一歩、また一歩と近づいた。ランタンの光の輪が、彼の歩みに合わせて二人のほうへ寄っていく。

 光が、母の指先に触れた。

 その瞬間、エレオノーラのまつ毛がわずかに動いた。

 まばたき。

 それは、途方もなくゆっくりとした動きだった。まつ毛が一度下がり、また上がる。その一往復に、一分近くかかっている。

 けれど、確かに生きていた。

「……母上」

 レオンハルトの声が震えた。

 エレオノーラの瞳が、ゆっくり、ゆっくりと光のほうへ向けられる。深い青の瞳が、息子の顔を探すように動いた。

 その口が動き始めた。

 音は聞こえない。けれど、唇の形がひとつずつ、ゆっくりと形を作っていく。

 ――レ。

 ――オ。

 レオンハルトはその場に膝をついた。母の手を両手で包み込むようにして、握る。冷たい指先が、ほんのわずかに握り返した気がした。

 彼は声を殺して泣いた。

 リディアはその光景を、少し離れたところから見ていた。

 邪魔をしてはいけないと思った。けれど、目が離せなかった。母の目が、息子の顔を見つめている。まつ毛がまた、ゆっくり下がる。上がる。

 それから、その瞳がふと動いた。

 息子の肩越しに。ランタンを持った、小さな少女へ。

 深い青の瞳が、ゆっくり、ゆっくりと、リディアを捉えた。

 眼鏡の奥の琥珀色の瞳と、目が合った。

 その唇が再び、動き始めた。

 ――リ。

 ――デ。

 ――ィ。

 リディアの喉がひくりと鳴った。

 覚えていてくれた。この一瞬の、ほんの短い間にも。

「……奥様」

 声が掠れた。頭の中の帳面が、真っ白になった。何を言えばいいのか、分からない。

「お久しぶりです」

 それが精一杯だった。

 エレオノーラの目が、ほんのわずかにやわらかく細められた。

  *

 アルベルトが静かに、リディアの隣に膝をついた。

「リディア様」

 彼は小声で言った。

「糸を確認しました」

 その掌の上に、神聖魔法の光が淡く広がっている。その光の中で、金色の糸が浮かび上がっていた。四十六本。それぞれが、それぞれの人影の胸元から伸びて、広間の中央、空間の裂け目の真下で、ひとつに束ねられている。

「本体は、あの結び目です」

 アルベルトは束ねられた一点を指した。

「ここを解けば、すべての糸が緩みます。一本ずつでは、絡まって、かえって締まります。解呪は、結び目から」

「時間は」

「一人ひとりの体が、止まった時間に慣れすぎています。急に動かすと命に関わります。光の中で、ゆっくり、数日をかけて」

 リディアは頷いた。頭の中で、計算が始まる。必要な時間。必要な準備。ここから先は、慎重にやらなければならない。

 けれど、その前に。

 彼女はランタンを、そっと母子のほうへ掲げた。光の輪が、親子三人をやわらかく包み込む。

 父、ヴィルヘルムの指先がぴくり、と動いた。

 ゆっくり。ほんの少し。

 剣を握った手の、小指が。

 レオンハルトが顔を上げた。涙で濡れた目が、リディアを見た。

「……ありがとう」

 それは、これまでで、いちばん深い声だった。

 リディアは小さく、首を横に振った。

「まだ、全員は、助けてない」

 そう言ってから、少し考えて、付け加えた。

「でも、……始まった」

 ランタンの光の中で、止まっていた時間が、ほんのわずかに動き始めていた。




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